県税補助金     改訂14版:2007/12/12

 江戸時代には見沼代用水や葛西用水は幕府の直轄であり、施設の維持のために用水方普請役などの
 役人が置かれ、改築工事を担当していた。治水においても利根川などの重要河川には、
 幕府が直接土木工事を担当する定掛場(じょうがかりば)という制度が存在した。
 もっとも工事費用の全額を幕府が負担したわけではなく、工事材料の分は幕府やその区域の領主が
 負担し、工事人足は夫役として、地元から動員されていたようである。
 明治時代の初期までは、大規模な河川や用水路に関する普請(建設・改築工事)は、
 おおむね江戸時代の慣習が引き継がれていて、工事経費の大半は国費で賄われていた。
 国庫財政と地方財政は明確に区分されていたが、重要河川や用水路の工事に関しては
 国からは国庫下渡金が交付されていた。

 ところが明治政府は明治13年(1880)に、それまで官費で負担していた河川や用排水路の普請に
 関する経費を民費負担に改め、国費の支出(国庫下渡金)を打ちきった。
 いわゆる松方デフレ政策の一環である。この政策は赤字の続く国家財政を立て直すために、
 歳出を抑制することを意図したものだが、実質的には本来、国家が負担すべき行政費までも
 地方へ転嫁するものであった。その結果、利根川、江戸川、荒川をはじめ大小さまざまな河川や
 用排水路をかかえ、なおかつ水害の常襲地でもあった埼玉県は、河川の維持改修費が莫大となり、
 財政が圧迫されることになる。一方、松方デフレの大不況によって農村では土地を手放す農民が増え、
 小作農に没落する者(当時の小作料は約60%と非常に高額だった)や離農して低賃金労働者となる者が
 急増した。こうして土地の所有は大地主に集中し、彼らは寄生地主と化していった。
 明治17年(1884)に勃発した秩父事件(秩父困民党の蜂起)は、このような時代背景下で起こった。
 農村から大量に供給される低賃金労働者をもとに都市部では企業の勃興が相次いだ。
 松方デフレ政策によって戦前の日本資本主義の基盤が生成された。

 松方デフレという緊縮財政下、明治15年(1882)に埼玉県は、第一回県議会(明治12年)で制定されていた
 土木費規則を情勢に合わせて改正した。これによって、河川に関して地方税で支弁する(県の土木費を
 充てる)のは、主要16河川の堤防修築工事のみとされ、堤防に布設する樋門は支弁の対象外となった。
 ただし16河川に設ける樋門へは人夫賃金に限って補助金が与えられた(材料費は地元で負担せよ、
 ということであろう)。16河川とは以下のとうり。
  利根川、渡良瀬川、権現堂川、江戸川、烏川、神流川、小山川、庄内古川(現在の中川、下流部)、
  荒川、入間川、越辺川、高麗川、都幾川、市野川、新河岸川、柳瀬川
 ただし、規則には例外があり、水害により堤防や樋管が破壊され、その修復費用を町村では
 全額負担しきれない場合には、災害復旧費として県から補助が与えられた。
 土木費規則では、16河川以外の中小河川の堤防工事と樋管工事については、県の管轄事業ではなく、
 町村の土木事業に位置づけられ、新たに町村土木補助費の規定が設けられている。
 つまり、地元の堤防や樋管は自分達で(町村や組合の負担で)修築・管理せよということであった。

 また明治15年には、埼玉県会から県令に宛てて水防組合改良の建議書(陳情書)が提出されている。
 これは県財政を圧迫している治水費を官民相互が協力して負担しようという主旨のものだが、
 (→埼玉県議会史 第1巻、埼玉県議会、1956、p.430)、実質的には水防費の地元民負担を期待するものであった。
 明治10年代になっても、近世からの慣行である普請組合や藻刈組合は旧来のままに存続していた。
 これらは利害を共にする地元民で構成されていたが、利水だけでなく水害予防の組合を兼ねることも
 多かった。河川の浚渫・藻刈はその維持管理上の重要な作業だが、16河川以外の河川についての
 浚渫・藻刈には県からの補助はなく、組合の自己負担でおこなわれていた。
 浚渫を怠り、仮に河床に土砂が1m堆積した場合、それは堤防の高さが1m低くなったのと同等である。
 治水上、非常に危険な状態となるだけでなく、利水においても取水口が土砂で埋没してしまい、
 充分な取水が得られない可能性が生ずる。しかし、浚渫・藻刈に関する地元の負担は大きく、
 埼玉県議会には県費での実施を要求する請願が、再三に渡り提出されている。
 結局、河川の浚渫に対して県費の支弁が実施されるのは明治39年からである。
 土木費支弁規定に”河川及悪水路ノ浚渫工事ニシテ公益上特ニ緊切ノ関係アリト認ムルトキハ
 其ノ区域ヲ以テ支弁”の条項が加えられた。

 明治18年(1880)7月には利根川水系を中心に水害が発生し、周辺地域に大きな被害を与えた。
 その水害復旧費を審議する臨時の埼玉県議会の席上では、埼玉県会議長から内務大臣 山縣有朋に宛て、
 ”四大川ノ土木費ヲ国庫支弁トナスノ建議”が提出されている。これは利根川、荒川、権現堂川、江戸川の
 改修に関する費用を国庫負担とすることを請願したものだ(→埼玉県議会史 第1巻、埼玉県議会、1956、p.692)
 つまり、埼玉県単独では工事費用の負担が不可能であり、充分な河川改修は実施できない。これらの
 河川は他県を流れる区間も多いので、国が水系一貫の治水対策を施すべきだという趣旨である。
 この建議は内務大臣の目にはふれたが、結局、国からの補助金の交付はなかった。
 この当時、利根川、権現堂川、江戸川は一等河だったが、まだ荒川、渡良瀬川は二等河だった。
 明治30年代には、埼玉県の年間予算に占める土木費の割合は約1/2にまで
 膨らんでいた(土木費の支出が歳入の約半分)(→埼玉県議会史 第2巻、埼玉県議会、1956、p.729)

 このような背景のもと、煉瓦造りの樋門は県営事業ではなく町村土木事業として、
 受益者(地元民)の負担で建設された。煉瓦樋門が出現するのは明治20年(1887)からだが、
 それまでの樋門の大半は木造だった(ごくわずかだが明治初期から石造りも建設されている)。
 既設の木造樋門を煉瓦造りへと改良するので、改良樋門工事と称された。
 しかし、社会構造の変化や多発する水害のために樋管改築の需要は多く、増大する樋管建設費は
 地元の負担のみでは賄えるものではなかった。建設費には村の土木費と地元民の寄付金を充て、
 不足分は埼玉県からの補助金(町村土木補助費)を得ている。
 補助金が得られたとはいえ、煉瓦樋門の建設費は多額だったようで、資金を工面するために
 村の共有地を売却したり、それでも足りない場合には銀行からの借入金で対処したとの記録も残っている。
 建設及び補助金の申請は、樋門の管理者である村長や郡長が行なった。

 日清戦争勃発直後の明治28年(1895)には、町村土木補助費の支弁規定が改訂され、第四条として
 樋管ノ修繕及伏替に関する条項が加えられた。これによって煉瓦・石等の不朽材料を用いた樋門工事への
 補助率は、総工費の4割〜6割と定められ、木製の3割〜5割に対して高率となっている。
 ただし、対象となるのは上述の16河川に新たに7河川(身馴川、和田吉野川、槻川、小畔川、
 綾瀬川、大落古利根川、元荒川
)を加えた23河川の堤防に設ける樋管のみであった。
 (→埼玉県議会史 第2巻、1958、p.344)。追加された7河川については県議会へ民間からの
 建議(意見要望書)や陳情が相次いだために、新たに支弁対象となったのである。
 例えば、大落古利根川については、古利根川資格格上願(→埼玉県行政文書 明1779)が残っている。
 さらに支弁規定の第五条には”町村又ハ公共組合ノ出願ニ依リ其工費十分ノ五以下 地方税ヲ以テ
 補助スルコトアルヘシ”の条文があり、対象工事として”公益ノ為メ新設又ハ改良スル工事ニシテ
 五百円以上ヲ要スルモノ”と記されている。この条項を適用すれば、23河川以外の用悪水路に
 設けられた樋門でも、補助金を得て煉瓦で改良することが可能だったと思われる。

 なお、支弁規定の改訂以前から、荒川や入間川などの16河川(治水重要度が高い河川)では、
 樋門を木造から煉瓦造りへ改築する場合には、高率の県費補助が与えられていたようである。
 例えば、明治22年の埼玉県議会では、台山門樋(市野川〜荒川、吉見町、明治24年)の改良工事に対して
 建設費の6割を補助することが可決されている(→埼玉県議会史 第1巻、1956、p.952)
 また、川島領に建設された釘無樋管(明治24年、入間川)、川島門樋(明治28年、荒川)、
 横塚門樋(明治28年、入間川)でも建設費の6割の県費補助が得られたようである(→文献56、p.280)
 埼玉県が明治15年(1882)に制定した土木費規則をそのまま適用すれば、釘無樋管は16河川に
 設ける樋管なので、県費の補助が得られるが、それでも人夫賃金だけの補助のはずである。
 釘無樋管の総工費は約5,990円であり、人夫費は約1,150円(全体に占める割合は約19%)だった。

 木製の樋門は老朽化が激しいので耐用年数も短く、14〜15年毎に伏せ替え(完全改築)が必要であった。
 当時は大河川であっても近代的な河川改修はおこなわれておらず、2〜3年毎に大規模な洪水に
 遭遇していたので、木製の樋門は頻繁に大破し、その修復に煩わされた。
 そのため、樋門は耐用年数が来る前に洪水で完全に破壊されてしまうことも珍しくはなかった。
 樋門の復旧工事費として工面した借入金の償還が未済なのに、再び樋門の復旧工事を実施しなければ
 ならないことも多々あった。復旧工事費は樋門が破壊されなければ、本来は不要な金である。
 煉瓦造りの樋門は、木製の樋門に比べて建設費は高くなるが、高率の補助が望めること、
 頑丈なので数年毎の修復や伏せ替えが不要なことから、人生が50年だった時代には魅力的な存在で
 あったと思われる。実際、建設後100年が経過しても、今なお現役で活躍している煉瓦樋門が多い。
 建設申請書や竣工記念碑に記された、永久不変や堅牢という言葉には当時の人々の煉瓦樋門への願いが
 表れている。煉瓦樋門の建設を契機に、水功組合や水利組合(現在の土地改良区)が結成された例も多い。

県税補助金の記録

 当時の石碑(樋門の建設を記念して建立)には、建設費の内訳が記されたものがある。

 倉松落大口逆除之碑

 堰樋改築碑銘(行田市皿尾)
 備前渠圦樋  明治19年(1886)
   
備前渠改閘碑記(びぜんきょかいこう)(1903年建立)
   縣の出金  9,800円
   民の出金 10,000円  (*)総工事費に占める補助金の割合は49%

 柴山伏越  明治20年(1887)
   
柴山伏越改造之碑(1887年建立)
   費総計 15,396円
   縣官下 9,054円+2,126円
   府官下 4,216円  (*)総工事費に占める補助金の割合は100%(県税補助は73%)

 倉松落大口逆除  明治24年(1891)
   
倉松落大口逆除之碑(1892年建立)
   経費 3,830円
   (*)費用は組合の地主に課し寄付金を募り、県税の補足を仰ぐとある


 庄内古川門樋  明治24年(1891)
   
庄内古川門樋碑(1896年建立)
   経費 11,200円
   (*)経費は組合地所持主に課し又篤志家の寄付金を募り、その補足を官に乞へりとある


 神扇落樋管  明治30年(1897)
   
民被其沢(1897年建立)
   全費 4,500円
   (*)費用は、請之官、官助以過半之費とあり、総建設費に対して50%以上の補助金が得られたようである


 騎西領用水堰  明治31年(1898)
   
騎西領用水堰之碑(1899年建立)
   経費総額 2,480円
   組合支出 1,658円
   県税補助  821円  (*)総工事費に占める補助金の割合は33%


 安戸落伏越  明治31年(1898)
   
中郷用水路 安戸落伏越(竣工銘板?)
   経費総額 2,216円
   組合支出 1,210円
   県税補助 1,005円  (*)総工事費に占める補助金の割合は45%


 八幡堰  明治32年(1899)
   
八幡堰改修記念碑(1899年建立)  (*)総工事費の半額を官が負担したとある

 皿尾地区の煉瓦樋門群 (外張堰、松原堰、堂前堰、久保樋)  明治34年(1901)
   
堰樋改築碑銘(1903年建立)
   合金     5,805円65銭
   縣税補助金 2,888円94銭
   皿尾土木費  584円43銭
   地主出金  2,332円27銭  (*)総工事費に占める補助金の割合は50%

 笠原堰  明治35年(1902)
   
笠原堰沿革之略記(1902年建立)
   経費総額 6,568円
   組合支出 2,733円
   県税補助 3,835円  (*)総工事費に占める補助金の割合は58%

 見沼代用水元圦  明治39年(1906)
   
見沼元圦改築之碑(1907年建立)
   総費金 54,867円
   縣出金 21,545円
   府出金  4,330円
   残りの28,992円は水組合と町村が負担  (*)総工事費に占める補助金の割合は47%(県税補助は39%)

 瓦葺掛樋  明治41年(1908)
   
改修懸樋碑記(1910年建立)
   資金  39,182円
   縣出金 11,295円
   府出金  4,225円
   残りの23,662円は水組合と町村が負担  (*)総工事費に占める補助金の割合は40%(県税補助は29%)

 八間堰閘  大正3年(1914)
   
改修八間堰閘碑記(1916年建立)
   費総計  17,301円
   縣出金 2,872円
   府出金  895円
   残りの13,534円は水組合が出資  (*)総工事費に占める補助金の割合は22%(県税補助は17%)


 末田用水圦樋  大正4年(1915)
   
改良樋管記念碑(1914年建立)
   総工費額   8,903円
   縣費補助額 2,455円  (*)総工事費に占める補助金の割合は28%

 男沼樋門  大正6年(1917)
   
男沼樋門改修之碑(1918年建立)
   総工費額  10,050円
   国庫補助  6,700円
   県補助   1,434円
   残りの1,916円は区民が出資  (*)総工事費に占める補助金の割合は81%(県税補助は14%)

  (参考1)明治40年以降の県税補助率が低い理由
   明治39年に町村土木補助費の支弁規定が改訂され(→埼玉県議会史 第3巻、埼玉県議会、1960、p.135)、
   町村の負担額が地租の1割を超過した場合のみ、その超過分に限って最大5割を
   補助するとなったためである。県の土木費が膨大であり、乱費濫出の傾向を
   矯正するための改正である。

  (参考2)当時の物価(値段史年表、朝日新聞社、1988による)
   小学校教員の初任給 8円(明治30年)
   巡査の初任給 9円(明治30年)
   銀行の初任給(大卒) 35円(明治31年)
   国家公務員(高等文官)の初任給 50円(明治27年)
   国会議員の年間報酬 2,000円(明治32年)
   総理大臣の年棒 12,000円(明治43年)


時代背景(国内での各種法令の制定)

 明治23年(1890)、水利組合条令の公布:
  明治時代中期までは、近世の名残である用水組合(普請組合や藻刈組合)が、旧来の
  慣行のままに存続していた。用水組合は村落共同体を基盤として、自然発生的に成長し、
  組合内外の利害を調整しながら、維持運営されてきたのだが、それらを地方制度の
  枠組みの中に入れるために、市制・町村制の別法として公布されたのが水利組合条例である。
  水利組合条例は突然、交付されたわけではなく、それ以前に水利土功会規則などが
  明治17年に制定され、旧組合は法的に公認されていた。
  水利組合条例では、普通水利組合と水害予防組合の設立が認められていた。
  水害予防組合は名称のとおり、水害の予防・防御を目的とした組織だが、
  地域の当該者は任意加入ではなく強制的に加入させられ、組合費納入の義務を負わされた。
  普通水利組合、水害予防組合共に、組合の管理者は郡長や町村長であり、
  代議制が導入され、近代制度下での公的な性格が前面に打ち出されている。
  ただし、普通水利組合においては、社会背景として地租改正によって
  土地所有者と耕作者とが明確に分離される状況が形成されていた。
  特筆すべきは川島領の対応の早さで、水利組合条例が公布された年の七月には、
  川島領悪水普通水利組合を結成している(→文献56、p.276)。
  複数の村々で構成されていた領という水防・用水組合が、近代的な組織へと
  再編成されたのである。川島領では埼玉県の煉瓦造り水門建設史の初期から、
  数多くの大規模な水門が施工された。それらの逆流防止水門は、
  川島領悪水普通水利組合によって建設されたのである。

  川島領では組織の名称は普通水利組合であるが、活動内容は治水に重点が置かれ、
  水害予防組合と不可分である。当時は治水と利水は完全に分離されてはいなかった。
  このことは法制度(水利組合条例は内務省の所管)や社会制度からも推察できる。


 明治29年(1896)、河川法の制定:
  従来まで都道府県の管理とされてきた大河川が国の直轄となった。
  極言すれば、この河川法では国家が河川を管理する目的は治水のみであった。
  したがって、河川改修もこれまでの低水(利水・水運)重視から高水(洪水予防)重視へと切替えられた。
  これにより、埼玉県の4大河川:利根川、荒川、権現堂川、江戸川の高水工事へは、
  国費が支出されることになった。つまり、河川改修費で圧迫されていた埼玉県の土木事業費には
  余裕ができたと思われる。明治30年には、砂防法と森林法も制定(いわゆる治水三法)されている。
  埼玉県会は河川法の制定の直後の明治29年12月に利根川と荒川の治水工事への国庫補助の
  申請を請願している。(→埼玉県議会史 第2巻、埼玉県議会、1958、p.467)
  しかし、内務省直轄の河川改修事業は遅々として進まず、抜本的な工事が開始されたのは、
  明治時代も終わり頃であった。明治43年の大洪水によって関東地方が大被害を被った後、
  利根川(第三期改修)と荒川への本格的な高水工事が開始された。
  なお、河川法では水利権に関する規定が設けられたが、河川からの農業用水の取水については
  新たな基準は設けられず、既に取水をしているものについては旧来からの既得権として
  認められ、慣行水利権として扱われた。当時の国策との兼ね合いもあったのだが、農業用水の
  取水とは専制国家の権力をもってしても、介入できなかった権利だといえる。
  国家による河川管理の目的として、新たに利水が加えられるのは、昭和39年(1964)に
  制定された新河川法によってである。

 明治32年(1899)、耕地整理法の制定:
  農商務省の所管。同法に基づき埼玉県内でも耕地整理事業が展開され、事業(農地と
  用排水施設の整備)に対して、1901年から補助金を交付している。一方、農商務省が耕地整理に
  対して開補助金の交付を始するのは、埼玉県に遅れること7年後の1908年からである。
  埼玉県で最初におこなわれた耕地整理は、1900年5月に竣工した北埼玉郡
太田村小針
  (現.行田市小針)地区の事業である。以降、1901年に北足立郡鴻巣町・常光村(現.鴻巣市)、
  1902年には北埼玉郡広田村・屈巣村(現.川里町)、北埼玉郡星河村(現.行田市斎条、谷郷)と
  相次いで耕地整理が竣工している。(→埼玉県史
 通史編5 近代I、p.847)
  ただし、以下の地区の竣工年については曖昧な点も多く、広田村・屈巣村が1903年6月、
  星河村と北河原村が1905年12月とも記録されている(→埼玉縣北埼玉郡史、名著出版、1974、p.21)
  なお、文献には記録されていないが、川越市山田の赤城神社にある福田整理耕地之碑には
  山田村福田地区で明治36年(1903)9月に、面積44haの耕地整理が竣工とある。
  また幸手市千塚にある耕地整理記念碑(明治45年建立)には、行幸村千塚地区で
  明治37年(1904)5月に、面積33haの耕地整理が竣工したと記されている。
  埼玉県で実施された初期の耕地整理は、規模が小さいものが多かった。
  例えば明治37年時点での耕地整理実施11地区の総面積は743haであり、
  1地区当りの平均面積は67haだった(埼玉県行政文書
 明3477)。
  なお、明治34年(1901)に着工した鴻巣町と常光村による耕地整理は、
  用いられた方式(鴻巣式と呼ばれる)が、以後、全国の耕地整理事業の
  モデルとなった程、先進的なものであった(→ページ末を参照)。

  耕地整理法は明治38年に改正され、かんがい排水事業も耕地整理事業の対象となった。
  さらに明治42年には、かんがい排水を主たる目的とする、新たな耕地整理法が制定されている。
  つまり、法制度の改正により、それまでの耕地の区画整理が主体だった事業は新たな方向へ移行する。
  埼玉県ではこれを受け、中川低地での大規模な排水改良事業が展開されている(例.新方領、川辺領)。
  埼玉県の耕地整理事業は、内務部勧業課の所管だった。
  なお、大正末期の時点で埼玉県の耕地整理率は27%(対水田面積)で、関東地方では最も高く、
  全国平均の12%に比べても高い水準であったという(→同上.埼玉県史、p.849)。
  また、大正期に実施された耕地整理は、頻発するようになった小作争議を封じ込めるための
  政策という一面もあった。耕地整理法では耕地整理組合の構成員は土地所有者に
  限定されていたうえに、耕地整理は組合員または耕地面積の2/3以上の賛成同意があれば、
  実施できた。地域によって差はあるが、埼玉県では自作農(地主を含む)3〜4割に対して
  小作農が6〜7割であった。耕地整理事業は地主主体で実施され、耕作者の意図は
  反映されなかったといえる。実際に耕作している農民のための事業ではなかった。
  そのため、事業の方針を巡って地主と小作人とが対立し、紛糾も多かった。

 明治41年(1908)、水利組合法の制定:
  内務省の所管。水利組合とは郡長または市町村長を管理者とする市町村の枠を
  超えた組合組織である。ただし水利組合員となる資格は土地所有者だけに限定され、
  組合の議員もその中から選出される規定であった。
  埼玉県の主な用排水路は、この水利組合によって管理運営がおこなわれてきた。
  水利組合の中には、かんがい排水の他に水防(治水)まで目的とするものもあった。
  例えば、中川水系の一級河川の多くは実質的には、国や県ではなく水利組合(後に土地改良区)が、
  その管理を行なっていて、そのような体制は昭和30年頃まで続いていた。
  その後、水利組合法は改訂され、普通水利組合の設立はかんがい排水事業のためとされた。
  水利組合が煉瓦樋門を建設するなど、一時的に大きな出費を要する時は、
  建設費の全額を組合の予算で賄なうことは不可能であり、不足分は県税補助金の形で
  公的な援助を受けたわけだが、煉瓦樋門等の建設からの数年間は組合費も臨時増収され、
  組合員への個人負担(賦課金)も大きくなったようである。


  明治45年の時点で埼玉県には144の普通水利組合が存在していたという(→埼玉縣史 下巻、埼玉縣、1912、p.453)。
  下表は埼玉縣史からの数値(1)〜(3)を基に、煉瓦樋門と水利組合・耕地面積などの関係を把握するために、
  筆者が作成したものである。なお、煉瓦樋門が2郡に跨る場合は、1郡につき0.5基として計上した。
  郡内に建設された煉瓦樋門数を郡内に存在した組合数で割り、1組合当りの平均的な煉瓦樋門数を調べると、
  北埼玉郡は県平均に比べてかなり多く(約2.8倍)、南埼玉郡はかなり少ない(0.4倍)ことがわかる。
  なお、入間郡は北埼玉郡と、北葛飾郡は南埼玉郡と似た傾向を示している。
  関係反数の大きい、北足立郡、南埼玉郡、北葛飾郡は稲・麦作を中心とした農業地域だった。
  明治期から大正期には、50ha以上もの農地を所有する大地主が存在していた。
  関係反数が小さい割には組合数が多く、煉瓦樋門の建設数が多い比企郡も小作地率が
  高かった(新編 埼玉県史別編5 統計、p.637)。
  一方、関係反数の小さい秩父郡(表には掲載していないが)、児玉郡、大里郡は稲・麦作よりも
  繭や生糸の生産が多い地域であった。
  興味深いのは大里郡で、郡全体の関係反数(水田面積)が少なく、1組合当りの平均反数も
  少ないわりには、煉瓦樋門の建設数が多い。大里郡の関係反数は南埼玉郡の1/15しかないのに、
  ほぼ同数の煉瓦樋門が建設されている。これは六堰用水という大規模な農業用水路が存在したこと、
  大里町の荒川・和田吉野川の周辺に治水施設として、逆流防止水門が数多く建設されたことによる。

 .  郡名 (1)組合数  (2)関係町村数  平均町村数(=2/1)  (3)関係反数(ha)  平均反数(=3/1)  (4)煉瓦樋門数  (=4/1)  (=3/4)
  北足立 35 194 5.5 60,865 1,739 61.5 1.8 989
  入間 7 17 2.4 13,196 1,885 20 2.9 659
  比企 23 57 2.5 14,765 642 42 1.8 351
  児玉 2 11 5.5 696 348 3 1.5 232
  大里 7 34 4.9 3,129 447 20.5 2.9 152
  北埼玉 8 45 5.6 14,694 1,837 35.5 4.4 413
  南埼玉 29 181 6.2 47,421 1,635 21.5 0.7 2,205
  北葛飾 33 154 4.7 37,569 1,138 34 1.0 1,104
  合計 144 693 4.8 182,339 1,266 238 1.6 766

耕地整理事業と煉瓦造り樋門

 埼玉県でおこなわれた初期の耕地整理事業(明治35年前後)は、耕地の区画整理よりも、
 排水改良による湿田の乾田化、つまり用排水路の整備に重点が置かれていたという。(→同上.埼玉県史、p.853)
 この耕地整理事業に関連して建設された煉瓦造り樋門も多い。一年度に数基の樋門を
 同時に建設していることが大きな特徴である。一例を挙げれば、北埼玉郡太田村の
 周辺に10基(大正期に建造の2基を含む)、北足立郡鴻巣町の周辺に5基である。
 なお、耕地の区画整理を主眼とした最初の耕地整理は、大正5年(1916)の児玉郡賀美村、
 神保原村の事業であるという。(→埼玉県議会史 第3巻、埼玉県議会、1960、p.876)
 
なお、当時の耕地整理組合はあくまでも事業団体であり、事業が終了すると解散し、
 その後の用排水の管理は管理団体である水利組合へと引き継がれるのが一般的だった。
 耕地整理組合は農商務省の監督下に、水利組合は内務省の監督下にあった。
 この二重構造は昭和24年(1949)に土地改良法が施行されるまで続いた。
 土地改良法では事業および管理の団体である土地改良区について、その構成員は
 土地の所有者ではなく、耕作者であることと規定された。

鴻巣式の耕地整理 竣功記念碑
 耕地整理之碑 ←耕地整理之碑(鴻巣町・常光村)
 鴻巣市上生出塚(かみおいねづか)

 耕地整理は明治34年5月に着工し、
 翌年5月に竣功している。
 第五回内国勧業博覧会では、
 本耕地整理の設計書が一等賞を
 獲得したとも記されている。
 先進的な事業であったことは、
 町単位の耕地整理であるにも
 拘らず、記念碑の題字が
 内閣総理大臣 清浦奎吾で
 あることからも伺える(注)
 背面には碑の建設費用の
 寄付金者206名が記されている。
 鴻巣町、常光村、田間宮村、
 笠原村(以上,現.鴻巣市)、
 中丸村(現.北本市)、
 加納村(現.桶川市)
  耕地整理竣功記念碑  ←常光村・加納村
 耕地整理竣功記念碑
 鴻巣市常光(じょうこう)

 大正14年建立
 題字は 高橋是清(1854-1936)
 こちらは大正6年7月から
 大正7年4月にかけて
 実施された耕地整理。
 常光村は明治34年に
 鴻巣町と連合で耕地整理を
 行なっているが今回は、
 加納村との連合。
 常光村 42ha、
 加納村 35haの耕地が
 整備されたと記されている。
 湿田の乾田化により
 二毛作が可能になったという。
鴻巣町・常光村連合の耕地整理事業は、埼玉県がおこなった公共事業ではなく、
地元の大地主を中心に構成された農会が主体となり実施された。耕地は一反区画に整備され、
総面積は400haにも及び、当時として全国一の規模であったという。
一方、この耕地整理によって用排水系統が変更され、悪水が一気に流下することを
懸念した下流の中丸村(現.北本市)、加納村(現.桶川市)、常光村(同じ村の下流側であろう)は、
明治34年に北足立郡の郡長に対して再三に渡り、陳情請願をおこなっている(→
文献53、p.189、196)。
その村々は大正6年には常光村・加納村連合として、新たに耕地整理事業を展開しているが、
これは上述の陳情請願の主旨が、全面的には受け入れられなかったことの証しであろう。
当時の耕地整理事業は耕地の区画整備だけでなく、排水改良にも大きなウエイトが
置かれていた。つまり、それは深田と呼ばれる水はけが悪い湿田を、二毛作が可能な乾田に
作り変えることであり、耕地整理完了後に耕地の水はけが良くなることは、
耕地全体の排水量が耕地整理前より増大することを意味する。
耕地整理事業実施地区の下流に位置する地区が、反対運動を展開したのは、
上流地区の増大した排水をもろに受け、湛水被害が激化するのを恐れたからである。
例えば行田市小針地区の耕地整理では
小針落伏越、新方領の耕地整理では大吉伏越の
仕様や建設に関して上下流で利害が対立し、紛争が勃発している。両施設共に上流地区の
排水を下流地区へ流すためのものであり、その通水断面の大きさが論争の争点となった。

(補足)農会とは地主が中心となった、農事改良等を研究する自主的な集まりであり、
 主に郡を単位として結成された。公的にも認められた組織であり、埼玉県では明治28年6月に
 農会設置準則が公布されている。埼玉県で最初の農会は北埼玉郡で結成された。
 準則の公布以前の明治25年のことである(→埼玉県議会史 第2巻、埼玉県議会、1958、p.401)。
 国家レベルでは明治32年(1899)に農会法が公布されている。農業生産力を高めるための農業政策の
 一つではあるが、背景には日清戦争後の軍備拡張に向けての財政確保の狙いがあった。
 農会法により地主は経済的に優遇され、組織化がより促進された。
 農会は官僚と地主を結ぶパイプの役割を果たし、助成金などを引き出す窓口でもあった。


(注)清浦奎吾(1850-1942)は第23代内閣総理大臣。大正13年(1924)に貴族院を中心に
 超然内閣を組織したが、第二次護憲運動に攻撃され、わずか5ヶ月で総辞職した。
 清浦は肥後国(現在の熊本県)生まれだが、明治6年(1873)から明治8年までは、
 埼玉県に奉職している。同郷の野村盛秀が埼玉県令(第一代)に任ぜられたので、
 その伝を頼ってである。埼玉県では旧大宮市や浦和市で小学校の教員を務めた後、
 風渡野学校(さいたま市風渡野の大円寺)の校長にもなっている。
 埼玉県にゆかりが深いので、県内の石碑にその名を多く残している。
 例えば、荒川の左岸堤防に建つ
大間築堤碑(1897年建立、鴻巣市大間)の撰文、
 湯本治水翁頌徳碑(1927年建立、行田市埼玉、前玉神社)の題字も清浦奎吾である。

 湯本治水翁とは地元の埼玉村出身の湯本義憲のこと。衆議院議員、岐阜県知事などを
 歴任した人物であり、特に衆議院議員時代には帝国議会に再三に渡り、治水に関する建議を
 提出し、それらが契機となり、明治29年には河川法が制定された。
 なお、前玉神社の日露戦役紀念碑(題字は山縣有朋)の脇には、5基の手植松の碑(植樹記念碑)があるが、
 そのうちの一つには清浦奎吾の名がある。他の碑にも松方正義、曾禰荒助、樺山資紀(孫に白洲正子)、
 大久保利武(大久保利通の三男、第13代埼玉県知事)と、そうそうたるメンバーが名を連ねている。
 ちなみに埼玉県の県令は代々、薩長の出身で占められていた。第二代の白根多助が長州、
 第三代の吉田清英が薩摩出身である。もっとも埼玉県で地元出身の知事が誕生するのは
 第二次大戦後であり、1949年に就任した第43代
 大沢雄一氏が最初の埼玉県出身者である。

(余談)不思議なことに、鴻巣町・常光村耕地整理之碑の建立に関連した町村は、
 道路元標(大正期建立)の現存率が高い。6町村のうち鴻巣町と加納村を除いた4村に残っている。
 
北足立郡は常光村、田間宮村、中丸村、北埼玉郡は笠原村が現存する。


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