荒川 - 滝馬室橋の周辺(たきまむろ) [荒川のページ一覧]
撮影地: 埼玉県鴻巣市(こうのす)、荒川
(注)本ページの画像は、CAMEDIA C-2000Z(211万画素)で撮影しました。
滝馬室橋の付近は、かつての堤防決壊地である。
昭和22年(1947)のカスリーン台風による洪水で、荒川の左岸堤防は滝馬室橋の
上流付近が決壊している。この時はさらに上流の熊谷市久下でも左岸堤防が決壊した。
左岸側が相次いで破堤したのは、当日は南西からの強い風が吹いていたために
水流が左岸側に集中してしまったからだとも伝えられている。
↑下流から見た滝馬室橋(御成橋の上から) 滝馬室橋は荒川の低水路(昭和初期に開削した人工水路)に 設けられた長さが約60mの木の橋(冠水橋)。 河川改修で分断されてしまった土地への連絡橋と生活道路を兼ねる。 滝馬室橋の両岸が鴻巣市滝馬室である。 滝馬室橋の左岸(写真の右方向)、東へ400mに位置する稲荷神社の脇には、 内務省 16/6の文字が刻まれた測量の基標がある。荒川には同様の基標が、 植松橋付近(川本町)、万平公園(熊谷市、旧熊谷堤)にも残っている。 また、御成橋から下流へ200mの左岸、氷川神社には昭和五年(1930)に 内務省が荒川の改修工事に関連して設置した水準点(補助標石?)も残っている。 それには明治時代の様式である几号が付けられている。 これらの標石が設置されたことから、この付近は荒川の近代改修の 重要地点だったことが想像できる。 なお、滝馬室の氷川神社は延暦年間(782-805年)に創設と されている古社であり、坂上田村麻呂による大蛇退治の伝説が残っている。 退治された大蛇(龍?)は頭が氷川神社に、胴体が常勝寺に埋められたのだという。 氷川神社に伝わる弓矢による的射ち行事は、この大蛇退治に由来している。 これと良く似た大蛇退治の伝承は、近隣の弁天沼(東松山市岩殿)にも残っている。 共に大蛇は目を射抜かれて退治されている。 氷川神社は滝馬室という地名の発祥地でもある。新編武蔵風土記稿によれば、 氷川神社の境内に滝があったことから、滝のある馬室が転じて滝馬室になったという。 荒川の河川敷は広大だ。2km上流の糠田橋(写真上部)まで展望できる。 荒川は両岸に巨大な堤防がそびえ立つので、河川としての存在感は強烈なのだが、 平水時に水の流れを目にすることができる場所は、橋の上からのみだ。 なお、御成橋を渡った右岸は、吉見町の桜堤公園(旧.吉見領囲堤を改修した遊歩道)へ の近道である。ただし、荒川の河川敷の幅は、御成橋の付近(鴻巣市滝馬室〜 吉見町大和田)が最も広く、およそ2.5km!もある(たぶん日本最長の川幅)。 御成橋自体の長さは約800mで、右岸側には延長1.7Kmにも及ぶ横堤が設けられている。 県道27号線は御成橋と横堤の天端上を通っている。 なお、吉見町大和田では県営吉見浄水場の建設工事が進められている。 水道水を比企郡と入間郡へ給水する予定だ。 荒川の治水計画は上流部はダムで、中流部は河道で洪水を貯留させるよう策定されている。 つまり、中流部では河川敷を遊水池として利用しているので、こんなにも広大な空間を要する。 これでも 200年確率の計画洪水量に対しては、まだ不足であるという。 疑問なのは20箇所以上も残っている横堤の存在である。洪水時には水流を減勢し、 横堤の下流側の農地や人家(堤外地に居住)を守っているのは確かだが、洪水の流下を 著しく阻害している(結果、滞留量が増えて洪水時の水位は上昇する)のは明らかである。 河道貯留のために、2.5kmにも及ぶ川幅が必要になっている。 |
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↑荒川の上流方向(滝馬室橋から) 左岸へ合流する排水路は行人樋管と繋がっている。 写真の上部には左岸の堤防が、かすかに見える。 写真の左方向700mには、旧荒川が沼地になって 3km程残っている。 |
↑荒川の下流方向(御成橋付近から) この周辺では、左岸の堤防は自然堤防に変わる。 写真上部の森は氷川神社の社叢林。 高水敷内は、ほとんどが農地となっているので、 滝馬室橋は農道橋としての役割も大きい。 |
↑お散歩に来ていた... じゃなくて、生活していた、わんわん |
←災害復旧記念碑(鴻巣市大間) 滝馬室橋から上流へ200m付近の 左岸堤防(旧.大間堤)の上に立つ。 昭和32年建立、 題字は内閣総理大臣 岸信介 昭和22年(1947)の9月15日、 カスリーン台風によって、 大間堤防は約90mに渡って決壊し、 行人樋管も破壊された。 この碑は昭和23年5月30日に 竣工した復旧工事を記念したもの。 |
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