城沼落 (じょうぬまおとし)
撮影地:埼玉県羽生市(はにゅう)
城沼落は延長約2.9Kmの中川水系の都市排水路。城沼落排水路とも呼ばれる。
起点は羽生市西五丁目にあるが、最上流部の約500mの区間は暗渠となっていて、
開水路となるのは羽生北小学校の付近からである。羽生市の中心部から概ね東へ
向かって流れ、秩父鉄道、東武伊勢崎線、葛西用水路の下を横断し、羽生中央公園の
付近からは流路を南へと変え、羽生市東八丁目で中川の左岸へ合流する。
城沼落の起源は、江戸時代初期まで羽生市内にあった羽生城の堀跡だという。
羽生城は西側を除き、三面が沼沢地に囲まれていたというから(武蔵国郡村誌、13巻、p.69)、
北端から東端を流れる城沼落は、まさに沼からの落(排水路)だったようだ。
ちなみに南端を流れる宮田落(下流部は中川の起点となる)も起源は城沼落と同じである。
羽生城の焼失後、城沼落は田畑の悪水を流す農業排水路として近年まで使われたが、
都市化に伴い、現在では見た目を含め完全に都市型排水路となっている。
余談だが、城沼落の沿線には松尾芭蕉の句碑が多く分布している。羽生市で
確認されている芭蕉の句碑は、全部で4基だが(芭蕉句碑を歩く、小林甲子男、さきたま出版会、p.60-62では3基)、
そのうち3基が城沼落の周辺に存在する。上流から順に、
毘沙門堂(古江宮田神社)、西一丁目、県道128号線の南側にある弁天島、明治30年建立
薬師堂、北一丁目、篠原歯科医院の南側、寛政十二年建立?
天満宮、東五丁目、羽生城跡の碑もあり、である。→羽生市の芭蕉の句碑
(1)羽生北小学校の付近(上流から) 左岸:羽生市北二丁目、右岸:中央四丁目 城沼落は北一丁目〜中央二丁目の約500mの区間は 暗渠となっているが、神明橋の下流からは開水路となる。 ここから上流部は羽生川とも呼ばれていたようで、 羽生市西五丁目の秩父鉄道の横断地点に架かる橋梁の 名前は羽生川橋梁(大正10年竣工)だ。羽生川は 羽生実業高校の付近から始まっている。 なお、神明橋(北小学校の脇)には、宝暦六年(1756) 建立の石橋供養塔が残っている。城沼落に 架けられていた石橋のものだろう。 なお、ここから300m南には羽生町の道路元標が今もある。 |
(2)葛西用水路を横断(上流から) 左岸:羽生市北二丁目、右岸:中央四丁目 写真(1)から200m下流。この付近の水路幅は約5m。 城沼落は葛西用水の下を伏越で横断する。横断地点に 設けられているのが城沼伏越(観音寺圦)。その起源は 万治三年(1660)と古い(注)。万治三年というのは、葛西用水が 本川俣(羽生市)の利根川右岸からの取水を開始した年である。 伏越が建設されたという事実は、その時点で城沼落が既に 存在していたことの傍証でもある。なお、城沼伏越は最初に 造られた時は木製だったが、大正時代には石造(翼壁部が石、 本体は土管をコンクリートで巻き立て)へ改築されたが (埼玉県行政文書 大675-74)、現在は鉄筋コンクリート製である。 |
(3)観音寺橋の付近(上流から) 左岸:羽生市東三丁目、右岸:東二丁目 写真(2)から100m下流。独特な形態・配色で異彩を 放つ橋が架かっている。昭和15年(1940)竣工の 観音寺橋だ。橋名は廃寺となった観音寺に由来する。 城沼落に架かる橋は画一化され個性のない橋ばかりだが 観音寺橋には優れた造形美があり、貴重な存在である。 |
(4)羽生中央公園の付近(下流から) 右岸:東五丁目、左岸:羽生市東九丁目 写真(3)から900m下流。曙ブレーキの北側に沿って東へと 流れきた城沼落は、ここで流れを南へと変える。同時に 矩形断面だった水路形状は台形へ変わる。写真の右側、 民家の奥には羽生中央公園が位置する。 写真の左側にある天満宮は羽生城の天神曲輪の跡地。 |
(5)東城橋の付近(上流から) 羽生市東八丁目 写真(4)から300m下流。ここで再び流路を南東へと変える。 水路幅は約7.5mに広がり、掘り込みも深くなる。 城沼落は市街地を流れるので、幅員の大きい道路との 交差部分も多い。そのような箇所では橋の形式は カルバート橋が採用されている。東城橋もカルバート橋。 羽生の市街地には城橋という橋が、多く存在するが 武蔵国郡村誌には”羽生の市街に通する路にして用水 水渠に架したる橋梁を城橋と唱えへり”とある。 |
(6)城沼落の終点(下流から) 羽生市東八丁目 写真(5)から400m下流。中川の右岸(羽生市北袋)から撮影。 北袋団地の北側で城沼落は中川の左岸へ合流する。 ここは中川の管理起点からわずか1Km下流であり、 この付近の中川は最近まで、宮田落と呼ばれる排水路 だったので、一級河川の割には細流である。 支川である城沼落の方が、中川よりも通水断面は大きい。 中川の排水能力が不足するのを考慮して、城沼落は河道貯留が 可能なように大きな通水断面で設計されていると思われる。 |
(注)寛政十年(1798)の羽生領用水組合御普請箇所記
(埼玉県史 資料編13、p.397)では、城沼伏越の名称は高橋圦と
なっている。高橋落悪水堀に設けられた埋圦(伏越)であり、
規模は横二間(3.6m)高四尺(1.2m)長十九間(34m)である。
同書には、城沼落は”高橋より宮田落合迄長千十間(1818m)”とあるので、
城沼伏越よりも上流の区間は、以前は高橋落と呼ばれていたようである。
高橋圦については、
”万治三年 幸手用水新堀被仰付候節 伊奈半左衛門様
御掛ニ而御物入を以 御伏込被成下”とある。
幸手用水(葛西用水)の開削のさいに、関東郡代 伊奈半左衛門によって
幕府の直轄工事として建設されたことがわかる。