見沼代用水 〜 石仏と祠(ほこら) (その2)  (その1)(その3)(その4

 弁才天
↑弁才天 騎西町外田ヶ谷(左岸)
 宝性寺の無縁仏の中に祀られている。
 弘化三年(1846)十二月建立。
 外田箇谷村の講中による造立。
 2手の弁財天坐像。
 高さ71cm、幅36cm
  巡礼塔(道標)
  巡礼塔(道標) 騎西町外田ヶ谷
  宝性寺の庚申塔群の中
  寛政十一年(1799) 高113cm
   (台31cm)、幅36cm、奥23cm
  3つの面に道標 右面:右
 者にうまち
  中
 く満可へ(熊谷)道/左 江戸桶川道
  大黒天(道標)
  大黒天(道標) 騎西町外田ヶ谷(新田)
  見沼代用水の左岸から150m
  文政六年(1823)
  高68cm、幅23cm、奥15cm
  正面:右 はにう/東,志やうぶ/
      おけ加”王(桶川)/左 のミち
 弁財天供養
↑弁財天供養 騎西町上崎(左岸)
 川里町上会下との境界、騎西領
 南用水(新川用水の支線)の脇に
 祀られている。元文五年(1740)二月。
 8手の弁財天坐像、像の頂部には鳥居
 高さ68cm、幅29cm
  巡礼塔(道標)
  巡礼塔(道標) 川里町新井(右岸)
  共和小の南東150m、市道の脇
  状態は劣(ゴミ捨て場と化している)
  高46p(埋没),幅26p,奥14p
  右面:右 忍起”やふ多”(行田)道
  左面:左 能村しやふで△(野村聖天)
  水死横死慰霊塔
 ↑水死横死慰霊塔  川里町境(右岸)
  境橋の右岸橋詰。水死横死慰霊塔が祀られている。
  これは星川(見沼代用水)で水死した人の供養塔。
  明治18年12月に境村、上会下村、新井村(以上、
  現.川里町)、鴻巣町の有志によって建立された。
  この付近は見沼代用水の川幅は広くなっていて、
  砂が多く堆積したので、かつては砂取り場だったという。
  慰霊塔の両脇に建つ白い石塔は、旧境橋(昭和7年竣工)
  の親柱。川里町内の
緑のヘルシーロードは、山王公園
  までの1.7Kmの区間が、ふれあいウォーキングコースだ。

 辯戈天
↑辯戈天 川里町境(右岸)
 境橋の右岸にある天神社の境内に
 祀られている。安永五年(1776)建立。
 辯戈天とは弁才天のこと。
 弁財でなく弁戈と記されたものは
 この付近では珍しい。

  
庚申塔
 ↑庚申塔 川里町境(右岸)
  天神社 寛文五年(1665)八月
  春日枝神社諸願成就所
  6人の氏名。三猿のみで日月、
  ニ鶏はなし。山王信仰なのかも
  しれない。高さ106cm、幅46cm

  
庚申塔(道標)
 ↑庚申塔(道標) 川里町上会下
  雲祥寺東の三叉路
  寛政十二年(1800)十月
  塔の上部に日月の浮き彫り
  台正面:(中央)向き合う二猿
   (右)きさ以(騎西)道 (左)鴻巣道
  高121cm(台32cm)、36cmの角柱

 3体の弁財天
↑3体の弁財天  見沼代用水(左岸)、稲荷神社
 北埼玉郡川里町上会下(かみえげ)
 上会下地区は川里町で唯一、見沼代用水の左岸に
 位置する。左岸堤防に隣接するのが稲荷神社。
 左:昭和18年、中:明和三年(1766)、右:昭和2年
 中央の弁財天の中には氷川宮と
 八幡宮の小さな祠が祀られている。

  
施餓鬼供養塔
 ↑施餓鬼供養塔 騎西町中ノ目
  中ノ目橋の左岸橋詰に残る。
  
寛保二年(1742)の大洪水
  溺死した人々の供養のために
  安永三年(1774)に建立された。
  下流の榎戸橋の右岸橋詰にも
  施餓鬼供養塔(大正3年)がある。

  弁財天
 ↑弁財天 騎西町上種足(たなだれ)
  榎戸交差点(県道38号線)から
  西へ500mの地点に天満宮と
  共にある。寛延二年(1749)正月
  上種足邑講中 下部に15人の氏名
  8手の弁財天坐像、像の頂部に
  鳥居。高さ80cm、幅30cm

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