中川  門樋橋から島中領排水路の合流まで  [中川のページ一覧

 撮影地:埼玉県北葛飾郡栗橋町、鷲宮町、幸手市

 この付近の中川は昭和初期に改修されるまでは島川だった。明治9年(1876)の調査を基に
 編纂された、武蔵国郡村誌の葛飾郡八甫村(14巻、p.412)には、
 ”島川堀:深三尺巾十二間 村の西北端川口高柳両村界より来り 東端千塚村に入る 長さ二十八丁二十間”
 と記されている。水深が0.9mと浅いのは、非かんがい期の落(農業排水路)だからである。
 しかし川幅は21.6mもあったわけだから、なかなか大きな川だ。

 なお、この付近の島川は万治3年(1660)に幸手領用水(葛西用水)の開削に関連して、
 羽生領の悪水落しとして新規に整備された人工河川である。路線は利根川の故道である、
 古川(旧権現堂川)の跡地に沿っている。近世初頭まで利根川の流れは、葛飾郡八甫村
 (現在の鷲宮町八甫)で、旧権現堂川(東へ流れる)と古利根川(南へ流れる)の2つに分かれていた。
 島川は八甫村の対岸に位置する葛飾郡島川村(現在の栗橋町島川)を起点として、
 外国府間村(現在の幸手市外国府間)で権現堂川に合流していた。

 宝泉寺池
(1)宝泉寺池 鷲宮町鷲宮〜八甫(はっぽう)
 宝泉寺池は
門樋橋(県道3号大宮栗橋線)から南側へ
 300mに位置する。宝永元年(1704)の利根川の洪水に
 よって形成された池。島川(中川の旧名)の右岸堤防が
 決壊してできた落ち堀で、現在の大きさは南北200m、
 東西100m。埋め立てられていて、規模は以前より
 小さくなっているという。落ち堀は押堀(おっぽり)や
 切れ所とも呼ばれる。埼玉県には湖沼の形で、
 数多く現存している。なお、宝泉寺池の西側では
 浅間川〜権現堂川の流れから古利根川が南へ向かって
 分流していた(注1)。付近には古利根川の締切堤防で
 ある
蛇田堤の跡、八甫から東大輪、西大輪にかけては、
 古利根川が形成した鷲宮砂丘(内陸砂丘)も現存する。
   寛保治水碑
  (2)寛保治水碑(鷲宮神社内) 鷲宮町鷲宮一丁目
   門樋橋から南西1.7Kmに位置する鷲宮神社には、
   寛保治水碑という灯篭が残っている。寛保二年(1742)の
   利根川洪水は江戸時代最大級の被害をもたらした。利根川や
   荒川の堤防が決壊し(
中条堤も破堤)、洪水流は江戸まで
   押し寄せたという。なお、栗橋町にある
宝治戸池(ほうじと)は
   この時の利根川決壊の跡である。幕府は利根川の復旧工事
   (御手伝普請と称した無償奉仕)を萩藩(現在の山口県)に命じた。
   寛保治水碑はその工事の竣功を記念して、萩藩が鷲宮神社に
   寄進・奉納したもの。碑文に人夫100万人とあることから、非常に
   大規模な復旧工事が実施されたことがわかる。ちなみに
   妻沼聖天山(妻沼町)の貴惣門はこの時に萩藩の棟梁が設計した。
   鷲宮神社には治承四年(1180)に、源頼朝が植えたとされるモッコクもある。

 門樋橋の付近
(3)門樋橋の付近(上流から)
 左岸:栗橋町高柳、右岸:鷲宮町八甫一丁目
 門樋橋の名は、天保三年(1832)に羽生領によって
 建設された島川門樋に由来する。島川門樋とは利根川
 (
権現堂川)から島川への逆流を防止する水門。古門樋を
 さらに下流に移設した(→埼玉県史
 資料編13、p.301)。
 右岸には仙台堤(伊達藩の御手伝普請だろう)と
 呼ばれる旧堤防の跡が残っている。600m下流には
 
古利根川橋梁(JR東北本線)が架かっている。
 古利根川橋梁の南側にあり、中川に沿った町道は
 かつての日光御廻道である(注2)

   稲荷木落の合流
  (4)稲荷木落の合流(上流から)
   左岸:栗橋町新井、右岸:鷲宮町八甫二丁目
   写真(3)から1.9Km下流、左岸へ
稲荷木落(排水路)が
   合流する。合流方式は瀬割堤(導流堤)を設けた、
   自然合流である。稲荷木落は古利根川(渡良瀬川の
   旧流路)跡を整備・改修した悪水路であり、現在は
   大利根町と栗橋町の排水を担っているが、かつては
   
島中領(現.栗橋町周辺)の落しであった。
   この付近では川幅は約100mに拡幅されていて、両岸には
   巨大な堤防が築かれている。かつて、この付近には新井の渡しと
   呼ばれた渡船が運行していたが、その痕跡は皆無だ(注3)

 高須賀池
(5)高須賀池 幸手市松石〜高須賀
 写真(4)から2.5Km下流の地点、中川の右岸堤防の裾に
 位置する。天明六年(1786)の利根川の洪水によって
 形成された池(落ち堀)。3年前に起こった浅間山の
 噴火の影響で火山灰などが堆積し、中川(当時は島川)は
 河床が上昇し、洪水が起こりやすくなった。
 武蔵国郡村誌によれば、左岸の狐塚にある内池は
 天明六年の洪水、弁財池は宝永元年の洪水による、
 落ち堀である。利根川が東遷されたとはいえ、江戸時代を
 通して、まだ本流は権現堂川の方にあった。
 なお、右岸の幸手市千塚には、かつて宗派の異なる、
 修験道の寺院が2つあった(注4)

   
島中領排水路の合流
  (6)島中領排水路の合流(右岸から)
   左岸:栗橋町中里、右岸:幸手市高須賀
   高須賀池の対岸、東武日光線
島川橋梁から西へ200mの
   地点では、島中領(栗橋町一帯の旧名)の2つの排水路が
   中川の左岸へ合流している。右端が大堀排水路、左端が
   広島落し(島中領大排水路)である(注5)。広島落しの
   最下流に架かる
中里橋は、土橋(木の橋で橋面は土で舗装)だ。
   広島落しの合流地点から300m上流には、中里揚水機場が
   設けられている。左岸の栗橋町狐塚から中里にかけて、
   中川沿いには自然堤防と思われる微高地が広範に分布している。
   これは往古の利根川(権現堂川)が形成したもの。
   右岸側は幸手市ジョギングコースとなっている。

(注1)宝泉寺池の西側から鷲宮町役場へ通じる道路は、近世以前の
 ある時期には利根川の河道だった。付近には古川という地名が残っている。
 古川(古利根川)は文禄年間(1595年頃)に、権現堂川への分岐地点に
 蛇田堤が築かれて流頭が締め切られた。そして古川は
葛西用水として整備された。
 鷲宮町役場の付近から下流の葛西用水路は、古利根川の旧流路を
 用水路として再利用したもの。鷲宮町役場の上流側、加須市川口までは
 新たに水路を開削して、会の川(南利根)へと繋げた区間である。

 なお、古川は武蔵国と下総国の国境であり、鷲宮村は武蔵国、
 八甫村は下総国に属した。古川(葛西用水)の左岸に位置する鷲宮町外野と
 上川崎に香取神社が鎮座するのは、下総国だった頃の名残りだろうか。
 ちなみに葛飾郡八甫村が成立したのは天正年間(1580年頃)であり、
 意外に遅い。八甫という変わった地名は、新編
 武蔵風土記稿の2巻、p.215によれば、
 当時の古川は大河だったので八つの浦(湊)があったので八浦となった、
 常時、舟の往来があり八つの帆が見えたので八帆となった、などと記されている。

(注2)日光御廻道(おまわりみち)とは、日光道中の迂回路であり、
 栗橋宿と幸手宿を結んでいた。この区間の日光道中は概ね、
 権現堂川の右岸に沿っていたが、権現堂川の水害等のさいには
 通行止めとなることが多かった。そのため、重要街道である日光道中の
 迂回路として日光御廻道は設置されたようである。→幸手市史
 通史編I、p.643

(注3)幸手市千塚の宝性院の西、県道152号の脇には文政六年(1823)建立の
 馬頭観音が残っているが、これは
道標(道しるべ)を兼ねていて、
 東 ごんげんどうみち、北 新井ふなとみちと記されている。
 新井ふなと(舟渡)みちとは、新井の渡しを指しているのだろう。
 なお、新井の渡しから1Km上流、島川橋の付近にも渡し(島川の渡し)があった。
 葛飾郡島川村(現在の栗橋町島川)と葛飾郡八甫村(現在の鷲宮町八甫二丁目)を結んでいた。
 明治9年(1876)の調査を基に編纂された、武蔵国郡村誌の葛飾郡島川村に
 ”島川渡:幸手道に属し
 村の南方 島川堀の上流にあり 渡船三艘 私渡”とある。
 島川の渡しは島川橋の架橋に伴い、昭和20年頃に廃止されたようである。
 栗橋町高柳の子育て地蔵尊(島川橋から600m上流)には
 
道標を兼ねた地蔵(1780年建立)が祀られていて、志ま川わたしみちと
 行き先が記されている。これは島川の渡しのことである。

(注4)新編 武蔵風土記稿の葛飾郡千塚村(2巻、p.214)によれば
 泉蔵院(本山派修験、幸手不動院配下)、持宝院(当山派修験、江戸青山鳳閣寺配下)の
 2つの寺が存在した。これは修験の勢力抗争もあるだろうが、千塚村の村内が
 複数の旗本による知行地となっていて、支配が分割されていたことも影響しているのだろうか。
 なお、幸手不動院とは幸手領の不動院に由来する呼称であり、
 本拠地は小渕村(春日部市小渕)だった。

(注5)島中領大排水路は昭和19年に工事を開始し、昭和26年に竣工している。
 戦争中及び終戦後の物資不足と昭和22年のカスリーン台風の水害復旧などの
 悪条件が重なり、工期は非常に長くなっている。中川への合流地点から
 上流へ約1Kmの右岸(栗橋町中里)に、その竣工記念碑が建てられている。
 島中領用悪水路普通水利組合が、昭和26年に建立したものである。
 竣工記念碑から南西へ700mの地点(栗橋町狐塚〜幸手市松石)には、
 昭和橋(中川)が架かっているが
ここにはかつて揚水機場が設けられていた。
 しかし、カスリーン台風によって昭和橋と共に流出してしまったという。
 氷川鹿島大神宮(栗橋町狐塚)の境内に建てられた揚水機竣功記念碑(昭和23年建立)に
 その災害復旧の顛末が記されている。

 昭和橋の両岸には興味深い神社が鎮座している。
 左岸の氷川鹿島大神宮(栗橋町狐塚)、右岸の香取八幡神社(幸手市円藤内)だ。
 氷川鹿島大神宮は武甕槌命と素盞鳴尊を合祀しているが、明治時代には
 氷川社と称していた。筆者の知る限り、埼玉県で最も東に位置する氷川神社だ。
 この付近は香取神社の勢力圏なので珍しい存在だ。
 一方、中川の右岸側は鷲宮神社の勢力圏だが、左岸の栗橋町新井にある、
 香取神社は旧名称が香取鷲宮社だった(武蔵国郡村誌14巻、p.442)。
 祭神が経津主命と天穂日命なので、確かに香取神社と鷲宮神社の合祀である。

 昭和橋の付近には、かつて狐塚の渡(弁才の渡し)と
 呼ばれる渡船場があった(武蔵国郡村誌14巻、p.439)。
 右岸橋詰の香取神社には
弁財天と水天宮が祀られているが、
 それらは渡船の安全を祈願したものだろうか。
 なお、昭和橋の架橋(昭和5年頃)に伴い、渡しは廃止となったようだ。


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