葛西用水 (かさい ようすい) (その1) (その2)(その3)(その4)  [葛西用水のページ一覧

 形式:コンクリートライニング/コンクリートブロック  規模:通水量 16m3/s 灌漑面積 6,500ha
 延長:約70km始点:埼玉県羽生市→加須市→鷲宮町→久喜市→幸手市→杉戸町→春日部市→越谷市→終点:東京都足立区)

 葛西用水は徳川幕府の天領開発策の一貫として、万治3年(1660)に関東郡代・伊奈忠克によって、
 幸手領の用水路として開発された(補足)。伊奈忠克は伊奈忠治(荒川の西遷を実施)の子であり、
 承応
年(1654)には玉川上水(江戸市中へ導水する約43kmの上水路、工事を担当したのは玉川兄弟)の
 工事監督も勤めている。玉川上水の開発時に幕府の老中だったのが、松平信綱(川越藩主)。
 そのため、埼玉県内を流れる野火止用水(上水)は、玉川上水からの分水が許可されている。

 江戸時代には葛西用水の幹線用水路の水管理や修築は、勘定奉行所の所管に
 置かれ、幕府が直轄していた。現在は用水路や取水施設は最新の形式へと改築され、
 維持・管理は葛西用水路土地改良区が行なっている。
 
施設は近代化されたが、葛西用水の送水形態には関東流伊奈流)の特徴である、
 (1)河川を用排兼用水路として使う(見沼代用水からの排水を反復利用)、
 (2)河道に設けられた数多くの溜井(貯水池と遊水池を兼用)
 の片鱗が、今も随所で見られる。
 一言で言い表せば、葛西用水とは非常に大規模な水のリサイクルシステムである。
 葛西用水の最終的なかんがい区域は10ヶ領であり、新方領、松伏領、二郷半領、
 八条領、谷古田領、および東西の葛西領(現東京都)にまで及ぶ。
 ちなみに用水路の名称である葛西とは、近世の葛西領のことで南葛飾郡(旧東京府)の一帯を指した。
 葛西用水は見沼代用水(埼玉県)、明治用水(愛知県)とともに日本三大農業用水と称される。

 旧河川を用水路として再利用:
 1968年に埼玉用水路が完成するまでは、葛西用水は利根川の右岸堤防に樋管を伏せ込んで、
 直接取水していたが(自然流入)、現在は利根大堰を経由して埼玉用水路から分水している。
 利根川にあった元圦(もといり:取水口)の跡は、葛西親水公園として整備保存されている。
 元圦跡(標高は約20m)からは羽生市、加須市へと南東に流れているが、この区間は
 万治3年に開削された人工水路である。一方、加須市から下流では利根川の東遷などに
 よって残された、旧河道跡や廃川を水路へと整備し直して再利用している。

 
例えば、加須市大桑から川口の区間では会の川(かつては利根川の派川)、川口から松伏溜井
 (松伏町〜越谷市)までは大落古利根川(近世以前の利根川)が葛西用水路の幹線水路として
 使われている。幹線水路は加須市川口で北側用水を分水し久喜市栗原〜幸手市南には
 琵琶溜井が設けられている。琵琶溜井からは中郷用水と南側用水が分水している。
 起点から琵琶溜井までの区間はかつての幸手領(幸手市、杉戸町、春日部市の一部)の
 用水路に相当する。琵琶溜井から松伏溜井までの約20Kmの区間は大落古利根川を流下する。
 越谷市では、古利根川と元荒川の河道を送水路として利用しているが、
 この区間は中島用水(江戸川から取水していた)の代替水路(兼.加用水)といえる。
 葛西用水の送水路としての役目を終えた古利根川(昔の利根川)と元荒川(昔の荒川)は、
 越谷市の東端で中川(近世以前は利根川)に合流している。
 近世以前の荒川は利根川の支川だったというが、その片鱗が垣間見れるわけである。

 水のリサイクル:
 大落古利根川には、見沼代用水の流末である数多くの落し(農業排水路)が合流しているが、
 葛西用水はそれらからの排水を下流の松伏溜井へ送水・貯水することで、農業用水として
 再利用している。大落古利根川へ合流する落しは、青毛堀川、中落堀川、備前前堀川、備前堀川、
 姫宮落川、笠原沼落、隼人堀川、古隅田川などである。昭和初期までは、葛西用水自体の水も
 反復利用されていて、葛西用水の流末(中郷用水、南側用水のかんがい排水)が
 倉松落(幸手領の悪水路)を経由して、大落古利根川へ落とされていた。
 さらに越谷市内では逆川(鷺後用水路:さぎしろ)を経由して、古利根川(松伏溜井)と
 元荒川(正確には瓦曽根溜井)が接続されている。元荒川は葛西用水の開削以前から
 農業用水の水源として開発されていて、瓦曽根溜井の上流には6箇所(現在は4箇所)に
 取水堰が設けられていた。元荒川は荒川を締め切った結果、残された河川であり、水源が
 ないので水量が乏しかったため、用水は高度に反復利用されていた。さらに上流にある堰群が
 水を取り尽してしまうので、瓦曽根溜井には充分な水が到達しなかった。
 そのため、逆川を経由して松伏溜井から瓦曽根溜井へ水を補給していたのである。

 用水路をとりまく諸問題:
 葛西用水路が流れる周辺地域では、急激な都市化が進行している。
 それに伴い、土地改良区は今までは無かった、新たな緒問題に直面している。
 例えば、家庭・工場排水の流入による用水の汚濁、用水路へのゴミの不法投棄、
 住宅地が水路周辺へ進出したことに対する安全対策、地下水の過剰汲み上げによる広域地盤沈下、
 それに伴う用水施設の機能低下、就農人口と農地面積の減少による賦課金の減少、などである。
 したがって、土地改良区による農業水利施設の維持管理は困難を極めている。
 葛西用水は最下流部の東京都の区間では、もはや農地が存在せず、農業用水路は
 廃止されている。瓦曽根溜井(越谷市)も4つあった取水口は、次々と取水を取り止め、
 現在も使われているのは八条用水のみである。
 また、江戸時代から続く水利権(農業用水を河川から取水する権利)は、河川法での扱いが
 慣行水利権から許可水利権へと移行している。つまり、今までの実績に基づく取水はもう行えなくなっている。
 なお、近年には農業用水の余剰水を都市用水へ転用するために、農業用水合理化事業が実施され、
 幸手領の区域中流部)にはファームポンド(調整池)と揚水機場(ポンプ場)が整備された。
 これにより、パイプライン方式(水道の様に蛇口をひねれば水が出る)での用水供給が行なわれている。


(補足)葛西用水の特異性

 用排水兼用:
 葛西用水は、古利根川筋(埼玉県の最低標高部:0〜15m)を路線としている。
 この地域は近世以前は利根川、荒川そして渡良瀬川の乱流域(氾濫原)であった。
 近世以降に利根川の東遷(本川を銚子沖へ瀬替え)と荒川の西遷(本川を入間川筋へ瀬替え)が
 行なわれ、旧流路や支川は古利根川筋として残った。葛西用水はこの旧河道を農業用水路として
 再利用・再整備した水路である。そのため周辺地域の自然地形が反映され、用水路としては
 敷高が低い。逆にその特徴を生かして送水方式は、用排水兼用(水路が低い所を流れて
 いるので、排水が集まりやすい)となっている。ただし、上流側の悪水(排水)を集め、
 下流側の用水として再利用する方式は、上下流での利害の対立を生みやすいので、
 水利秩序の維持管理には困難な局面が多い。例えば葛西用水の幹線送水路として
 使われている大落古利根川は、上流部の区間は騎西領の78ヶ村の悪水落し(排水路)であり、
 大落堀悪水路組合が組織され、浚渫や藻刈りを実施していた。
 これは騎西領の悪水の疎通を良くするためである。

 幸手領の新田開発:
 古利根川筋の後背湿地には、志手沼、神扇沼、安戸沼(倉松沼)などの湖沼が存在した。
 幸手領ではそれらの沼を溜井(ため池)とし、上流の羽生領などからの悪水をそこへ集めて
 農業用水の水源としていた。現在の大中落(下流は倉松川)や六郷堀(下流は天王新堀)を
 使って導水していたのだろう。また、元和9年(1623)には代官 大河内金兵衛によって
 杓子木村(大利根町杓子木)に姥圦(元圦の樋管だと思われる)が設けられ、羽生領の悪水を水源として、
 最初の幸手領の用水が開発されている。姥圦は万治3年(1660)以降は島中川辺領の用水へと
 転用されているので、現在の北側用水に相当する地域をかんがいしていたと思われる。
 一方で、幸手領の用水は文禄3年(1594)以前に、既に成立していたとの記録もある。
 葛西用水諸方取調手控帳(埼玉県史 資料編13、p.471)には、相の川筋から八甫村の宝泉脇まで
 送水し、八甫村から幸手領へ用水を供給していたとある。しかし文禄3年の相の川の締め切りによって、
 幸手領は用水源が絶たれたとも記されている。相の川とは会の川のこと、八甫村とは
 現在の鷲宮町八甫である。八甫の付近から幸手領へ送水する路線なので、
 これも現在の北側用水とほぼ同じである。

 上述した湖沼(溜井)は、幕府の新田開発政策によって、干拓されることになった。
 幸手領に属する神扇村や茨島村は、この時の湖沼干拓によって成立した新田村だと思われる。
 例えば、新編武蔵風土記稿に神扇村は万治元年(1658)の成立、茨島村は寛永年間(1624-1643年)の
 成立と記されている。湖沼(溜井)の干拓によって農業用水の水源は失われ、そのうえ新田が
 開発され農地の面積が増えたことにより、農業用水の不足が顕著となった。
 そこで、万治3年(1660)に関東郡代・伊奈氏によって、新たに開発されたのが、
 新たな幸手領用水である。これは溜井の代替水源を目的としたものであり、
 安定した水量を確保するために、利根川からの取水を開始した。
 この経緯は見沼代用水とほぼ同じである。しかし、葛西用水は同時代の見沼代用水路と
 比べると、一貫した構想の下で開発された用水ではない。

 上流へ用水路を拡張:
 現在の葛西用水のかんがい区域の下流には、葛西用水(幸手領用水)の開削以前から
 亀有溜井、瓦曽根溜井、松伏溜井などが存在していた。それらは荒川の瀬替や利根川の旧流路の
 締め切りなどによって、流入量が減少し、貯水量が減少していた。一方で流域の新田開発が
 進行するにつれ、用水の不足が顕著となっていた。葛西用水の特徴として、用水不足が生じる度に、
 その対策として用水源を増強あるいは変更し、地理的・地形的に着手が容易な地域の
 新田開発を進め、さらに上流へと用水路の路線を拡張していったことが挙げられる。

 万治3年(1660)の時点では幸手領だけの組合用水だったが、後に水路や施設が改良され、
 次第に下流地域へ用水を補給する水利形態が確立し、享保4年(1719)には、ニ郷半領、八条領、
 新方領、松伏領、谷古田領、東西葛西領、淵江領への広域的な用水へと再編成された。
 葛西用水という名称が定着したのも、この頃からである。なお、近代の行政区分では、葛西領は
 南葛飾郡(東京府)、淵江領は南足立郡(東京府)に相当する。
 葛西用水が最終的に一貫した用水路として完成するのは、利根川からの取水を開始してから、
 約100年後の宝暦年間(1760年頃)になる。水路の総延長は遠大となったが、
 修正・改良を加えながら後発的に形成された水利システムなので、送水・配水方式は、
 複雑で不合理な面も多く、用水路の末端では常に用水が不足する地域もあった。
 用水不足の対策として、琵琶溜井では昭和30年代まで番水が実施されていた。

 溜井を連結した用水路:
 葛西用水路は見沼代用水路と同様に、溜井の代わりとなる新たな水源を
 求めているうちに、最終的に利根川に辿り着いた用水である。
 後発の見沼代用水が溜井を全廃し、その代替水源の開発を目的としたのに対し、
 葛西用水はあくまでも溜井は保持し、溜井への加用水(補給用水)の開発を主眼と
 した点が対照的である。溜井の有無は両用水の送水方式の違いにも現れている。
 見沼代用水は用排水分離であり、そのために新たな用水路と排水路を開削したが、
 葛西用水は用排水兼用であり、旧河川を再利用・再整備した。
 排水について見れば、葛西用水は流域の排水路を兼用しているのである。
 ただし、幸手領用水の開発では琵琶溜井を水源として、用水路(中郷用水、南側用水)と
 排水路(倉松落、安戸落、神扇落)が整備されているので、用排水は比較的分離されている。

 見沼溜井は台地の狭窄部に堤防を築いて水をせき止めた面積が、
 1,000ha以上にも及ぶ広大な貯水池(現代の用語だと遊水に相当)だったが、
 葛西用水の溜井は河道を拡張したものであり(遊水に相当)水面積は小さかった。
 溜井の設置目的は貯水のためではなく、取水のための水位の堰上げであった。
 低い所を流れる悪水を用水として再利用するには、水位を高める必要がある。
 そのため、葛西用水では溜井は干拓されることなく、ほとんどが残され、
 幹線水路は複数の溜井を、旧河道や新水路で連絡した送水形態となっている。
 ただし、幸手領の溜井の場合は状況が少し異なり、河川ではなく、自然湖沼を
 溜井として利用していた。幸手領用水の開発に伴い、ほとんどの溜井は新田へ
 開発され、新たに古利根川の河道には、川口溜井と琵琶溜井が築造された。
 この経緯は見沼代用水の開削に伴う、周辺湖沼の干拓と状況が似ている。


葛西用水路の開発の略史、周辺地域の出来事

年代 出来事 内容
文禄3年(1594) 会の川の締め切り 忍城主松平忠吉(徳川家康の四男)の命により、利根川の幹線の一つである、
会の川(南利根)が羽生市上川俣で締切られた。  利根川東遷事業の始まり
文禄年間 古利根川の締め切り 鷲宮町八甫に蛇田堤が築かれ、古利根川は流頭が締め切られた。
  古利根川は後に葛西用水の水路となる
亀有溜井の成立 綾瀬川の流末を水源とした東京都葛西地域の用水。伊奈忠次による。
慶長年間(1600年頃) 瓦曽根溜井の成立 荒川(現.元荒川)に瓦曽根溜井(越谷市)が設けられる。  八条用水、四ケ村用水
   〃 末田須賀溜井の成立 荒川(現.元荒川)に末田須賀溜井(岩槻市)が設けられる。  岩槻領、新方領の用水
   〃 綾瀬川の締め切り 備前堤を築いて、綾瀬川を荒川(現.元荒川)から切り離した。綾瀬川は荒川の派川だった
 綾瀬川への分水がなくなったので、荒川の水量は増加したと思われる。
これは末田須賀溜井と瓦曽根溜井の水量不足を補うためだろう。亀有溜井の水量は減少
元和7年(1621) 浅間川の締め切り 埼玉県加須市と大利根町の境を流れていた浅間川(東利根)を締め切った。
後に新川通の開削
  浅間川は渡良瀬川へ繋がれる
元和9年(1623) 姥圦の建設(幸手領の用水) 代官 大河内金兵衛が幸手領の用水として、杓子木村(大利根町)の
浅間川(旧利根川)に樋管を設置した。
  充分な取水が望めなかった
寛永6年(1629) 荒川の瀬替 荒川は関東郡代伊奈忠治によって熊谷市久下で締め切られ、和田吉野川、市野川、
入間川の流路へと付替えられた。
  荒川の旧河道は以後、元荒川と呼ばれる。
寛永年間(1630年頃) 見沼溜井の成立 伊奈忠治、見沼に八丁堤を築き、見沼溜井とする。
 浦和領、戸田領、笹目領、舎人領など8領の用水
寛永12年(1635) 江戸川の開削 千葉県関宿から金杉(現.埼玉県松伏町)までの江戸川の上流部が開削された。
流路は下総台地の上である
  新利根川
寛永年間(1640年頃) 中島用水の開削(コラム)
松伏溜井の成立
幸手市中島の江戸川から春日部市八丁目の古利根川を結ぶ用水路が開削される。
同時に古利根川に
松伏溜井(松伏町)が整備される。中島用水とは松伏溜井から逆川を経由して、
瓦曽根溜井、亀有溜井へ送水する加用水。荒川の瀬替や綾瀬川の締切によって減少した、
溜井の水量を増強するのが目的だった。
  新利根川と旧利根川、旧荒川が結ばれる
正保元年(1644) 北河原用水の成立 福川(利根川の支川)から取水。伊奈忠治によって整備された。
 北河原用水の余水は羽生領用水(南方用水路、北方用水路)の水源となった。
承応3年(1654) 赤堀川の3度目の開削 利根川の東遷。茨城県五霞町付近に新流路開削
 赤堀川によって渡良瀬川が常陸川へ繋がれる
万治3年(1660) 幸手領用水の開発
琵琶溜井の成立
悪水路の開削
本川俣(羽生市)の利根川右岸からの取水を開始。同時に川口溜井(加須市)、
琵琶溜井(幸手市)を開発。この頃、
倉松落安戸落(幸手領の三悪水路)が開削される。
 琵琶溜井の余水は古利根川を導水路として、松伏溜井へ送水される。
島川の成立 旧権現堂川の流路跡を整備
 島川は以後、羽生領の主要な悪水落しとなる。
延宝8年(1680) 綾瀬川用水堰禁止令 綾瀬川は排水専用と位置ずけられ、取水堰を設けることが禁じられた。
水位の低下した綾瀬川は流域の新田開発の悪水落に使われる。
元禄年間(1690年頃) 綾瀬川の改修 新綾瀬川を開削(現在の綾瀬川下流部)、綾瀬川の旧流路は古綾瀬川となる。
享保4年(1719) 葛西用水の成立
中島用水の廃止
上川俣(羽生市)の利根川右岸に新たに樋管を埋設し、取水を開始(取水量増強のため)。
琵琶溜井から松伏溜井、瓦曽根溜井へ導水。幸手領だけの用水から10ヶ領組合の用水となる。
 利根川からの取水した水で、古利根川と元荒川が結ばれる
享保13年(1728) 見沼代用水の成立 下中条(行田市)の利根川右岸から取水を開始。
 騎西領、百間領からの悪水量が増大し、松伏溜井の水量は増えたと思われる
享保14年(1729) 亀有溜井の廃止 中川の拡幅工事、小合川を締め切って小合溜井へ整備
 古利根川の下流部(瓦曽根溜井以降)と中川は排水専用河川へ
享保15年(1730) 松伏溜井の整備 井沢弥惣兵衛によって松伏溜井が増強整備される(新編武蔵風土記稿 葛飾郡之一)
宝暦年間(1760年頃) 元圦地点を元に戻す 上川俣の樋管を廃止し、元圦を本川俣に戻す。
天保12年(1841) 与八圦の設置 島川(現.中川)から羽生領の悪水を、葛西用水へ加用水として流入させた。
明治12年(1879) 民費負担へ移行 この頃から国庫下渡し金が廃止され、組合の運営は民費となる。
明治29年(1896) 葛西用水普通水利組合の発足 近世の官費官営から近代の民費民営へ移行。この年には河川法が制定された。
与八圦の騒擾 洪水時に、与八圦のゲート開閉を巡って、羽生領と幸手領の農民が騒動を起こした。
大正8年(1919) 古利根川の改修開始 県営による大落古利根川と元荒川の改修工事
昭和3年(1928) 庄内古川改修の終了 国営による庄内古川の改修工事。中川の成立、与八圦の廃止
昭和15年(1940) 幹線用排水改良事業開始 県営事業による葛西用水の幹線水路の改修
昭和36年(1961) 瓦曽根溜井の改修開始 葛西用水路(用水)と元荒川(排水)の分離工事が実施される。昭和42年竣工
昭和43年(1968) 利根合口事業の竣工 利根大堰を経由して埼玉用水路から分水
昭和48年(1973) 第一次農業用水合理化事業終了 川口溜井の廃止。権現堂川用水の廃止(北側用水から送水)。
昭和62年(1987) 第二次農業用水合理化事業終了 幸手領地区のかんがい方式がパイプライン化される。
余剰水の都市用水への転用
参考文献:葛西用水史 通史編、葛西用水路土地改良区、1992
      葛西用水史
 資料 上下、葛西用水路土地改良区、1988
      新編
 埼玉県史 資料編13、埼玉県、1983

(コラム)中島用水については文献がほとんどなく、その流路もはっきりしない。
 以下に述べるのは、あくまでも筆者の推論に基づく中島用水の流路である。
 この中島用水は、寛永年間に江戸川からの取水を始めたものを対象とする。
 それ以前に、庄内領の中島村で庄内古川から取水していたとされる、
 中島用水の前身については考えない。

 現在、幸手市西関宿の江戸川から取水している中島用悪水路が、中島用水に
 相当すると思われる。中島用悪水路は元圦から幸手市中島、惣新田地区へと
 南に向かって流れ、流末は幸手市惣新田と杉戸町椿の境界で、中川の左岸に
 落とされている。その地点に架かる橋は
古葛西橋という名称である。
 これは中島用悪水路の旧名が、古葛西堀だったことに由来する。
 古葛西橋の付近の中川は、昭和初期に開削された新水路であり、それ以前は
 付近には惣新田落という悪水路が流れていた。惣新田落は古葛西堀を
 合流してから、800m下流で神扇落を右岸へ合流した。ここから下流が
 庄内古川である。中島用水は惣新田落または庄内古川のどちらかを
 越えて、右岸側へ送水しなければならない。

 中島用水が惣新田落の地点で、対岸へ導水されたと考えた場合、
 その方法は横断(例えば掛樋や伏越)、または堰き止め(堰を設けて引水)となる。
 堰き止めでは中島用水が一旦、惣新田落へ落とされて、再取水となる。
 いずれの方式にせよ、用水は杉戸町才羽へ送くられたと思われる。
 才羽地区からは現在の
権現堂川用水路の流路(自然堤防の微高地)に沿って、
 南西へ向かって流れ(県道319号線と同じ)、杉戸町大塚、春日部市不動院野、
 八丁目を抜けて、最後は古利根川へ落とされたと思われる。
 この路線は惣新田落を越えるのは比較的容易だが、他地区の悪水を
 加用水に利用できないという欠点がある。水量不足は否めない。

 一方、中島用水が庄内古川を越えて、対岸へ導水されたと考えた場合、
 中島用水は古葛西橋の地点から、さらに庄内古川の左岸側に沿って流れ、
 適当な地点で庄内古川を、掛樋や伏越で横断したとする流路の存在もあり得る。
 ただし、この流路だと後述するように、あまり意味がない。
 中島用水の流末は古葛西橋の付近で落とされ、庄内古川を流れ、
 適当な地点で再取水されていたと思われる。
 その地点は、打田落の合流直後(杉戸町才羽と北蓮沼の境界)、
 あるいは安戸落の合流直後(春日部市樋篭)であろう。
 再取水後の流路は、現在の権現堂川用水路に沿っていたと思われる
 庄内古川を流下する路線だと、他地区の悪水を加用水に利用できると
 いう利点がある。その利点を生かすためには、庄内古川からの取水が
 必要になる。ただし取水方式は、庄内古川からの自然流入は不可能だと
 思われるので、堰または出しが設けられた可能性が高い。
 ただし堰を設置すると、上流側からの悪水の流下を阻害することになるので、
 利害の対立が発生し、堰の操作を巡って紛争が生じる可能性がある。

 惣新田落、庄内古川のどちらを横断したにせよ、春日部市不動院野から
 八丁目にかけては、中島用水は旧倉松落の路線を流れていた可能性もある。
 旧倉松落は、後に幸手領の悪水落として整備されることになる。
 以上の経路によって、江戸川と古利根川が結ばれ、松伏溜井や
 瓦曽根溜井へ間接的な通水が行われていたのだろう。
 これは万治3年(1660)に幸手領用水が開発される以前のことである。


葛西用水:羽生市から加須市の区間

 この区間は川口溜井(加須市川口)と琵琶溜井(久喜市栗原)へ用水を送るための導水路であり、
 その起源は万治3年(1660)に新規に掘られた用水路である。
 葛西用水は羽生領の悪水路と頻繁に交差するが、悪水路は全て葛西用水の下を伏越で横断している。
 葛西用水路へ悪水が流入する箇所はごく少なく、この区間では基本的に用排水は分離されている。

 葛西用水の始点付近
(1)葛西用水の始点付近 羽生市本川俣
 葛西分水工から500m下流の地点(下流側から撮影)
 葛西用水は東武伊勢崎線の築堤盛土の下を横断して
 流れて来る。写真の右方向が利根川の右岸であり、
 旧堤防(現在は河川敷の中に消え痕跡はない)には
 元圦(旧取水口)が設けられていた。利根大堰が
 建設される以前には、葛西用水路は写真の右側から
 左側へと流れていた。現在は写真中央で旧流路と
 葛西用水路が合流するような形態となっているが、
 旧流路からの通水はない。元圦の跡地は
 
葛西親水公園として整備されている。
 うぅ、フレアとゴーストが(^^;)
   葛西用水の旧流路
  (2)葛西用水の旧流路 (始点付近(1)を、旧取水口側から撮影)
   手前から奥へ連なる水路が、葛西用水の旧流路。
   写真の手前は旧流路をまたぐ埼玉用水の水路橋(葛西水路橋)。
   この橋はレンガ造の2連のアーチ橋(1908年竣工)だったが、
   1968年にコンクリートで改築されて、現在の姿となった。
   改築以前は、
北方用水掛樋または川俣掛渡樋(かけとい)と
   呼ばれた。旧橋(レンガ造り)の橋台と橋脚は、葛西水路橋の
   下に今も残っている。かつて葛西用水はここから下流は水路幅が
   広くなり、砂取り場(沈砂池)となっていたそうだが、今は
   コンリート護岸の水路へと改修されているので、その面影はない。
   300m下流の左岸にある長良神社は、洪水除けの神とされ、
   境内には寛政7年(1795)建立の
水神宮の祠が祀られている。

 羽生市内を流れる葛西用水
(3)羽生市内を流れる葛西用水 羽生市下羽生
 始点から2.6km付近、中川の起点付近。
 下流から撮影。この付近では葛西用水路の下を
 宮田落(排水路)が伏越で横断している。
 その地点に設けられた宮田落伏越が
 [一級河川
 中川の起点]となっている。
 葛西用水の水路断面は台形で、上幅が約15mの
 コンクリートブロック。ここまでは南東に向かって
 流れてきたが、この付近から東へと流れを変える。
 西から東に向かって微高地が続くからだ(会の川の
 派川が形成したものだろう)。
 写真の奥、
あいのはし歩道橋の付近では葛西用水の
 下を、岩瀬落が伏せ越している。羽生市内で
 葛西用水を伏せ越す悪水路(
城沼落宮田落
 
岩瀬落)は中川の水源となっている。

   
加須市内を流れる葛西用水
  (4)加須市内を流れる葛西用水 (上流から) 加須市下谷
   下谷伏越(葛西用水の下を
手子堀川が伏越で横断)の付近。
   葛西用水路には、隔壁(汚濁排水の流入対策)が設けられている。
   用水路は羽生領の低地を流れるので、水路敷高を高くするために
   盛土がなされていて、周辺の土地よりも2m位標高が高くなっている。
   葛西用水は幸手領以南の水田の用水源として開発されたものであり、
   羽生領(羽生市と加須市)の大半の地区には、その恩恵はなかった。
   しかし、最近はかんがい区域に編入される沿線の地区が
   増えているという(注1)。加須市に入ると、葛西用水は流路を
   東から南へ変えて、約1.5Kmの区間は手子堀川(左岸)と
   
午の堀川(右岸)の間を流れる。両河川は落し(農業排水路)が
   起源の中川水系の一級河川だが、その開削時期は
   葛西用水よりも古く、後発の葛西用水と交差する地点では、
   葛西用水路の下を伏せ越しで横断している。
下谷伏越(手子堀川)、
   
正蓮伏越(午の堀川)、七釜戸伏越(岡古井落)は、羽生市内の
   3つの伏越と同様、万治3年(1660)に建設された(注2)。   

 大沼
(5)大沼 加須市北小浜
 葛西用水の左岸に隣接する周囲長約700mの沼。
 上流には北沼と呼ばれる沼もあり、現在は県の
 水産試験場となっている。大沼(注3)からの
 落(排水路)には
松原落などがあり、中川(かつての
 天神堀)へ排水されている。この付近の左岸側
 (上三俣、北小浜)には江戸時代建立の
石橋供養塔
 数多く分布している。

   
東北自動車道の下を流れる葛西用水
  (6)東北自動車道の下を流れる葛西用水 (上流から)
   加須市多門寺。ここから500m南側には東北自動車道の
   加須ICがある。葛西用水の両岸は
会の川の後背湿地だったが、
   現在は開発されて、周辺には水田地帯が広がっている。
   左岸の北篠崎地区には、加須の浮野(うきや)と呼ばれる、
   湿原もあり、水と緑の豊かな農村景観が展開している。
   なお、ここから200m北に位置する愛宕神社には、
   明治24年(1891)建立の
芭蕉の句碑がある。

(注1)羽生領(羽生市、加須市)の区域では、約1,000haが葛西用水から
 取水している。葛西用水の幹線水路には、数箇所にチェックゲート(水位調節堰)が
 設けられていて、その付近には左57分水工などと命名された分水施設がある。
 これは直分と呼ばれる小さな分水工で、水路の側壁に取水口とゲートが
 直接設けられている。直分は川口分水工(加須市川口)までの区間に
 約150箇所もある(付けられた数字から推測)。
 直分という取水形態は、旧来の慣習がそのまま継承されたものだ。

(注2)正蓮とは三俣村の小字名、青蓮とも書いた。正蓮伏越の上流左岸、
 正蓮橋(加須市上三俣)が架かる道路は、現在はやぐるま街道という名称に
 なっているが、これは昔からの街道で、利根川の大越河岸へと通じていた。
 正蓮橋の左岸橋詰には、天保三年(1832)建立の
馬頭観音が祀られている
 上三俣村の馬士講中(馬を使って運送業を営んでいた人々の組合)19名が
 建てたものだが、その碑文には”往還筋の道行く人の無難を祈願”とあり、
 ただ馬頭観音を祀っただけでなく、街道を通行する人々の安全祈願も兼ねている。
 なお、正蓮橋から100m北西の街道脇には、昭和8年建立の馬洗場記念碑もある。
 正蓮橋の左岸橋詰には、昭和初期まで馬洗場があったようだ。
 葛西用水に限らず、かつては農業用水路の水際には、
馬洗場や川棚
 設けられ、地域の生活用水も兼ねていた。

(注3)大沼は北手沼とも呼ばれた。現在も北手沼は北小浜地区の
 字名に残っている。大沼と三俣小学校の間には、表忠碑と
 平和祈念塔が建てられている。表忠碑は昭和11年建立、西南戦争から始まり、
 日清・日露戦争、満州事変までの地元(三俣村)の出兵者が記されている。
 平和祈念塔は昭和39年建立、大東亜戦争での三俣村の戦死者が記されている。


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