岩瀬悪水圦
所在地:羽生市下羽生、岩瀬落(葛西用水を横断) 建設年:1900年
岩瀬悪水圦は岩瀬落伏越とも呼ばれる。岩瀬落(農業排水路)が葛西用水の下を横断する地点に
設けられた伏せ越しである。その起源は古く、万治三年(1660)に関東郡代伊奈忠克によって、
葛西用水が開削された時に設けられたのが最初である(文献17)。当時の岩瀬落は葛西用水を
伏せ越して、大沼(現在の大沼工業団地一帯にあった自然湖沼)へ排水していたが、
現在、岩瀬落は中川へ排水している。
岩瀬悪水圦は建設当初は木製(注)だったので、腐朽や損傷の度に数回の補修・改築を重ねていたが、
明治33年(1900)には羽生町外14ケ村組合(用排水路の維持管理だけでなく水防も兼ねた)が
県税の補助(町村土木補助費)と埼玉県の技術指導を得て、煉瓦造りへと改良した。
この工事では岩瀬悪水圦と同時に、宮田落伏越の煉瓦造り改築も行なわれた。
これら2つはまったく同型の伏越だった。岩瀬悪水圦は樋管長18間(約32.7m)、
通水断面はアーチ型で幅3尺6寸(約1.09m)、中央高3尺7寸6分(1.14m)、
使用煉瓦数は84,300個(選焼過一等24,500個、普通一等煉瓦59,800個)であり
(→埼玉県行政文書 明2476-37)、埼玉県の煉瓦水門としては、中規模である。
建設工事を担当したのは、地元の田村組の可能性が高い。
田村組は北埼玉郡不動岡村(現.加須市不動岡)の田村重兵衛が営んでいた土木請負会社であり、
1907年には稲子圦(羽生市、利根川に設けられた羽生領用水の元圦)の建設工事を
請け負った記録も残っている。→羽生領水利史 通史編、羽生領用悪水路土地改良区、p.484
ちなみに加須市の総願寺(不動ヶ岡不動尊)の黒門は、忍城(明治初期まで行田市にあった城)の
城門を移築したものだが、これも田村組の田村重兵衛がおこなった。
黒門の門柱には寄進者 田村重兵衛と彫り込まれている。
岩瀬悪水圦は昭和49年(1974)に煉瓦伏越を残したまま、横にコンクリートの伏越が増設されたが、
平成8年(1996)には伏越全体がコンクリートで改修され、現在に至っている。
名称は岩瀬伏越に変更された。管理は羽生領用悪水路土地改良区がおこなっている。
(注)岩瀬悪水圦は武蔵国郡村誌の埼玉郡上羽生村(13巻、p.72)に
”岩瀬悪水樋:長十八間 内法横九尺高四尺 葛西用水にあり”と記されている。
郡村誌は明治9年(1876)の調査を基に編纂されているので、この記述の圦樋(伏越)は
木造である。樋管長が32.7m、通水断面は四角形で巾が2.7m、高さが1.2mだった。
煉瓦造伏越と樋管長はまったく同じだが、不思議なことに木造伏越の通水断面はかなり大きく、
煉瓦造伏越の3倍近い。完全な伏越ではなく、葛西用水への逃樋(余水吐)を伴っていたのだろうか。
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←岩瀬悪水圦の銘板 羽生領用悪水路土地改良区(羽生市上羽生)の敷地内に 保存されている。ここは岩瀬伏越から北へ150mの地点である。 上が施設名の銘板、下が竣工年の銘板。 共に石造りで寸法は236cm×46cm×30cm。 出来高書に樋名及年月日記入石(長八尺巾一尺五寸厚一尺)、 と記された部位である。石材は堅石とあるので安山岩系の石だ。 施設名は右から巖瀬悪水圦、 竣工年は明治三十三年四月竣功と刻まれている。 書体は隷書体である。 竣工年の銘板の右側面には、組合管理者(北埼玉郡長 野村定長)、 掛官 埼玉縣技手 野村武の名がある。 左側面には臨時委員として、川俣村、手子林村、羽生町などの 5名の名前が記されている。竣工年の銘板は壁体に 埋め込まれていたのではないようだ。 |
![]() ↑葛西用水と岩瀬落(下流から) 南大橋(県道84号羽生栗橋線、葛西用水に架かる)から 写真の中央に見えるのは岩瀬落のサイフォン余水吐。 岩瀬落が増水して、伏越だけでは通水しきれない時には、 サイフォンを使って葛西用水へ放流する仕組みになっている。 |
![]() ↑岩瀬伏越(下流から) 岩瀬悪水圦をコンクリートで全面的に改修した施設。 煉瓦造り伏越の面影を残すためだろうか、 伏越の呑口と吐口には煉瓦(タイル)が貼られている。 下水処理の過程から生じた汚泥を再利用した煉瓦だという。 |