埼玉県の煉瓦樋門  注釈     改訂34版:2010/04/12   →参考文献の一覧

 [埼玉県最期の煉瓦樋門][お雇い外国人][煉瓦樋門の建設工事][建設工事の請負方式][煉瓦樋門を建設した人々

 [煉瓦樋門の消失][埼玉県の煉瓦工場][日本煉瓦製造と中小煉瓦工場][煉瓦詐称事件

注1)埼玉県最期の煉瓦樋門

 大正9年(1920)竣工の福川樋門は、煉瓦と鉄筋コンクリートの混合造りであった(→文献19、p.653)
 煉瓦は樋門の表面にのみ使われ、コンクリート打設のさいには型枠の役目も兼ねたようだ。
 福川樋門は内務省による利根川第三期改修工事(1909年着工)の付帯工として建設されたものである。
 コンクリート構造物なのだが、福川樋門の規模は見沼代用水元圦よりも小さい。
 見沼代用水元圦は埼玉県史上最大の煉瓦樋門(1906年竣工)であり、福川樋門から3Km下流の
 利根川の右岸堤防に設けられていた。福川樋門の事例から明らかなように、
 施設規模の大小を問わず、大正中期はもう煉瓦ではなく、コンクリートの時代なのである。

 しかし、煉瓦樋門へのオマージュだろうか、樋門の主流が煉瓦からコンクリートへと移行するこの時期には、
 福川樋門のように内部構造はコンクリートだが、表面には煉瓦や石材を貼り付けた樋門が多く建設された。
 既設の煉瓦樋門をコンクリートで全面改築するさいにも、表面だけは煉瓦で仕上げられた例がある。
 大正7年(1918)改築の備前渠圦樋(利根川、本庄市、埼玉県初の煉瓦樋門)(→文献4、p.181)
 大正8年(1919)改築の葛西用水元圦(利根川、羽生市)(→文献18、p.533)などが挙げられる。
 大正15年(1926)?に竣工した備前渠用水の矢島堰と矢島樋管(小山川、深谷市)も
 表面は煉瓦仕上げ(内部はコンクリート造りだと思われる)であった。(→文献4、p.254)
 ということは、埼玉県の煉瓦樋門建設の最初と最後を飾ったのは、備前渠用水の樋門ということになる。
 なお、矢島樋管のアーチリングは、盾状の迫り石(五角形)の切り石積みであり、埼玉県の煉瓦樋門では
 見沼代用水元圦や佐波樋管とともに珍しいものであった。(盾状迫り石のアーチリング→籠嶌樋管寺坂橋高台橋

 純煉瓦造りの樋門として最後のものは、筆者の知る限りでは、大正6年(1917)竣工の
 男沼樋門(利根川、妻沼町、一部残存)である。福川樋門と同様に利根川第三期改修工事に
 関連した施設だが、建設申請者は地元民であり、設計は内務省の技師 福田次吉、工事監督も
 内務省が担当している。男沼樋門は単一アーチ(直径2.4m)だが、利根川の近代堤防に
 伏せ込まれた排水樋門なので、使用煉瓦数が約15万個と大規模である。装飾には石材が
 豊富に使われていて、銘板と笠石は花崗岩、川裏のアーチリングは切り石積み(楯状の迫り石)であった。
 しかし装備されたゲートは木製の観音開きゲートだった。

(追補)躯体の表面に煉瓦を貼った水門は、昭和になっても作られていた。
 ◆宮田逃樋(中川起点、羽生市、1930年)は、宮田落し伏越(葛西用水を横断、
  1900年に煉瓦造りで改築)に併設された逃樋(にげひ:余水吐)である。
  伏越の外見に合わせて逃樋も煉瓦造りとしたのであろう。
  ただし構造はコンクリート製であり、表面に煉瓦を貼った造りだったと思われる。(→文献17、p.1009)

 ◆大里用水の排砂閘門(六堰頭首工から取水後の沈砂池に設置、大里郡川本町)は、
  昭和3年の計画段階では煉瓦造りであったが、最終的(昭和14年竣工)には
  コンクリートで建設された。(→大里用水路改良事業計画書、埼玉県、1928)

 ◆飯積樋管(利根川左岸、北川辺町、1930-1933年)は、飯積用水路の元圦であり、
  明治36年に建設されたという木製の樋管を煉瓦造りで改築したもの。(→文献28、p.262)

 ◆三領水門(荒川左岸、川口市、1939年)は、奇才、金森誠之の設計によるもので、
  彼の考案した鉄筋煉瓦工法を駆使した水門。鉄筋煉瓦工法が最初に採用されたのは、
  六郷水門(多摩川、東京都大田区、1931年)の工事であった。三領水門の基礎杭には
  金森式鉄筋コンクリート特殊枝杭、床版は鉄筋および古軌条(古レール)混用コンクリートを使用している。
  放物線形状の翼壁はコンクリート製ではなく、完全な鉄筋煉瓦製であった。(→文献59、p.161)
  床版に使われた古レールは、昭和初期の埼玉県の土木工事を特色つける建材である(→古レールのアーチ橋
  かつては川口市民にとって赤水門といえば、岩淵水門のことではなく、三領水門のことであった。
  現在の三領水門は全面改修され、ゲートの表面に虹と鳩が描かれた、お茶目な水門に変貌している。

 ◆筆者が把握している煉瓦樋門を以下のページにまとめた(→建設年別の分布

注2)お雇い外国人

 内務省土木局(現在の国土交通省に相当)のお雇い外国人は、オランダ人で占められていた。
 ”世界は神がお造りになったが、オランダはオランダ人が造った”という言葉が示すように、
 オランダは堤防を築き、低湿地を干拓することで国土を広げた国である。その干拓・治水技術を
 明治政府は高く評価したのだろう(オランダの土木技術が当時の世界最高レベルだったとは思えないが)。
 最初のお雇いは、明治5年(1872)に招聘されたファン・ドールン(長工師)とリンドウ(二等工師)であった。
 埼玉県の煉瓦水門建設史に関係が深い、お雇いはムルデル(一等工師)である。
 ムルデルは明治12年(1879)に来日したオランダ人技術者で、利根川改修計画(低水工事)、
 利根運河(千葉県流山市、野田市、柏市)、児島湾干拓(岡山県)の基本計画、
 三角西港(みすみ:熊本県宇土郡三角町、日本に唯一現存する石積の埠頭)等の設計を担当した。
 ムルデルは明治10年代後半には、利根川の改修や利根運河の建設に関与していたので、
 内務省の利根川出張所(東葛飾郡関宿、現在の幸手市西関宿)に常駐することが多かったようである。
 現在の茨城県関宿町は江戸川の流頭部(江戸川は利根川の派川)に位置し、江戸川を介して
 埼玉県の幸手市や杉戸町と接している。埼玉県は明治14年頃には洋式の土木工事の方法を
 習得させるという名目で、土木工事伝習生徒という制度を制定し、内務省土木局関宿出張所に
 将来の技術者候補となる若者を派遣していた。

(a)ムルデルの動向
 埼玉県は明治18年(1885)に、利根川を巡視中であったムルデルに備前渠圦樋(本庄市、利根川)の
 改修方法について調査を依頼し、その回答を得ている(→文献24、p.103)
 備前渠用水は慶長9年(1604)に伊奈備前守忠次によって開かれた、埼玉県最古級の歴史を持つ、
 農業用水路である。備前渠圦樋はその元圦(取水口)だが、利根川の流路の変動が激しい地点に
 設けられていたので、用水路へは土砂の流入・堆積が度重なり、取水困難に陥っていた。
 ムルデルに調査依頼をした当時、取水量確保の打開策として、元圦を本庄市仁手(にって)から
 さらに上流の久々宇(くぐう)へ移設する計画がもちあがっていた。ムルデルへの調査依頼には
 新らしい元圦の設計(方針の提示?)も含まれていたと思われる。ムルデルの回答は元圦地点から
 下流に木製の樋門(形式は堰枠)を3基直列に配置した案だったが、これは既存の元圦の方式(仁手では
 2基直列文献4、p.84-85)を踏襲したものだった。樋門を多重に配置したのは、利根川の洪水が
 用水路へ流入するのを完全に阻止するための安全装置であり、樋門間の水路部分については
 沈砂池として利用する目的があったと推測される。

 明治18年の時点では備前渠圦樋は木造で設計されていたのだが、不思議なことに、明治20年(1887)5月に
 竣工したのは煉瓦造の樋管だった。これは埼玉県初の煉瓦造樋管とされている(厳密には起工が最初で
 あり、竣工は明治20年4月の柴山伏越に次いで2番目)。備前渠圦樋に使われた煉瓦は遠方から搬入した
 のではなく、幡羅郡明戸村(現.深谷市明戸)の韮塚直次郎によって、建設現場付近で焼かれたと思われる。
 韮塚は官営富岡製糸工場(明治4年に完成)の外壁用煉瓦(赤煉瓦である)を、フランス人ブリューナの
 指導の下で焼いた実績がある(ちなみに富岡製糸工場の煉瓦はフランス積みで組まれている)。
 韮塚の生家は備前渠用水の畔であり、明治20年には隣村に日本煉瓦製造が操業する。
 なお、本庄市付近の利根川改修工事の設計の一部をムルデルが担当し、水制工として洋式の
 粗朶沈床工(そだちんしょう)が明治20年に施工されたとの記録(→埼玉県行政史 第1巻、埼玉県、1989、p.582)
 
残されているので、この時に備前渠圦樋の建設工事も行なわれたのであろう。

 これより前、明治14年(1881)にもムルデルは利根川の堤防改修工事の視察として、深谷市中瀬を
 訪れている。中瀬橋(上武大橋の前身の木の橋)の竣工記念碑にそのことが記されている。
 また、同年にムルデルは見沼代用水の元圦改修についての調査報告書を提出している(→文献24、p.97)
 この報告書では元圦を全面改築するのではなく、木造のままで取水方式を改良することが
 提示されている。ムルデルは見沼代用水へは技術顧問として関与していたようなので、
 明治20年(1887)4月に竣工した柴山伏越(煉瓦造り)の設計にも携わったのではないだろうか?
 柴山伏越の工事開始は、埼玉県初の煉瓦樋門である備前渠圦樋よりも早かったので、
 柴山伏越は埼玉県で最初に煉瓦造りで設計された水門だったといえる。
 23万個にも及ぶ大量の煉瓦をどこから入手したのか、なぜ通水断面を幌型(側壁の上にアーチ)ではなく、
 施工が難しい円形としたのか、など柴山伏越については疑問点が多い。

 なお、見沼代用水の元圦は柴山伏越と同時に、明治20年に煉瓦で改良する計画があったが、
 明治19年の埼玉県議会の予算審議において、原案が反対多数で棄却されている。
 "〜略〜 煉瓦ヲ以テ改良ノ予定ナレ共木材未タ朽チサルヲ以テ古材ヲ用ヒテ修繕スレハ
 尚ホ多少ノ歳月ニ堪ユルノ考ナリ"や”〜略〜 組合ノ負担ハ甚ダ軽ク地租一円ニ付二銭程ナリ
 此軽キ負担ニ向テ補助ヲ与フル位ナレバ彼ノ備前渠ノ如キハ多分補助ヲ与エサルヘカラス”などの
 反対意見が提出されている(→埼玉県議会史 第一巻、1956、p.720)
 耐用年数がまだあるので時期尚早なこと、他の水利組合に比べて不公平となる高率の補助は
 与えられないというのが、煉瓦樋門の建設費補助申請が却下された主な理由だった。
 見沼代用水の元圦は、埼玉県初の煉瓦樋門となる可能性があったのである。
 この煉瓦造り元圦の設計にもムルデルが関与したのではないだろうか。
 見沼代用水元圦の煉瓦工事は明治25年に再度、上申されたが、またも埼玉県議会で否決されている。
 (→埼玉県議会史 第2巻、1956、p.118)。ちなみに見沼代用水の元圦が煉瓦造りとなるのは、
 最初の申請から実に20年後の明治39年(1906)である。
 見沼代用水元圦は埼玉県史上、最大の煉瓦樋門であった(使用煉瓦数66万個)。

(b)お雇い外国人の功績
 彼ら、オランダ人技術者が来日してから、まず着手したことは水準原点と量水標(水位観測のための
 目盛の付いた標識)の設置だったと言われている。それまで日本には河川全体を通して水位を観測し、
 流量データを収集・分析するという慣習はなかったのである。江戸時代から水防上の危険箇所に
 量水杭を設置し、観測することはおこなわれていたが、量水の意味はあくまで水位観測であった。
 流量という概念はなかったようである。オランダ人によって、水位観測データを河川工事の計画・設計の
 基礎資料とする科学的な方法論が導入されたのである。埼玉県では明治11年(1878)に利根川の
 妻沼村地先へ水量看守人を配置した記録が残っている(埼玉県行政文書 明1717-2)
 のちに名称が水量番人と変更されるが、明治30年頃まで治水堤防費に計上されていた。
 オランダ人発案の水準原点であるT.P.(Tokyo Peil、東京湾中等潮位)やY.P.(Yedogawa Peil、利根川や
 江戸川の水位を表す基準)は、現在の河川計画でも使われている。
 Peilとはオランダ語で基準点のこと。Yedogawaとは江戸川のオランダ風の読み方(笑)。
 当時、河川の水準原点はオランダ人の指導のもとで設置されたが、陸地の測量水準点(几号水準点)は、
 イギリス人の指導によって設置された。ともに内務省管轄の水準点である。几号水準点(きごう)
 埼玉県内には江戸川沿線の神社などに数多く残っている。また、昭和初期に設置された(と思われる)
 標石なのに旧態な几号水準点の図柄様式を踏襲したものが、利根川や荒川の流域には数多く残っている。
 これらは河川工事の補助水準点として設けられたものだろう。→几号の付いた水準点
 また、彼らによって河川の保全に関して、水源地の涵養林、砂防を重要視する捉え方、
 流域一貫の思想が広められた。

 お雇い外国人は明治初期には近代技術の啓蒙・教育に多大な貢献をしたが、明治20年代後半になると、
 その多くは任を解かれ本国へ帰国している。外国留学(主にフランス)からの帰国者(古市公威、
 沖野忠雄など)を含め、教えられる側の日本人の技術レベルが向上したこと、お雇い外国人の給料が
 莫大であり、国庫負担に耐えないというのが主な理由である。
 ただ、デ・レイケだけは明治36年(1903)まで日本に残っていた。帰国のさいにはそれまでの功績が
 称えられ、日本国から勲二等瑞宝章が贈られている。デ・レイケには常願寺川(富山県)を視察したさいに、
 その急峻な河川勾配に驚き、”これは川でない滝だ”と言ったとされる逸話が残っている。
 半面、この逸話は一面の低地を干拓したオランダという国の土木技術は、日本のような地形の変化が
 大きい国には、適応しない面も多々あることを示しているとも解釈できる。
 ともあれ、埼玉県では若手の技術者候補がお雇い外国人と接触し、彼らから洋式の土木技術を
 吸収していたのは間違いない。埼玉県の煉瓦樋門はオランダ人技術者の置き土産なのだろうか。
 ところで、オランダ人技術者の名前の表記は、書籍によってまちまちである。
 例えばムルデルをムルドウやムンドル、デ・レイケをデ・レーケ、エッシャーにいたっては、
 エッセル、エッフィルである。ちなみに、だまし絵で有名な画家のM・C・エッシャーはエッシャーの息子だ。

注3)煉瓦樋門の建設工事

 煉瓦造り樋門の竣工を記念して建てられた石碑が埼玉県には数多く残っている。
 それらには樋門建設の経緯、関係者名、建設費用等と共に、起工日、竣功日も記されている。
 明治30年頃の町村の土木工事では、本格的な建設機械などは使われることはなく、
 工事は人力が主体であったのだが、煉瓦樋門はどれも驚くべき速さで竣功している。
 一例として、見沼代用水元圦(1906年、使用煉瓦数67万個、呑口6連、吐口2連アーチ)は5ケ月、
 庄内古川門樋(1891年、使用煉瓦数40万個、呑口2連、吐口4連アーチ)は3ケ月、
 倉松落大口逆除(1891年、4連アーチ)と笠原堰(使用煉瓦数5万個、5門)は3ケ月で建設されている。
 さらに、星河村(現.行田市皿尾)の煉瓦樋門群(堰3基、樋管1基)は4基を2ケ月、太田村(現.行田市)の
 煉瓦樋門群は5基を2ケ月、千貫樋(使用煉瓦数は約12万個)にいたっては、45日で工事が完了している。
 これらの工事は煉瓦樋門を新規に建設するだけでなく、旧施設の撤去作業、仮締切や排水路の
 築造・撤去も含まれていたわけだから、短期間で工事が完了しているのは、綿密な工程計画と
 厳重な現場管理がなされたことが想像できる(補足1)
 建設機械が存在しなかったことを考慮すると、必然的に大量の人員が動員され、
 過酷な労働が強要?された情景が頭に浮かぶ。

 なお、樋門の建設工事は冬場におこなわれた。樋門の竣工日が3月から5月に集中しているのは、
 このためである。不可解なことに、明治27年頃までは河川関連の建設工事は、河川の出水期である秋に
 実施されていたようだ。これは当時の埼玉県の会計年度の事情(予算執行)が、そのまま工事開始時期に
 反映されていたからだろう。明治27年の埼玉県議会では工事の時期を改め、冬期に起工し4月位に
 竣工するようにとの意見書が議員から提出されている。”治水堤防起工ノ時期ヲ秋季ニシテイテハ、
 出水ノ為、築品ノ流出ヤ修堤ノ決壊等ガアリ損害モ大キイシ、又農繁期ニ際スルヲ以テ人夫ノ欠乏
 労銀ノ沸貴等モアルノデ〜以下略”(→文献14b 第2巻、p.312)
 農繁期に工事をしていては、人夫(工事の就労者)が不足するという論理は、奇異に感じるかもしれないが、
 当時の土木工事は人力に頼っていたので大量の人員が必要であったこと、町場を除く大半の村では
 皆、農業に従事していたこと、農村は労働力の供給基地だったことを、念頭に置かないと理解しにくい。

 樋門の大半は農業用施設なので、非かんがい期(田んぼに水がない時期)に工事を進める必要があった。
 そして遅くても4月頃(かんがい期が始まる前)には工事を完了することが要求された。
 現在のような強制排水設備(ポンプ等)が日本国内に出現するのは明治25年頃(→文献61、p.539)
 されているが、これは排水機場を指しているようである。動力排水機が実用化されたのもその頃である。
 例えば、明治26年(1893)には出崎栄太郎によって蒸気タービンを利用した動力排水機が製作され、
 岐阜県の輪中地帯で耕地の排水に使われた実績がある。(→文献66、p.75)
 しかし、動力ポンプが土木工事に機械として本格的に導入されるのはもっと後のことであり、
 それも国直轄などの大規模な工事に限定された。煉瓦樋門の大半は小規模な町村土木工事なので、
 施工には本格的な強制排水設備や建設機械は導入されていない。
 そのため、樋門の工事は河川の水位が自然に低下する冬まで待ち、仮締切(工事用の仮設堤防、
 周辺を掘削して出た土を盛って造成した)を設けてから、余分な水や掘削による湧水は
 手漕ぎあるいは足踏みの水車(踏車)等を使って排水したのである(補足2)

 なお、煉瓦は積む直前まで水に浸しておくことが推奨されていたので、赤城おろし(北関東特有の
 冬の季節風)が吹きすさぶ中での作業は、寒さと冷たさとの闘いでもあり、想像以上に過酷なもの
 だっただろう。しかも当時の土木工事の労働時間は一日9時間以上であった。
 当時の埼玉県の工事単価では、人夫の単価は一日当り9時間労働として算出されていた。
 冬場に9時間労働を達成するには、就業開始時刻は遅くても朝7時となる。

 (補足1)煉瓦樋門工事の工程例
  大小合併門樋(アーチ型、使用煉瓦数は約42,000個)の工事日程は、以下の様に
  計画されていた(埼玉県行政文書 明2447-17)。大小合併門樋は既設の2基の木造樋門を
  新たに1基にまとめたもので、埼玉県の煉瓦樋門としては中規模の大きさである。
  (1)掘削 20日間(仮締切の築造と旧施設の撤去を含む)
  (2)杭打ち 20日間(器機の搬入据え付け等に2日間)
  (3)杭頭切断及び土台木据付 5日間(これらは基礎コンクリート打設のための準備作業)
  (4)コンクリート製造 5日間(並行して煉瓦積みのための遣形(型枠の一種)を建造)
  (5)煉瓦積立 15日間
  (6)築堤及び埋め戻し 30日間(仮締切の撤去を含む)

  合計95日間の計画である。全工程の53%を土工、30%を基礎工事、17%を煉瓦積みが占めている。
  この工程から類推すると、中規模な樋門で形式が箱型の場合、掘削及び築堤の量が少なければ、
  工事は60日間位で完了しそうである。
  ちなみに、掘削及び築堤は工程中で最も人工(にんく:日数と人数)を要するが、これは特殊な
  技術を必要としない単純労働なので、地元の人々が人夫として雇われたと思われる。
  掘削の工程は開削工事なので、仮締切の築造以外にも、土留め工と支保工の設置が必要となる。
  それらは掘削面の崩壊を防ぐための仮設構造物であり、木製の板などで掘削面を補強した。
  土留め工と支保工は土を埋め戻すさいに撤去される。築堤では法面覆工として、芝が張り付けられた。
  煉瓦積立の日数は15日間と記されているので、1日に積む煉瓦数は2,800個である。
  明治24年に建設された釘無樋管(川島町、煉瓦使用予定数14万4000個)の工数予定でも
  1日に積む煉瓦数は2,820個となっている(明治廿三年度釘無圦樋改良叢書、埼玉県立文書館、宮前 鈴木庸行家文書3112)
  これは、煉瓦職人1人が1日に平均700個を積むとして4人、あるいは1日に平均900個として3人の
  概算だと思われる。作業空間と積み立て工事の局所性・対称性を考えれば、2人での作業も考えられるが、
  1人で1日に平均1400個の煉瓦を積むのは、かなり困難だろう。
  煉瓦積みのための遣形を担当したのは大工である。遣形の材料には旧施設に使われていた古木が
  用いられることがあった。アーチ部分の遣形は特に拱架(拱とはアーチのこと)と呼ばれた。
  なお、大工は杭頭切断及び土台木据付や基礎囲みの矢板の製造も担当した。

 (補足2)水替工法  水車
  煉瓦樋門の設計書には、建設機材として水車(水替水車)が計上されているものが多い。
  例えば、太田村(現.行田市)の樋門群明治36年、埼玉県行政文書 明2497-35)
  榎戸堰(明治36年、吹上町、埼玉県行政文書 明2496-4)、皿田樋管(明治36年、蓮田市、
  埼玉県行政文書 明2499-20
)、庄兵衛堰枠(明治40年、白岡町、埼玉県行政文書 明2516-19)などである。
  水車人夫の経費欄には、一日平均四挺などと記されている。挺という単位は具体的にどのような
  作業を示すのか不明だが、江戸時代には既に使われている。例えば樋管普請の仕様書などに
  水替桶九挺などの表記が見られる。この場合は水車ではなく桶で水を汲み出したのだろう。
  漢和辞典によれば、挺とは[引き抜く]を意味する。文字通り、溜まった水を[引き抜く]行為だ。
  水車による水替がどれ位の人数を要したかは、例えば文覚門樋(明治26年、吉見町)の
  出来形帳(埼玉県行政文書 明1792-12)には、水車五挺一昼夜三十人とある。
  二交代制だと1挺に付き3人、三交代制なら1挺に付き2人が常時、現場で作業をしていたことになる。
  一方、大規模な樋門の建設工事では、人力ではなく動力の水車が使われている。
  北河原用水元圦(明治36年)の予算書(埼玉県行政文書 明2497-34)にはポンプ、
  見沼代用水元圦(明治39年)と小針落伏越(大正3年)の仕様書には蒸気ポンプの記述がある。
  当時の蒸気ポンプの燃料は石炭である。

 (補足3)町村土木補助工事の手順
  煉瓦樋門の建設工事は、おおむね以下の手順で行われた。
  ただし、町村土木補助工事として県から補助金を得る場合の例である。

  (1)工事の許可申請
   許可申請は行政上の手続きであり、埼玉県知事に対しておこなわれる。
   樋門建設の申請者は郡長や町村長(水利組合、水防組合などの管理者)であるが、
   建設工事の立案・決議は地元民(水利組合などの構成員)によって自立的におこなわれている。
   煉瓦樋門の設計図と仕様書(予算書)を県に提出して工事の承認を受ける。
   ただし、町村土木補助工事は許可申請数が多いので、必ず承認されるわけではない。
   県では工事内容を査定し、選別した上で承認となる。承認されたなら補助金の申請を行なう。

  (2)予算の審議
   承認された煉瓦樋門工事に対しての建設予算の審議である。
   これは埼玉県議会の定例予算審議でおこなわれた。争点は補助金の額であり、
   もし、この段階で補助金の交付が否決されると、事実上、煉瓦樋門の建設は不可能となる。
   ただし、建設の許可は下りているので、建設費の全てを申請者が負担しての工事は可能である。
   この場合は行政上の扱いは、私営工事となるのだろうか。

  (3)築品と建設業者の手配
   築品(建設資材)と建設業者の手配は、概ね樋門建設の申請者がおこなった。
   つまり、当時の郡長や町村長は土木工事の監督を兼ねていたのである。
   築品の購入は申請者が随意契約で買い入れるか、時間に余裕がある場合は、
   予算額を超過しないよう、公入札に付されるのが慣例だった。

  (4)築品の検査
   築品が工場(建設現場)に到着した時点で、県の監督技術官によって品質や数量が検査された。
   県からの補助金を得た工事なので、築品購入に関する不正を未然に防ぐためである。
   この背景には、公入札を経ないで、申請者が直接、築品を購入するケースも多々あったからである。

  (5)工事の実施
   設計図・仕様書に示された通りの工法、工程で建設工事を実施する。
   県の技術官は工事現場を巡視する程度であり、工事監督(現場に常駐)を代行することはなかった。
   何らかの理由で工事が遅れそうな場合には、その旨と理由を記した文書を県に提出し、
   竣工期限の延長を申請する。

  (6)竣工検査
   県の技術官による竣工検査を受ける。出来形帳(竣工届の一種)を県に提出し、
   仕様帳(設計書の一種)との著しい齟齬がないことが検査される。
   その後、出来形帳を基に工事費用(築品購入や人件費等)の収支決算を地元民に対して開示する。

(注3補)建設工事の請負方式

 当時の埼玉県の行政区分では煉瓦樋門工事は、町村土木補助工事に分類されていたが、
 町村の単位が現在よりも遥かに小さかったこと、利害を共にする複数の町村が水利組合や水防組合の
 名のもとに結束して工事を遂行したことなどから、形態的には現在の団体営事業に近いといえる。
 煉瓦樋門の竣工検査証によると、当時の工事方式には、(1)関係町村共同人民ノ請負、
 (2)随意契約請負、(3)県直轄があったようである。数字が小さい程、建設申請者である地元民の方が
 許可者である県よりも、実質的には工事の主導権を握っていたと思われる。
 しかし、町村土木補助工事は、公共土木工事の過渡期の形態であり、時代を経るにつれ、
 工事の主導権は民から官へと移行している。つまり、(1)の方式は比率が減り、(3)が増えている。
 ただし、どの工事方式でも、土工などの単純作業の労働力(大量に必要とされる)は
 地元から調達された。煉瓦樋門の建設事業には地元住民が直接参加していたのである。
 なお、当時の公共土木工事では競争入札が一般していたが、埼玉県行政文書の書式・表記区分の
 関係だろうか、竣工検査証には競争入札と記された事例はない。
 埼玉県の土木工事入札請負規則に、随意契約請負方式と競争入札への参加資格制限の条項が
 設けられたのは明治31年(1898)であり、意外に遅いこの条項は入札における談合等の不正行為を
 防止するために追加された。埼玉県議会に対して民間から提出された、土木工事入札請負規則改正の
 建議書(陳情書)には、その提案理由に”〜略〜 土木工事請負ニ付テ入札人ガ共謀結託シテ不正ノ利ヲ貪リ
 又ハ到底請負フ能ハサル底ノ無資力者ニシテ入札人トナリ割付金ト称スル一種不義ノ利益ヲ
 塾断スルモノ多キハ畢次耳ニスル所ナリ”とある(→埼玉県議会史 第2巻、1958、p.734)
 つまり、土木工事を請け負うことで、不正な利益を得ていた輩が多かったということである。

 (1)関係町村共同人民ノ請負
 俗に村請けとも呼ばれ、近世から続く伝統的な工事方式(自普請や百姓役普請)に近い形態である。
 ただし、自普請のように村が工事費用を全面負担したわけではなく、総建設費のうち築品(建設資材)に
 相当する分は県からの補助金が得られたので、収支だけを見れば、幕末期の御普請に近いといえる。
 建設申請をした村が工事全体を請け負うもので、建設工事の労働力は地元から供給された(人夫には
 地元民が動員された)。専門的な技術を要する工事箇所(測量、杭打ち、煉瓦積み)には業者を手配した。
 工事監督は建設申請者である町村長または郡長が担当したが、施工段階での技術的な判断は
 不可能なので県に対して技術官の派遣を出願し、判断を仰ぐのが通例であった。
 逆に見れば煉瓦樋門といえども、洋式工法の部分(基礎工事と煉瓦積みは業者に依頼した)を除けば、
 旧来の木造圦樋と築造方法に大差はなく、工数の半分以上は(地元民でも可能な)人力投下型の
 掘削と埋め戻しなので、村請けであっても充分に施工が可能だったということになる。
 幕藩時代に培った普請組合の伝統が踏襲されていたので、当時の町村は土木工事の素養が
 充分にあったのである。もっとも各種文献によれば、寛保年間(1740年頃)に既に、用排水路等の
 普請は請負業者による施工が一般化していたともされる。これは町村の土木工事の能力や技術力が
 低下したわけではなく、自らの労働力を提供する代りに金で済ませる社会的風潮が広まったためである。
 当時盛んだった、町人資本による新田開発も請負業者の存在があったからこそ、可能だったのだろう。

 明治24年(1891)に竣工した釘無門樋(川島町、入間川)の建設工事は、川島領悪水普通水利組合が
 請け負ったのだが、実質的な工事形態は水利組合を構成する川島領5村による村請けであった。
 工事に先だって工事委員を各村から選出し、工事中の事務手続きを担当させる2名の定詰委員
 (工事現場に常駐する人)を選任し、彼らが毎日現場へ出向いて庶務や帳簿の整理、工事日誌を
 記録するなど、工事に対して手馴れた対応を見せている。また、工程表を作成して、それに基づいて
 必要な建材や労働力を手配し、さらに丁場割を決めて、工事の担当箇所や人員の割付も行なっている。
 とはいえ組合としては、煉瓦樋門の工事は初めてのことなので、埼玉県に対して技術官の派遣を
 請願している。出願書の文面には”組合内工事熟練ノモノ無、未ダ煉瓦工事ノ義ハ不心得者ノミニシテ”
 などと記されている(→明治廿三年度釘無圦樋改良叢書、埼玉県立文書館、宮前 鈴木庸行家文書3112)
 さらに、技手御派出願では”県庁技手御壱名御派出、工場ノ御監督ハ勿論伏込方一式御担任竣功相成候様”と
 続いている。工場(工事現場)へ出向して伏込方(樋門の建設工事)を一式担当して欲しいとの請願である。
 一方、監督する立場にある県の技術官も明治24年の段階では、煉瓦樋門の建設に熟練した者は
 数少なかったはずなので(明治23年までに建設された煉瓦樋門の総数はわずかに7基)、
 建設を認可した埼玉県の英断は驚嘆に値する。この事実を裏返せば、基礎工事や煉瓦積み等の
 近代工法的な部分の工種を任せられる請負業者が当時既に存在していたこと、かつ
 仕事の手配が可能だったこと(既に仲介システムが存在していた)が推測できる。

 なお、資材の調達先や購入方法は地元に任せられていたが、県の技術者が特定の資材購入先を
 示唆(強要?)することもあったようで、時代は若干後になるが、例えば明治34年(1901)の
 埼玉県議会では議員から参与委員(埼玉県内務部の技師)に対して、以下の質問が挙がっている。
 ”〜略〜 煉瓦ハ何所ノヲ買ハネバナラヌ、セメントハ何所ノヲ買ヒ、石材ハ何処デ買ハネバナラヌ、
 若シ買ネバ其手続ノ許可ハシナイト云コトヲ、技術官ガ言フ 〜略〜”(→埼玉県議会史 第2巻、1958、p.999)
 これに対し、参与委員は資材の買い入れ先については、県庁は一切命令していないとの答弁をしている。
 煉瓦樋門の建設に使うべき建築資材については、埼玉県が一定の基準を設定していたので、
 それを理解していない建設当時者との間で、このような見解の相違が生じていたのである。

 村請けでは工事終了後に出来形帳(竣工届の一種)を公開し、収支決算を村全体に開示する方式が
 採られていたのだが、資材の購入先等に絡んでは、地元有力者の思惑が錯綜し、弊害も多かったようだ。
 なお、川島領悪水普通水利組合の例でも明らかな様に、河川堤防や用排水路の普請が多い地区の
 町村長を務めるには、土木工事の管理者としての能力が要求されたようである。
 さらに驚くことに、当時の町村長は名誉職であり、原則的に無給だった(町村制第55条)。
 もっとも明治時代後期になると、この原則は有名無実化され、有給となっていた。

 (2)随意契約請負
 現代の随意契約(地方自治法施行令)と意味が同じならば、競争入札をおこなわない方式である。
 (現代の随意契約は、中央省庁が天下り先の行政法人へ仕事と金を回すための醜悪な慣習だが)
 当時の随意契約では信任があり適当と認められた者に、県が町村の土木工事を請け負わせたわけだが、
 概ね、町村長あるいは公職にある者、またはその町村の資産家が工事を請け負った。
 随意契約は災害復旧工事のような緊急を要する場合に、適用されることが多かったようである。
 町村土木補助工事では、随意契約の形で土木会社が工事を全面受注することは、多くはなかったと
 思われる。ただし、随意契約請負の場合、竣工検査証には工事担当者の名前が記されているのみ
 なので、実際に工事を担当したのが個人(請負)なのか、土木会社なのかは不明である。
 町村の資産家が土木会社を経営しているケースも当然あっただろう。

 明治20年代の段階で既に、埼玉県にはかなりの数の土木会社(法人形式をとっているが、規模的には
 個人営業だと思われる)が存在している。例えば、明治28年(1895)の埼玉県議会には、
 ”土木工事方法ノ改正ト斯業ノ発達ヲ計ル件という請願建議が、埼玉県土木受負営業組合
 田村重兵衛外38名によって提出されている(→埼玉県議会史 第2巻、1958、p.395)
 この組合が社会的、法的にどのように位置付けらた組織だったのかは不明だが、それに
 加入していた者が40名近くいたことは、形態はどうあれ、土木を生業とする者が多数存在し、
 互いの権利と利益を守っていたことの傍証となる。

 田村重兵衛は北埼玉郡不動岡村(現.加須市不動岡)で田村組を営んでいた。
 田村組は本田用水樋管(1899年、松伏町、古利根川、コンクリートで全面的に改修)、
 高須賀門樋(1901年、幸手市、島川〜権現堂川、現存せず、幸手の石造物W、p.238)、
 稲子圦(1907年、羽生市、利根川に設けられた羽生領用水の元圦、現存せず、文献17、p.484)、
 瓦葺掛樋(1908年、蓮田市〜上尾市、見沼代用水、使用煉瓦数約25万個)の建設工事を担当している。
 本田用水樋管では本田用水普通水利組合、稲子圦では羽生領用悪水路水利組合、
 瓦葺掛樋では見沼代用水路普通水利組合との間に工事の請負契約を結んでいる。
 ちなみに加須市の総願寺(不動ヶ岡不動尊)の黒門は、忍城(明治初期まで行田市にあった城)の
 城門を移築したものだが、これも田村組の田村重兵衛がおこなった。
 黒門の門柱には寄進者 田村重兵衛と彫り込まれている。
 また、明治24年に建設された倉松落大口逆除(春日部市、旧倉松落)の竣工記念碑には、
 工事仕立人(工事請負人のことだろう)として、幸松村 大作三右エ門と徳島運吉の名が
 記されている。この両名は地元で土木業を営んでいた者だと思われる。

 なお、埼玉県の伝統であろうか、当時から入札情報の漏洩や談合などの不正入札が露見している。
 例えば、明治24年(1891)には埼玉土木会社による競争入札の談合が発覚し、
 埼玉県議会で大問題となっている(→埼玉県議会史 第2巻、埼玉県議会、1958、p.74)
 埼玉土木会社は、明治24年に建設された釘無樋管(川島町、使用煉瓦数約17万個)と
 庄内古川門樋(吉川市、使用煉瓦数約40万個)の工事に絡んでも不正があったようで、
 埼玉平民雑誌に収賄疑惑が報じられている(→埼玉県議会史 第2巻、埼玉県議会、1958、p.71)
 釘無樋管や庄内古川門樋のような大規模な樋管工事では、土木会社が工事に絡んでくるが、
 中小規模な樋管工事は、地元の個人が随意契約で受注している例が意外に多い。
 この場合は(1)の村請けと工事実態はほぼ同じになる。請負人は土建業を生業としているが
 建設機材等は持たない、いわゆる一人親方や世話役である場合が多い。彼らは仕様書とは
 異なる単価の安い資材を用い(建設資材の詐称)、資材の使用量を減らし(余剰資材の着服)、
 さらには技能の劣る建設業者を手配したりするので、結果的に下請け業者の質が悪く、
 施工に問題が発生するなどの弊害も露見している。
 例えば、明治36年(1903)の唐子村の煉瓦樋門群建設が挙げられる。
 請負人が特定の業者と結託して、公共工事で暴利を貪っていたのである。

 (3)県直轄
 直営と記されることもある。工事は町村が請け負ったのだが、町村からの依頼を受けて、
 県が建設工事を代行管理したものだと思われる。そうでないと町村土木事業ではなく、県営事業に
 なってしまう。建設工事は工区と呼ばれる県の出先機関(現在の土木事務所に相当)が担当した。
 工区は人員が少なく建設機材も持たないので、実際の工事は土木会社へ発注したと思われる。
 この場合は指名競争入札となる。ただし、工事のさいには人夫として地元民が動員されたのであろう。
 なお、古笊田堰(1909年、久喜市)の竣工検査証に記された築品随意工事直仕立という方式も
 県直轄のことを指すと思われる。築品(建設資材)は町村が準備し、工事は県が担当という意味であろうか。
 工事が県直轄と記されている場合は、ほとんどが築品随意であったと思われる。

 明治34年(1901)の埼玉県議会では、田島春之助議員(北埼玉郡選出)から町村土木補助工事に対して、
 ”地元が設計の不備な点を発見し設計変更を依頼しても、県の対応は遅く責任を持たない”との発言が
 なされている(→埼玉県議会史 第2巻、1958、p.1000)
 事実、京塚樋管(1903年、川島町、随意契約請負)は設計変更依頼に対する県の対応が難渋し、
 工事完了が遅れている。なお、
明治35年(1902)度から町村土木補助工事は県が直接監督する方式へと
 改める試案があったようである(→埼玉県議会史 第2巻、1958、p.1073)。理由として郡役所には
 工事監督を務められる人材が不足していること、そのため綿密な調査・工事ができないことが
 挙げられているが、この背景には順礼樋管(幸手市、権現堂川、1899年)や笹原門樋(1901年、
 川越市)の建設で発覚した手抜き工事が関連しているのだろう。

 いずれにせよ、明治末期になると町村土木補助工事の主導権は民から官へと移行している。
 このような状況であったため、県に建設工事の管理を依頼する町村も現れてきたと推測される。
 皿田樋管1903年、蓮田市)、水越門樋(1904年、富士見市)は県直轄で建設されている。
 明治31年(1901)時点での埼玉県の県吏員は63人、そのうち土木吏兼務10人、県吏以外で
 土木吏員を委任されている者が10人だった(→埼玉県議会史 第2巻、1958、p.710)
 委任された者は工事雇や工区雇などと称され、現場監督に就くことが多かったようだ。
 明治31年の工区雇設置規定(埼玉県行政文書 明2468-26)によれば、工区雇には建設材料および
 施工過程を検査する権限は与えられていなかった。工区雇は土木吏の人数が不足していたために、
 その補助要員として設けられた制度だが、余分な費用がかかること、職務責任の帰属先が
 不明などの問題から、明治40年頃には廃止されたようである。工事雇や工区雇は埼玉県独特の
 ものではなく、他県でも実施されていた。埼玉県が明治21年頃に奈良県に対して、臨時傭員設置規定の
 照会をした記録が残っている(埼玉県行政文書 明1756)

 なお、土木工事を地元町村が請負い、埼玉県の直営で実施する方式は大正期になっても続けられた。
 荒川の堤防復旧工事はこの方式であり、竣工記念碑に詳細が記録されている。
 例:吉見堤碑(大里町手島、明治44年(1911)建立)、修堤記念碑(吉見町上砂、大正3年(1914)建立)

注4)煉瓦樋門を建設した人々

 (1)治水生徒  埼玉県の土木技術者育成制度
 埼玉県は西洋式の河川工事にも対応できるように、明治初期から若手技術者の育成を制度化していた。
 育成制度の名称が年度を追って、水理学生徒、土木工事伝習生徒、治水生徒、土木生徒と変わり、
 より具体的かつ実務的になっている点が興味深い。
 明治10年:水理学生徒 足立駒太郎 外3名を工業伝習へ派遣(埼玉県行政文書 明1717-1
 明治14年:土木費に土木工事伝習生徒養成費を計上、生徒2人を内務省土木局関宿出張所へ派遣
 明治16年:土木費に治水生徒養成費を新たに計上(→埼玉県議会史 第一巻、1956、p.463)
 (埼玉県行政史 第1巻、埼玉県、1989、p.408、p.581には、治水生徒は明治20年から計上と記されている)
 明治19年:治水生徒を土木生徒へ名称変更(埼玉県行政文書 明1933-163)

 日本の近代化に伴い、河川工事にも洋式の技術が導入されるようになったのだが、
 明治10年代の埼玉県には、それを理解し実践できる技術者がいなかったからである。
 洋式の工法や技術が必要とされる河川工事では、内務省土木局の技師を、多額の経費を
 投じて招かなければ、対応できなかったのである。内務省土木局とは現在の国土交通省に相当するが、
 埼玉県に関係する土木局第一区土木監督署は、下総国東葛飾郡関宿に置かれていた。
 当時、そこに常駐し最新かつ最高の技術力を有する技師はお雇い外国人であった。
 彼らの俸給は破格で、月給は当時の小学校教員の100倍以上!だったという。

 明治17年の埼玉県議会(→埼玉県議会史 第一巻、1956、p.521)では、治水堤防費の予算削減として、
 利根川の石塚・江原(現.深谷市)と荒川の久下・新川(現.熊谷市)の護岸工事の方式を新式工事から
 旧式工事へと切り換える案が可決されている。河川法が公布されるのは明治29年(1896)であり、
 明治17年の時点では利根川や荒川の河川工事は、まだ埼玉県が直轄していた。
 予算削減の槍玉にあがった新式工事とは、膨大な建設費を要する洋式の工事のことであろう。
 実は埼玉県は、洋式工事だと建設費が膨大になることを、既に体験済みなのである。
 というのも明治14年の洪水によって、深谷市中瀬付近で利根川の右岸堤防が決壊したさいに、
 その復旧工事として近代工法を採用することになり、明治14年12月に工師蘭人ムルデルが
 現地を巡検している。おそらく、この時に洋式の復旧工事が実施されたのであろう。
 中瀬の不動堂にある修河架橋記念碑(明治21年建立、上武大橋の旧橋の竣工記念碑)には、
 この復旧工事のことが記されている。
 なお、深谷市江原の利根川右岸堤防の付近には、[小三角點 第一区土木監督所]と
 刻字された測量の小三角点が残っているが、これは上述した埼玉縣が計画していた利根川の
 護岸工事のさいに設置されたものだろうか。だとすると、明治18年以降の設置ということになり、
 おそらく旧式の護岸工事が実施されたのだと思われる。第一区土木監督署は明治19年(1886)に
 内務省の組織として発足し、明治27年に東京府麹町に移転するまでは、現在の幸手市西関宿に
 出先機関が置かれていた。明治38年(1905)には東京土木出張所と名称が変更されて
 いるので(→文献24、p.33、37)、時代的にも合致する。

 治水生徒養成費は明治22年まで土木費治水堤防費に計上されている(→埼玉県議会史 第一巻、1956、p.919)
 この技術者育成制度によって技術を習得した生徒は、のちに埼玉県の職員として登用された。
 例えば、明治14年度の2人の生徒:川島包作と塚本善之助は、後に埼玉県の技手に任ぜられ、
 明治21年には、それぞれ北埼玉郡と北葛飾郡の堤防工事を担当している(→埼玉県行政文書 明1757-2)
 また明治18年度に治水生徒に採用された森田林次郎(→埼玉県行政文書 明1717-9、明1933-163)も後に、
 埼玉県技手として倉松落大口逆除、庄内古川門樋の工事監督を務めている(共に明治24年(1891)竣功)。
 庄内古川門樋は使用煉瓦数が40万個の2連アーチの逆流防止水門であり、明治39年(1906)に
 見沼代用水元圦が竣工するまで、埼玉県で最大規模を誇る煉瓦水門であった。
 明治期を代表すると称しても差し支えない大規模な水門の建設に、森田は携わったのである。

 森田は明治元年四月、埼玉郡北河原村(現在の行田市北河原)生まれであり、明治23年7月26日に
 治水生徒を卒業して、同年11月10日に埼玉県技手に任ぜられている。明治24年に倉松落大口逆除と
 庄内古川門樋の工事監督を務めた時は、わずかに23歳であった。
 不思議なことに、明治31年1月には鉄道技手に任ぜられている。
 森田と同期の小河原 治朗一(次良一?)は、釘無樋管(明治24年(1891)竣功)の
 現場監督(→明治廿三年度釘無圦樋改良叢書、埼玉県立文書館、宮前 鈴木庸行家文書3112)
 大島新田関枠(明治30年(1897)竣工)、安戸落伏越(明治31年(1898)竣工)の設計を担当している。
 小河原は慶応三年二月、北葛飾郡吉田村(現在の幸手市上宇和田)生まれであり、明治23年11月10日に
 埼玉県技手、明治24年5月30日に利根川実測主任、明治26年4月1日に第一土功区駐在、
 明治31年12月16日には土木監督署の技手を任ぜられている(→埼玉県行政文書 明1933-39)

 なお、治水生徒時代の森田と小河原は、埼玉県技手の小林柏次郎に随伴し、測量業務などの助手として
 修業したとの記録がある(→埼玉県行政文書 明1717-9)。両人に実務指導をした小林柏次郎は工科大学を卒業後、
 埼玉県へ採用されたのだが、不思議なことに当時の身分は技師ではなく、二等技手であった。
 にもかかわらず、明治20年4月に竣工した柴山伏越(煉瓦造、白岡町〜蓮田市)の工事を担当している。
 現地に建てられた竣工記念碑(明治20年建立)には、「工事担当 埼玉県二等技手 小林柏次郎」と刻まれている。
 筆者は柴山伏越が埼玉県で最初の煉瓦造の河川構造物だと推測しているが、最初の構造物にしては
 規模が大きく(使用煉瓦数は23万個)、工法の難易度も高いものであった。

 埼玉県初の煉瓦樋門だとされる備前渠圦樋(明治20年竣功)は、お雇い外国人のムルデルが
 設計したとされているが、それ以降の煉瓦樋門の設計・工事監督は、治水生徒制度などで洋式技術を
 身につけた日本人の若手技術者(彼らは20代半ばであった)が行なったと推測される。
 若い力が煉瓦樋門の建設で一気に開化したのである。明治10年代までは煉瓦樋門の建設というのは、
 国家の威信をかけたプロジェクト(それもオランダ人技術者に頼っての)でしか実施されない高度な
 技術を要するものであった。近代の息吹を肌で感じながら育った若者達は、新しい知識と技術を
 情熱的に吸収していったのである。余談だが、ムルデルは利根運河の建設にさいして、
 水堰と呼ばれる閘門(流量調節堰)を設計し、それは明治23年に竣工している。
 水堰は設計図が現存していて、それには躯体は花崗岩及び緑化石積みと記されているが、
 緑化石は煉化石(煉瓦)の誤植である可能性が高い。水堰には欠陥(おそらく水理学的な)があり、
 それを調査し指摘したのが埼玉県(の技師)である。水堰は明治26年に改良されている(→文献19、p.465-466)
 この事実は、明治20年代後半になると、日本人の技術者でも、お雇い外国人の設計の不備を
 指摘できるまでに技術レベルが向上していたことを示している。

 (2)煉瓦樋門の設計者
 町村や水利組合が煉瓦樋門の建設を決議した場合、まず最初に設計図と設計仕様書(それと地租調書)を
 添えて、県へ建設の許可申請をおこなう必要があったのだが、町村や水利組合には専門の技術者は
 いなかったので、煉瓦樋門の設計は不可能であった。郡役所では1〜2名の土木技術者を抱えている所も
 あったが(県の技手が出向しているケースが多かった)、それでも煉瓦樋門の設計は困難だったようである。
 町村や水利組合は民間の技術者に設計を依頼できたとも考えられるが、明治20年代に
 民間の土木設計コンサルタント(形態は会社、個人を問わず)が存在していたかは不明である。
 煉瓦樋門の設計のために、町村や水利組合は県に対して技術者の派遣を依頼することが多かった。
 これに対する復命書(県から派遣された技術者が現地踏査等を実施した報告書)が残されている。
 樋門の設計は現地踏査をおこなった技術者が担当した可能性が高い。

 当時の煉瓦樋門の設計とは、樋門の平面・縦断の配置と規模を決定し(これにより数量が拾えるので、
 工事費が算出できる)、必要があれば意匠や装飾を考えることであって、おそらく樋門本体の
 安定計算は行われていない。樋門本体の構造計算に至っては論外である。
 もっとも、現代の土木技術者に煉瓦積みの構造計算はどうやるのか尋ねても、明確な回答は得られないと
 思うが。このように煉瓦積み構造は、現代の設計基準に適合しないだけでなく、完全に逸脱しているのである。
 煉瓦構造物は確固とした構造計算の方法がないまま建造され、煉瓦という構造材は主役の座を降りた。
 なお、煉瓦樋門の工事監督は、県の技術者ではない者が担当することもあったが(直轄工事の場合は
 県の技術者)、工程毎のチェックは必ず県の技術者がおこなった。町村土木補助工事とはいえ、
 埼玉県が許可し補助金を交付した公共事業であり、県の側にも工事遂行を監督する義務と権利が
 生じたからである。そして工事完了後の竣工検査は、県から派遣された技術官によっておこなわれた。
 これは裏返せば、県が認めた設計や工法でなければ、煉瓦樋門の建設は許可されないことを意味する。

 煉瓦樋門の工事請負人や監督者は竣工記念碑や行政文書に名前が記録されていることが多いが、
 設計者についての記録はほとんどない。設計図にも設計者の名前は記されていない。
 煉瓦樋門の設計者は樋門の銘板や竣工記念碑から、ごくわずかだが知ることができる。
 筆者が把握している限りでは、設計者名が樋門の竣工銘板に記されているのは、
 大島新田関枠(1897年)と安戸落伏越(1898年)の小河原 治朗一、笠原堰(1902年)の野村武のみである。
 野村は万年堰の竣工記念碑の碑文に名前があり、文脈から万年堰(1902年)の設計者だと推測できる。
 これらは中規模の施設であり、設計は埼玉県の技手によっておこなわれた。
 技手とは技術吏員の役職であり、技師よりも地位は低かった。

 一方、大規模な施設の場合は竣工記念碑が建てられることが多かったが、設計者名が記念碑に
 記されているのは以下の3基のみである。見沼代用水元圦(1906年):工学士 安藤光太郎、
 瓦葺掛樋(1908年):埼玉県技師 島崎孝彦、男沼樋門(1917年):内務省技師 福田次吉。
 見沼代用水元圦の場合、碑文に記された工事関係者は全て役職付きであるのに、設計者だけは
 工学士と記されている。これは設計者の安藤光太郎が公職になかったことを示しているのだろうか。
 なお、当時は帝国大学を卒業しても、成績が悪いと工学士の資格は与えられなかったようである。
 見沼代用水元圦は埼玉県史上最大規模の煉瓦水門であり、工事監督は埼玉県の内務部第二課長で
 ある牧彦七が直々に務めていることからも、施設の重要度が伺える。
 見沼代用水元圦の設計仕様書では材料の質や形状だけでなく、材料試験の方法や
 施工方法についても厳密に規定されている(→文献5

 また、当時既に樋門の通水断面寸法や水路勾配を計算によって論理的に求めていたこともわかる。
 例えば、三間樋(1902年)、千貫樋(1904年)、見沼代用水元圦(1906年)の設計に使われた水理公式は
 古典的なクッター式(Kutter)である。現在では開水路の水理設計はマニング式(Manning)が主流だが、
 当時はベキ乗が不要な(その反面、計算式は煩雑である)クッター式が好まれたのであろう。
 ちなみに明治13年(1880)にファン・ドールンが安積疎水(福島県)を設計をしたさいの水理公式も
 クッター式である。見沼代用水元圦で、さらに興味深い点は樋管部の水理学上の扱い方である。
 見沼代用水元圦の通水断面は呑口が6門、吐口が2門という特殊な形態だった。
 構造的には2連アーチだが、呑口側にはアーチの中間部に堰柱を2本設けて
 アーチを3分割している。呑口と吐口でアーチの数が異なる樋門が作られた理由
 このような形式を採用したために、見沼代用水元圦の設計者は呑口部での局部損失水頭(流入損失や
 漸拡損失)が無視できないほど大きいと考えたようで、管内流速の変化については接近流速を
 考慮したうえで、ベルヌーイ(Bernoulli)の定理を用いて算出している。

 (補足1)明治初期の土木教育制度
  治水生徒は攻玉社(東京府)へ入学させられたが、入学金と学費は埼玉県が全面負担した。
  学資として明治10年の水理学生徒には月8円、明治18年度の治水生徒には月12円、
  明治19年度の土木生徒には月7円50銭が支給された。当時の初任給は巡査が6円(明治14年)、
  小学校教員が5円(明治19年)であったから(値段史年表、朝日新聞社、p.91)、学資という名目に反して、
  かなりの高額支給である。
  攻玉社(こうぎょくしゃ)は私学で、文久3年(1863)に近藤真琴が開いた蘭学塾が前身である。
  実務的な専門技能を身に付けた技術者を養成するという教育理念は、現在の攻玉社工科短期大学に
  受け継がれている。治水生徒の修業年限は3年で、学科は数学(微積分)や物理学、さらに橋梁工学や
  治水工学まで学ぶ本格的なカリキュラムであった。もっとも微積分の習得が必須なほどの土木技術が
  当時の埼玉県に存在したのかは疑問であるが。在学中には埼玉県の技手からの
  実務教育(現地踏査や設計図の製図法など)もあったようである(埼玉県行政文書 明1756-30)
  治水生徒は埼玉県の土木技術者養成制度であるが、当時、埼玉県には土木工学を学べる機関はおろか
  環境すら存在していなかったので、治水生徒は埼玉県初の土木教育制度ともいえる。

  一方、治水生徒のような専門教育を受けずに煉瓦樋門建設に携わった、いわゆる現場叩き上げの
  土木技術者も存在した。例えば明治30年に埼玉県の土木助手に採用された遠山貞吉である。
  明治12年(1879)、比企郡伊草村(現.川島町伊草)に生まれた遠山は、高等小学校卒業の学歴しかない。
  明治30年2月に埼玉県土木助手に採用され、同年6月には土木工手に昇格している。
  土木助手(臨時日給)、土木工手(常置月給)は土木雇と称された雇員の身分であり、
  正式な県職員でない。その後、明治34年5月に秩父工区の補助員などを経て、明治38年頃に
  正式に埼玉県技手(県職員)に採用されたようである。技手とは土木工区(県の出先機関)の
  工事長になる資格を有した技術官である。遠山は明治41年(1908)には北足立郡技手(県から
  郡役所へ出向)として、瓦葺掛樋の工事主任を担当している。その後も現場で技術者としての
  キャリアを積み、大正6年(1917)には滋賀県内務部土木課 隧道工営所の初代主任、
  大正10年?には東京府内務部土木課 板橋土木出張所の所長にまで登りつめている。

  日本では明治20年頃まで、文部省系の学校による土木教育はほとんど行なわれていなかった。
  高等教育機関と呼べるのは、明治9年(1876)開校の札幌農学校(北海道大学農学部の前身)、
  明治10年(1877)開校の東京大学、明治14年(1881)開校の東京職工学校(東京工業大学の前身)くらいで
  あった。中堅技術者を養成する学校としては、明治20年(1887)に工手学校(工学院大学の前身)が
  開校している。工手とは文字通り、中堅技術者のことであり、現場で技師を補助する役目をおった。
  工手学校は私立の夜間学校だったが、講師のほとんどは帝国大学出身者で占められていた。
  それでは土木教育はどこが担っていたかというと、官庁や企業であった。
  明治6年(1873)に開設された工学寮は、工部省が管轄する土木教育機関だった
  工学寮の修業年限は6年。明治10年に工部大学校と改称、明治18年には東京帝国大学工学部となる。
  これを現代に例えると、国土交通省が直接、管轄運営する大学に相当する。
  ちなみに札幌農学校は初期には開拓使(北海道開発局に相当)の管轄下にあった。

 (補足2)ある技術者の経歴
  笠原堰の設計者、野村武は明治3年(1870)、東京市神田猿楽町生まれ。
  明治25年に測量掛として埼玉県に採用され、工事雇を経て、明治26年(1897)12月に県技手、
  明治35年(1902)12月に土木吏員を任命されている(→埼玉県行政文書 明1985)
  野村は埼玉県内各地に赴き、煉瓦樋門の現地調査、工事監督、竣工検査を遂行している。
  また、煉瓦樋門の設計者として、本田用水樋管(1899年、松伏町)の碑文、
  笹原門樋(1901年、川越市)の文書、笠原堰(1902年、鴻巣市)の碑文、
  万年堰(1902年、宮代町)の碑文、矢来門樋(1903年、東松山市)の文書に名前が残っている。
  ただし、1903年を最後に埼玉県の土木工事関連の文書から忽然と名前が消えてしまう。
  再び、野村の名を目にするのは末田用水圦樋(1915年、岩槻市)の設計者としてである。
  新聞報道には工学士 野村武技師とあり、竣工記念碑の碑文では肩書きは県職員ではなく、
  技術員 野村武(東京市芝区在住)となっている。在野に下り(その間に学士号を取得して)、
  コンサルタント業を営んでいたようである。
  なお、末田用水圦樋の外見は北河原用水元圦(1903年、行田市)とまったく同じである。
  北河原用水元圦の設計者も野村武なのだろうか。

 (補足3)明治期の公務員制度
  当時(明治30年頃)の公務員制度は学歴による待遇(社会的地位、年俸)の格差が
  歴然としていた。例えば、帝国大学や旧制高校を卒業していない者の場合、雇として採用されてから
  2〜3年の見習い期間を経て(臨時雇が助手、常雇が工手)、技手に昇進していた。
  技手を10年くらい務めると、属(判任官)となれたようである。属になってからは、
  そのごく一部の有能な者だけが、技師(高等官)に昇進できたようである。
  しかも技術者だと昇進は技師で終わりであり、課長にはなれなかった。
  一方、帝国大学の卒業者が公務員に就く場合、その奉職先の辞令は内閣から発せられた。
  (身分は現在の国家公務員上級職に相当する。俗にいうキャリア組である)
  帝国大学を卒業していて学士号を持っていると、嘱託として採用されてから1〜2年で
  技師に昇進し、さらには勅任技師(技監)として技術系の課長に昇進することができた。
  勅任技師は番外(のちに参与委員へ名称変更)として、埼玉県議会の予算審議に出席でき、
  しかも発言権があった。例えば、明治23年(1890)の埼玉県議会では庄内古川門樋(煉瓦造、
  明治24年竣工)の建設工事先延ばし案が賛成多数で承認されていたが、番外である長崎技師が
  建設の重要性を力説したために、翌年度の建設が認可されている(→埼玉県議会史 第1巻、1956、p.1039)

  明治23年(1890)5月に府県制が公布されたことから、この年から埼玉県では県庁組織の再編が
  実施され、内務部の中に第二課が置かれ、農商工と土木を担当することとなった。
  県庁職員の数が最も多かったのは内務部第二課だったので、土木に重点が置かれた県行政だったことが
  うかがえる。なお、明治32年(1899)当時の埼玉県の県庁職員の年俸は知事が3,000円、書記官が1,500円、
  技師が510円、技手が277円、雇が128円である(→埼玉県行政文書 明1953、技師、技手、雇は複数人の平均)
  内務部の部長クラスは、県知事、書記官、参事官に次いで警部長、収税長と同等の地位だったようだ。
  煉瓦樋門の建設が最も盛んであった頃の埼玉県内務部第二課長は以下のとうり。
  阿武久吉(土木課長、明治22年)、平井光長(内務部第二課長、明治26年)、
  大津麟平(内務部第二課長、明治27年)、岡田竹五郎(内務部第二課長、明治28年時点)、
  吉原三郎(内務部部長、明治29年任命?)、大森直輔(明治31年任命)、牧彦七(明治35年任命)、
  島崎孝彦(明治41年任命、内務部土木課長)、山田博愛(明治43年任命?、内務部土木課長)

注5)煉瓦樋門の消失

(a)コンクリートの台頭
 土木史的には土木構造物の主要建材が煉瓦からコンクリートへと転換した理由は、構造物が
 大規模化するに伴ない、煉瓦構造ではもはや力学的に対応できなくなったために、コンクリート構造へと
 移行したというのが通説であるが、埼玉県の樋門に限れば、必ずしもそうではないようだ。
 なぜなら、埼玉県では大規模な樋門は、明治期に既に煉瓦構造で改築されてしまっていて、
 コンクリート構造の樋門は煉瓦樋門が全盛であった時期に、小規模な施設のみを対象として
 細々と建設が始まっているにすぎない。新しい材料と構造による樋門の出現なのだが、
 脚光を浴びることもなく、その存在は意外に地味だったといえる。
 初期のコンクリート樋門の外見は、煉瓦樋門のそれを踏襲した古典的なものだった。
 構造的には土管を無筋コンクリートで巻きたてたものが多い。これは煉瓦時代の円形樋門が
 コンクリート造りで復活された形態ともいえる。
 一方、埼玉県では主要な河川や水路の抜本的な改修(流路変更、拡幅、浚渫)は大正末期まで、
 ほとんど実施されなかったので、既設樋門の規模を拡大せざるを得ない状況も発生しなかった。
 明治期に建設された煉瓦樋門の多くは、後年(昭和初期から中期)に、コンクリートで改築されている。
 これは施設の老朽化(本体よりもゲート部分)及び主要河川の改修に伴って樋門の基本設計や
 機能が不適応となったからである。構造力学的にコンクリート造とする必要性があったからというよりも、
 もうこの時期には構造形式と建材の選択肢は、コンクリートしかなかったのである。
 大規模な樋門ほど治水や利水上の重要度が高く、優先的にコンクリートへと改築されたので、
 現在、埼玉県に残る煉瓦樋門は中小規模のものが多い。

(b)関東大震災の影響
 関東大震災(1923年)で被害を受けた埼玉県の樋門の内訳は、木造が13基、コンクリート造が
 8基であるのに対して(→文献19、p.730)、煉瓦造の被害はわずかに3基であった。
 煉瓦樋門の復旧工事の記録は、佐左衛門伏越(中郷用水→安戸落、杉戸町、1898年)と
 二郷半領不動堀樋(第二大場川、三郷市、1914年)が残っている(佐左衛門:埼玉県行政文書 大1549-37、
 二郷半領:埼玉県行政文書 大1550-46)
。両樋門の被害は比較的小さかったようで、佐左衛門伏越の状況は
 袖壁の一部が損壊と記されている。煉瓦に亀裂が生じたのだろうか、復旧工事ではコンクリートで
 樋管内部の巻き立ても実施されている。一方、二郷半領不動堀樋はアーチリング頂部に亀裂が
 生じた程度であった(この時の復旧跡は現在も残っている)。
 大正末期の時点では、埼玉県には樋門造りの樋門は約230基存在していて、この数はコンクリート製の
 樋門よりも、かなり多いはずである。ちなみに埼玉県におけるコンクリート製樋門の建設開始は、
 明治40年(1907)前後である。桶川市の綾瀬川起点付近には、明治45年竣工のコンクリート製樋門が
 2基現存している。これらには設計図が現存するが、コンクリート構造物の黎明期かつ規模が小さい
 樋門(管径0.8m、長さ8m程度)ということもあり、構造形式は無筋コンクリートである。
 ともあれ、関東大震災でのコンクリート製の樋門の被災率は非常に高かったといえる。
 この原因は樋門の設計や構造に誤りがあったというよりも、黎明期であるコンクリート樋門は施工方法に、
 問題があったのだと思われる。コンクリートの配合等に習熟しておらず、なおかつ上述したように
 大半が無筋コンクリート製だったと推測されるので、地震によって大規模なひび割れが発生したのであろう。

(c)統合的な河川改修  煉瓦樋門の撤去
 大正8年(1919)から昭和12年(1937)にかけて、埼玉県が実施した13河川の改修によって、
 河川の流路変更や利水形態の変更等を理由に、廃止・撤去された煉瓦樋門も少なくない。
 これらは社会的な寿命に達したもので、代替施設は建設されていない。
 例えば、大落古利根川の改修によって、庄兵衛堰枠(庄兵衛堀川、白岡町、1907年)、
 栢間堀堰(隼人堀川、白岡町、1910年)、前堀堰(備前前堀川、久喜市、1900年)は1930年で廃止。
 綾瀬川の改修によって、八幡堰(伊奈町、1899年)、川口堰(伊奈町、1903年)、綾瀬堰(伊奈町、1903年)は
 1932年に廃止。小山川の改修によって、矢島堰(深谷市、1897年)は1928年に廃棄。
 元荒川の改修によって、佐間掛樋(忍川、行田市、1900年)、長野堰(忍川、行田市、1905年)、
 笠原堰(鴻巣市、1902年)、小竹堰(菖蒲町、1909年)は1933年に撤去された。
 13河川の改修事業は当初は埼玉県単独の治水対策事業であったが、大正12年からは農商務省の
 補助対象事業となり、かんがい排水(用排水の改良)や耕地整理に主眼が置かれたために、
 用排水兼用を前提として設けられていた農業施設(悪水路の取水堰など)の多くが憂き目に遭った。
 一方、荒川に数多く存在した煉瓦樋門(排水または逆流防止樋門)は、大正7年から昭和29年(1954)に
 かけて実施された荒川上流改修事業のさいに撤去あるいは改築されている(→文献59、p.161)
 荒川の改修では、新流路の開削に伴い、樋門が伏せ込まれていた堤防自体の配置が
 変更されているので、いたしかたないことだろう。ただし支川と荒川の関係(排水系統)は
 大きく変更されていないので、樋門の存在自体は存続させられた。煉瓦樋門のほとんどが、
 より規模の大きいコンクリート製の樋門へと全面的に改築されている。
 したがって煉瓦樋門の痕跡はまったく残っていない。
 興味深いのは、荒川の中流部に現存するコンクリート製樋門には、煉瓦樋門の面影を
 継承したようなレトロなデザインのものが多く見られることだ。

注7)埼玉県の煉瓦工場

 関東の5都県には明治33(1900)年の時点で、45ケ所に煉瓦工場があり、製造施設として
 ホフマン式輪窯20基、登り窯51基が設けられていたという(→文献20、p.385:煉瓦要説、諸井恒平、1902、p.9)
 同書には煉瓦工場の分布の詳細は記されていないが、東京都と埼玉県がその大半を占めていたと
 思われる。東京都では明治6年(1873)に、銀座煉瓦街建設という大規模な都市建築事業が実施されたが、
 材料である煉瓦の供給量は絶対的に不足した。そのため、東京都では煉瓦を製造する工場が
 急増したようである。製瓦業者も急遽、煉瓦を焼いたので、最盛期には小煉瓦工場が137箇所も
 あったという(→前掲書:煉瓦要説、諸井恒平、1902、p.7)。同業者の権利を守るためだろうか、東京都では
 組合の結成も時期的に早く、明治19年(1886)には東京府下煉瓦製造業組合が設立されている。

 埼玉県では荒川や中川周辺の低地は、瓦製造に適する良質な砂や粘土(旧.利根川や荒川の
 氾濫堆積土)が豊富だったため、古くから製瓦業が盛んであった。これらが明治中期には煉瓦製造業へと
 移行し、日本煉瓦製造だけでなく、数多くの煉瓦工場が創設された。登記上は瓦製造となっている工場に
 おいても、瓦といっしょに煉瓦が焼成されていたと思われるので、実際に煉瓦を製造していた工場は、
 登記数よりもずっと多いはずである。質を問わなければ、煉瓦と称するモノを製造するのは、
 瓦製造業者にとっては容易なことだったと思われる。

 埼玉県の煉瓦工場数のピークは明治時代には16戸(明治41年)、大正時代は17戸(大正2年)
 だったが→注7A、徐々に減少し、昭和6年の集計ではわずかに4戸となっている。→注7B
 なお(注7Aの前年度からの増加戸数を見ると)少なくとも、明治41年には8戸、大正2年には5戸が
 創設していることがわかる。ただし、明治時代に創設された工場の大半は、従業員10人程度
 (内.約3割が女子)の家内工業であり、煉瓦の製造は機械ではなく、手作業によっておこなわれた。
 手作業での主な工程は、原土の採掘・運搬、人力による素地の混成・成形(手抜き)、天日による乾燥、
 薪を主燃料とした登り窯による焼成、である。天日による乾燥は約1週間(夏期)、登り窯による焼成は
 約40時間(薪と石炭の併用の場合)を要するという。(→喜多方の煉瓦蔵、北村悦子、喜多方煉瓦蔵保存会、1989)
 当時は、素地の混成から煉瓦が焼き上げるまでに、3週間位かかったようである。
 存在が判明している埼玉県の煉瓦工場の創設年・所在地は以下のとおり。
 川口市と戸田市に煉瓦工場が多かったのは、隅田川(旧.荒川)対岸の東京都の煉瓦工場群の
 影響だと思われるが、古利根川流域の越谷市(増林河岸の周辺)に多かったのは、不思議である。

    工場名

創設年

所在地

職工  出典・補足
   名称不明 明治6年以前 児玉郡児玉町    注7F
   名称不明 明治16年? 北足立郡元郷村、現.川口市 .  注7C
   金町煉瓦 明治21年 南葛飾郡金町村、現.葛飾区東金町8丁目 .  注7D
   名称不明 明治22年 比企郡小川村、現.小川町 .  注7X
   海老原煉瓦石製造所 明治30年 北足立郡青木村、現.川口市 13  注7L
   上田煉瓦製造工場 明治32年 南埼玉郡増林村、現.越谷市 13  注7L
   長島煉瓦工場 明治35年 北足立郡小谷村、現.吹上町 15  注7K注7L
   齋藤煉瓦工場 明治35年 南埼玉郡増林村、現.越谷市 10  注7L
   名称不明(府川煉瓦工場?) 明治30年代? 入間郡(山田村?、現.川越市) .  注7F
   名称不明 明治30年代? 北足立郡横曽根村、現.川口市 .  注7E
   名称不明(2戸) 明治30年代? 北足立郡戸田村、現.戸田市 12  注7I
   武蔵煉瓦第一工場 明治40年 北埼玉郡北河原村、現.行田市 7  注7L
   美女木(美谷本)煉瓦工場 明治40年 北足立郡美谷本村、現.戸田市 12  注7L
   藤田煉瓦製造株式会社 明治41年 児玉郡藤田村滝瀬、現.本庄市 9  注7G注7L
   平方煉瓦製造所 明治41年 北足立郡平方村、現.上尾市 .  注7H
   加瀬煉瓦製造所 明治41年 北足立郡南平柳村、現.川口市 26  注7K注7L
   秋元煉瓦工場 明治41年 北足立郡美谷本村、現.戸田市 12  注7L
   中澤煉瓦工場 明治41年? 南埼玉郡増林村増林、現.越谷市 11  注7L
   大成煉瓦株式会社 大正3年 南埼玉郡増林村、現.越谷市 20  注7L
   星合煉瓦工場 大正3年 南埼玉郡増林村、現.越谷市 54  注7L
   大阪窯業 東京工場 大正5年 北足立郡草加町、現.草加市 115  注7J注7L
   千葉吉煉瓦製造所 大正6年 北足立郡南平柳村樋ノ爪、現.川口市 24  注7K注7L
   帝国煉瓦製造所 大正7年 南埼玉郡八幡村大曽根、現.八潮市 59  注7K注7L
   関東黒煉瓦窯業株式会社 大正8年 北足立郡戸田村、現.戸田市 16  注7L
   東京碍子株式会社  ? 北足立郡南平柳村、現.川口市 34  注7K
   東武煉瓦株式会社  ? 南埼玉郡増林村、現.越谷市 104  注7K注7M注7N

   猪原窯業株式会社

 ? 南埼玉郡増林村中島、現.越谷市    注7N

   注7A:新編 埼玉県史 別編5 統計、1993、p.384
   注7B:埼玉県統計書、埼玉県、1932

   注7C:日本鉄道請負業史 明治編、鉄道建設業協会、1967、p.58
      日本鉄道(現.JR高崎線)荒川橋梁の工事用に、高島嘉右衛門が煉瓦製造所を設けたとある。
      工事終了後も生産を続けたかは不明だが、旧碓氷線の鉄道トンネル用の煉瓦の供給元と
      なった可能性もある。川口煉瓦製造所から500万個、深谷煉瓦製造所から750万個の記録がある。
      (→碓氷嶺鉄道建築略歴、帝国鉄道協会会報 第9巻、1908、P.465)
      荒川橋梁の建設地は川口なので、その煉瓦供給所として設置されたのが、
      川口煉瓦製造所だったのかもしれない。深谷煉瓦製造所とは、日本煉瓦製造のこと。
      ただ、この記述にある川口煉瓦製造所の500万個は、日本煉瓦100年史のP.59によると、
      同社の納入となっている。ちなみに高島嘉右衛門は多彩な人で、
      京浜間の鉄道敷設、日本最初のガス会社の設立、利根運河の創設役員、
      愛知セメントの創設者、「高島易断」の著者でもある。

   注7D:埼玉県議会が明治40年に、内務大臣へ提出した[江戸川改修工事速成ニ関スル件]という意見書は、
      江戸川の洪水流下能力が著しく低下していて、治水上の危険性が高いので早期の河川改修を
      陳情したものだが、その文中で、江戸川の河川敷を無断で埋め立てていると、
      名指しで批判されているのが金町煉瓦。→
文献14b 第3巻、p.268
      その後の江戸川の河川改修により、工場の敷地が堤外地となってしまったので、
      金町煉瓦は大正5年に潮止村(現.八潮市)に移転。大正7年には日本煉瓦製造に吸収され、

      潮止工場となった。五ヶ門樋(中川、庄和町)の付近にある排水機場跡(明治40年建設)は
      煉瓦造だが、その赤煉瓦には金町煉瓦の刻印が確認できる。


   注7X:小川町史、小川町教育委員会、1961、p.260
      県道11号線の開通に伴い架橋された兜川橋(小川町小川〜大塚)は、橋台が
      煉瓦造りだったようである。この煉瓦は池田の山裾に窯を築いて焼いたと記されている。
      池田とは架橋地点から北方へ400mの付近、角山地区の字名である。
      小川町は深谷市の近隣であるが、日本煉瓦製造の煉瓦が使われていないのが興味深い。
      日本煉瓦製造は明治20年設立であるが、工場や焼成施設が本格的に稼働を始めるのは、
      明治22年9月からである。なおかつ明治25年頃までは中央官庁からの大口受注が
      殺到したため、その生産で手一杯であり、地元の小規模な土木工事であっても、
      煉瓦を供給する余裕はなかったようである。同様の事情は、明治22年に本庄市に
      建設された
寺坂橋でもうかがえる。この橋は煉瓦造りではなく、石造りのアーチ橋である。
      なお、市の川橋(市野川、東松山市、明治22年)、馬橋(槻川、小川町、建設年不明)の
      橋台にも煉瓦が使われている。両橋とも形式が木製のトラスだったが、
      この形式の橋は明治20年前後に埼玉県内で数多く架けられた。
      → 土木学会附属土木図書館の戦前土木絵葉書ライブラリ(
http://61.199.33.80/Image_DB/card/01_image_thum11.html

   注7E:川口市近現代史年表稿、川口市史編纂室、1980、p.44
      ”横曽根村のものが建設した荒川沿岸の煉瓦工場に対して河川法違反の
      告発問題発生”とある。この煉瓦工場は埼玉新報(明治41年1月12日付)の記事では、
      戸田村上戸田に建設された荒川煉瓦工場となっている。

   注7F:埼玉縣史 下巻、1912、p.357
      ”縣下に煉瓦製造者は北足立・入間・児玉・南埼玉郡等を合計して数戸ありて小額の製出あり”とある。
      具体的な工場名や規模については言及していないが、注目すべきは、他の史料等にはない、
      明治時代における入間郡と児玉郡での煉瓦製造の痕跡が記されていることだ。
      児玉郡については、武蔵国郡村誌の児玉郡児玉町(8巻、p.125)に同町の物産として、
      ”煉瓦石十万枚”とある。郡村誌は明治6年時点での調査を基に編纂されたので、
      埼玉縣史の記述を考慮すれば、児玉町では明治時代を通じて、煉瓦の製造が行われていたことになる。
      ただし、同一の製造者が継続して操業を続けていたのか、複数の製造者が存在し、製造所の新規開設や
      閉鎖を繰り返しながら、断続的に操業がなされたのかは不明である。郡村誌に記された”煉瓦石十万枚”とは、
      年間製造量だと思われるので、煉瓦製造の規模はかなり小さかったことは確かである。
      明治6年以前に児玉町で、煉瓦の製造が開始されたことは驚きだが、児玉町は古くから瓦の製造が
      盛んな地であり、現在も瓦工場が多い。明治初期という早い時期に、児玉町で煉瓦の製造が
      始まった動機は何だろうか。推測の域を脱しないが、それは隣県である群馬県に官営の富岡製糸場が
      誘致されることだったと思われる。建設資材としての煉瓦の需要を見込んでの操業だろう。
      富岡製糸場の工場建設は明治4年に始まっている。煉瓦の製造方法はよくわからず、
      経験もないまま、児玉町の瓦職人は、みようみまねで煉瓦を焼いたのだろう。

      入間郡の製造地については、川越市が候補にあがる。川越市府川の八幡神社には、
      
煉瓦造りの手水鉢が奉納されているが、その壁面には”明治廿八年十二月 府川煉化工 青木里吉”と
      記されている。煉化工が煉瓦職人か煉瓦工場なのかは不明だが、手水鉢に使われている煉瓦は、
      手抜き成形の赤煉瓦(鼻黒)なので、府川(入間川の右岸)には煉瓦工場が存在した可能性が高い。
      埼玉縣史の記述と時期的にも合致する。
      なお、川越市には5基の煉瓦水門が建設されたが、その口火を切ったのは明治31年(1898)建設の
      府川門樋である。府川門樋が設けられたのは、奇しくも入間川の右岸堤防であった。

   注7G:埼玉県行政文書件名目録 産業編、埼玉県教育委員会、1970、p.132(埼玉県行政文書 明3617-4)
      丸山酒造(深谷市)敷地内のタタキには、藤田煉瓦製造の煉瓦が使われている。
      手抜き成形の赤煉瓦である。

   注7H:上尾市史 第7巻 通史編(下)、2001、p.177 上尾市史 第4集 資料編4、1994、p.462
      平方煉瓦製造所の職工は10人未満だったようだ。神山家の煉瓦蔵(上尾市、平方煉瓦製造所の
      経営者宅)には、平方煉瓦製造所で製造された煉瓦(手抜き成形の赤煉瓦)が使われている。
      下ノ大圦樋(荒川、さいたま市西区宝来、1915年)の仕様書には、建設に使用する煉瓦の候補として、
      日本煉瓦製造と平方煉瓦が挙げられ、寸法の比較が行なわれている(埼玉県行政文書 大665-66)。
      日本煉瓦製造の長手寸法が7寸5分(東京形の普通煉瓦に相当)であるのに対して、
      平方煉瓦の寸法は7寸4分と小さめである。下ノ大圦樋の建設に平方煉瓦が使われたかどうかは不明。


   注7I:戸田市史 通史編 下、p.125
      ”煉瓦の製造戸数は北足立郡全体で六戸でうち戸田村は二戸”とある。

   注7J:草加市史 通史編 下巻 p.183
      大阪窯業の
刻印煉瓦は秩父鉄道の橋梁(羽生市から行田市の区間)で数多く見られる。
      これらの橋梁は秩父鉄道(旧.上武鉄道)に吸収合併される前の北武鉄道が
      大正10年頃に建設したもの。使われている煉瓦は機械抜き成形の赤煉瓦である。

   注7K:埼玉県工場法適用工場一覧(大正12年調査)
      新編埼玉県史
 資料編21(産業・経済1)の附録である。
      工場法とは明治44年(1911)に労働者の保護・労働条件の改善等を
      目的として、国が制定したもので、大正5年(1916)から施行された。
      法が適用されたのは、15人以上の職工を使用する工場であることから、
      この一覧には従業員が15人以下の小さな煉瓦工場は記載されていない。
      なお、工場法の条文の中には[15歳未満の者及び女子については、原則として
      1日12時間以上の就労は禁ずる。また毎月2日以上の休日を与えること]とあり、
      当時の労働条件が労働弱者に対して、非常に過酷なものだったことがわかる。

   注7L:工場通覧 I〜VIII、柏書房、1992、(明治37、39、42、44年、大正7、8、9、10年の復刻)
      明治35年から大正9年にかけての調査を、農商務省商工局工務課が編纂したもの。

   注7M:日本煉瓦100年史、日本煉瓦製造(株)、1990、p.128によると、明治40年頃、杉戸町に
      東武煉瓦の設立計画があったが実現されなかったという。設立役員には渋沢栄一や諸井恒平とともに、
      根津嘉一郎(当時の東武鉄道の社長)も名を連ねているので、日本煉瓦製造の分工場かつ
      東武鉄道(株)の系列という位置付けで計画されたのであろう。
      増林村にあった東武煉瓦は職工数が100名を超える大規模な工場であり、名称が上述した工場と同じだが、
      日本煉瓦製造や東武鉄道と関係があったのかは不明である。ちなみに工場主は星合源次郎。

   注7N:埼玉県行政文書 大1441-29、大正9年(1920)に猪原窯業(株)は埼玉県に対して、
      
大落古利根川の河川敷の占有許可願いを提出している。堤防に延長50間(約80m)に渡って、
      護岸および土留め工事をおこなう計画であった。これは煉瓦運搬用の船舶を繋留するためである。
      この後、大正12年には猪原窯業は東武煉瓦株式会社に譲渡されている。

注8)日本煉瓦製造と中小煉瓦工場

 明治40年頃の日本煉瓦製造の従業員数は333人、年間生産量は約3,700万個であり、
 日本有数の生産高を誇っていた。日本新聞の明治45年(1912)7月11日には、全国の県別煉瓦生産価額が
 掲載されているが(→神戸大学附属図書館 電子図書館 新聞記事文庫 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html
 埼玉県は大阪府(1,525,369円、23社の合計)、東京府(688,383円、36社の合計)に次いで、
 全国第三位(450,842円、7社の合計)である。埼玉県の7社のうち日本煉瓦製造を除く6社は、
 従業員10人程度の中小工場であり生産量も少ないことから、埼玉県の煉瓦生産価額の90%以上は
 日本煉瓦製造が占めていたと想像できる。一方、上述した中小煉瓦工場の年間生産量は、
 戸田村の2戸(従業員数は計12人)の場合、約40万個である。→注7I
 また、平方煉瓦製造所の場合、ピーク時の販売個数は約10万個(大正7年以降の記録より)だった。→注7H
 中小煉瓦工場の生産量は少なく、煉瓦の品質も並以下(当時、日本で最高の品質を誇った日本煉瓦製造と
 比べてであり、全国的に見れば平均レベル?)だったので、埼玉県の公共土木工事には、ほとんど使われず、
 煉瓦は主に民間に向けて出荷され、住宅・倉庫等の建材に使われたようである。

 当時は、使用煉瓦数5万個程度の中規模な樋門だと、建設工事は約3ケ月の工程で計画され、
 そのうち煉瓦積みに要する日数は約2週間であった。
 中小煉瓦工場が樋門工事用の煉瓦を全面受注するには、1ケ月に5万個以上の煉瓦を製造し
 供給する能力があること、または煉瓦5万個以上を常時在庫しておく空間を持っていること、が必須となる。
 手作業で煉瓦を製造する場合、その製造工程に約1ケ月を要する(→注7)ようなので、月産5万個以上を
 達成するには、1回の工程で5万個以上の焼成が必要である。
 また、煉瓦5万個の在庫には約700m3の空間(例えば幅25m×奥20m×高さ1.5m)が必要である。
 中小煉瓦工場が樋門工事用の煉瓦を全面受注するのは、煉瓦の品質が劣るという致命的な点に加え、
 生産供給能力が劣るという点からも、かなり難しかったと思われる。

 ただし小規模な樋門では、皿田樋管(明治36年、蓮田市、使用煉瓦数2万個)のように、
 使われた煉瓦のすべてが、中小煉瓦工場の製造した手抜き成形の煉瓦という稀有な事例もある。
 また長島煉瓦工場は政治力を行使して?、高畑樋管奈目曽樋管矢来門樋榎戸堰(いずれも
 明治36年竣工)の建設工事に、合計9万4千個の煉瓦を供給している(榎戸堰に供給した煉瓦の多くは
 材料検査の過程で品質が劣るとして却下された)。
 これに対して、日本煉瓦製造の場合、煉瓦樋門建設のピーク期(明治36年、年間で21基が建設された)に
 全ての工事の煉瓦を受注したとしても、供給すべき煉瓦の数は約120万個であり、
 これは同社の年間生産量の約3%にしか相当しない。
 余談だが、東京駅(大正3年竣工)の内部に使われている日本煉瓦製造の赤煉瓦は約800万個である。
 明治から大正期にかけて埼玉県に建設された全ての煉瓦樋門(推定約250基)の総煉瓦数は
 約1,000万個、現存する煉瓦樋門(約80基)に使われている総煉瓦数は約240万個と推定される。
 (現存する樋門は中小規模のものが多いので、1基当り平均3万個の煉瓦を使用として概算)


煉瓦詐称事件

 明治36年(1903)の比企郡唐子村(現.東松山市)の樋管工事で、高畑樋管、奈目曽樋管、矢来門樋に、
 仕様書に指定された煉瓦よりも品質が劣等で、価格が安いものが使われていたことが発覚し、
 問題となった(→埼玉県行政文書 明2496-3)。上敷免製(日本煉瓦製造)の煉瓦の替わりに小谷煉瓦が、
 大量に使われていたのである。小谷煉瓦とは小谷村(現.北足立郡吹上町)の長島煉瓦工場の製品である。
 長島煉瓦工場は明治35年に創業を開始したので、同社の煉瓦はそれまで樋管工事での使用実績が
 なかった。煉瓦は手抜きで成形し薪窯で焼成したもので、煉瓦樋管の建設材料としては明らかに品質が
 劣っていた。しかも仕様書に指定された寸法よりも煉瓦は大きかった。
 それが性能試験も行なわれずに、樋管の建設工事に使われたのである。

 事の重大さから内務部第二課長(現在の県土木部長に相当)の牧彦七が現地に赴き、各樋管の現状と
 工事の過程を詳細に調査しているが、その復命書(樋管工事の現地調査報告書)には、
 工事請負人は煉瓦を積むさいに巧妙な隠蔽工作までおこなった、と記されている。
 高畑樋管工事の請負人は唐子村長の親族であり、高畑樋管の建設決議書にも名を連ねている。
 小谷煉瓦は露見してしまう表積には使われず、隠れて見えない裏積(内部)にのみ使われた。
 上記3樋管での小谷煉瓦の使用数は以下のとうり。()内の数字は樋管の総煉瓦数。
  高畑樋管:16,914個(20,100個)、奈目曽樋管:160個(20,101個)、矢来門樋:16,620個(22,020個)
 奈目曽樋管は小谷煉瓦の使用数は少なく、上敷免の煉瓦が使われているが、仕様書に指定された
 選一等焼過煉瓦ではなく、焼過二等煉瓦(品質は選一等の2ランク下で、価格は選一等の約68%)である。

 上記3樋管の工事では、基礎杭の打ち込み長の詐称、建材に古材を使用、煉瓦と甲蓋の組み方が
 未熟で粗雑、など虚偽や工事の手抜きが次々と発覚し、埼玉県から工事停止命令が下されている。
 ただ、上記3樋管の現況を見た限りでは、煉瓦の積み方は指摘されている程、未熟で粗雑ではない。
 翼壁に変則積みが見られる点が変わっているが、目地厚が著しく不均一だったり、筋が通っていない等の
 粗雑さは見られない。後年に建造された煉瓦建築物では、これらよりも遥かに酷い煉瓦積みの例も多い。
 このことは裏を返せば、当時の埼玉県(おおむね工事の監督者である)は、煉瓦樋門の施工に
 対する要求水準が高かったことを示している。
 なお、矢来門樋に隣接して設けられた前吐樋管前樋管(比企郡野本村)も1903年の竣工なので、
 これらにも長島煉瓦工場の煉瓦が使われている可能性が高い。

 煉瓦詐称事件は事の発端であり、最終的には煉瓦樋門の建設工事に絡む収賄事件にまで発展した。
 翌明治37年には埼玉県の技手が被告として書類送検されている(→埼玉県行政文書 明2508-2)
 証拠品として町村土木補助規程と樋管の工事設計書が、東京控訴院(東京高等裁判所の前身)に
 押収されたが、それには高畑樋管、矢来門樋に加え、北河原用水元圦(行田市、明治36年竣功)の
 設計書まで含まれている。明治36年は埼玉県で最も煉瓦樋門が建設された年であり(年間21基)、
 東松山市の5基のみならず、行田市の周辺では9基(行田市5基、行田〜熊谷1基、熊谷市1基、
 騎西町1基、吹上町1基)もの樋門が建設されている。
 長島煉瓦工場の所在地である吹上町(行田市の隣町)には榎戸堰が建設された。

 長島煉瓦工場は小谷村(現.吹上町、榎戸堰から南東へ3Kmの付近)で明治35年(1902)に創業している。
 榎戸堰の工事にも長島煉瓦工場の煉瓦が納品されていたが、建設前の材料検査で発見され、
 県の技術官に不適切な材料(工事設計書に指定された煉瓦よりも品質が低い)と指摘されている。
 長島煉瓦工場の創始者の長島律太郎は、小谷製糸工場(1880年創業)の創始者と同じく、
 小谷村の長島家の出身である。長島家は地元の名士であり、明治から大正にかけては、
 国会議員や大蔵省の官僚を輩出した家系だそうである。長島律太郎の実弟である長島隆二は、
 大蔵省理財局長を務め、煙草専売法、鉄道特別会計法、治水法等の起草に従事している(→文献37、p.969)
 長島煉瓦工場と小谷製糸工場は現存しないが、小谷製糸工場の跡地には煉瓦造りの塀と窯跡が
 残っている。なお、榎戸堰下流の元荒川には煉瓦造りの床固め工が残っているが、
 その煉瓦(手抜き成形、刻印あり)は旧榎戸堰に使われていたものと推測されるので、
 長島煉瓦工場が製造した可能性が高い。

 当時、長島律太郎は小谷村の村長であり(1900-1907年)、同時に埼玉県議会議員(北足立郡選出)でもあった。
 煉瓦樋門建設の申請者(榎戸堰、三ツ木堰)が、建設予算の審議者であり、かつ建設資材の納入者である。
 榎戸堰の工事で資材の詐称行為があったのも、長島が私利私欲のために公的な立場を利用して請負人に
 圧力をかけた可能性が高い。自らが経営する工場が製造した煉瓦を、地元での土木工事に使いたいという
 心情はわからないでもない。長島は明治34年(1901)の埼玉県議会で、町村土木補助工事について、
 ”県から派遣された技術官は、建設資材の購入先まで指示する権限を有するのか”という主旨の
 質問発言をしている(→埼玉県議会史 第2巻、1958、p.999)
 明治34年は長島煉瓦工場が操業を開始する前年であり、吹上町には榎戸樋管(煉瓦造)が建設されている。
 榎戸樋管の建設工事では、辛酸をなめさせられたと想像されるような発言である。
 当時の町村土木補助工事は請負方式が何であれ、工事の前には技術官が県から派遣され、
 納品された資材の品質が、仕様書に指定されたものと同じであるかを検査していた。
 これは町村土木補助規定に基づいた職務権限である。仕様書に記された建設費に基づいて、
 町村へは県の補助金が与えられていたからだ。

 先の質問に対して県議会の参与委員である大森直輔(埼玉県技師)は、
 ”県は工事の等級(重要度のことだろう)に応じた品質の資材を見込んで設計仕様書を作成している。
 購入先までは指示していない”という主旨の答弁をしている。資材の品質については、仕様書に
 指定された規格を満足してさえいれば、購入先はどこだろうと(購入価格が高かろうが安かろうが)
 問題はないという意味である。当時の建設資材(特に煉瓦とセメント)は製品によっては、
 品質のバラツキが大きかったので、この答弁には一理ある。もし資材の購入価格が仕様書よりも
 高ければ、その超過分の費用は請負人の負担となった。
 しかし、明治37年には収賄事件が発覚している。県の工事担当技官のなかには、搬入された資材の
 品質が仕様書より劣っていても黙認し、購入価格をごまかす行為に加担していた者がいたのである。
 また建設工事にさいして、”官尊民卑”の態度をとる者や恫喝まがいの行為をした者がいたことは否めない。
 官のたかり構造は当時から現在まで延々と続いている。


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