乗越門樋

 所在地:富士見市下南畑(なんばた)、新河岸川(旧左岸)  建設年:1899年

 県道463号さいたま所沢バイパスの上宗岡二丁目交差点から西側へ150m、
 鶴新田集会所の敷地内には、煉瓦樋管のものと思われる石材(銘板、隅石)と煉瓦が残されている。
 銘板に記された施設名は磨耗が激しいので読み取れないが、竣工年が明治32年5月であることから、
 これらは乗越門樋(埼玉県行政文書 明2476-29)の遺構に間違いないであろう。
 乗越門樋は鶴新田集会所から500m南西、南畑大排水路が新河岸川へ合流する地点に
 設けられていた煉瓦造りの逆流防止水門である。

 乗越門樋は老朽化し大破した既設の木造樋管(明治12年伏換)を、明治32年に煉瓦造りへと
 改良したもので、入間郡南畑村が県税の補助と埼玉県の技術指導を得て、南畑村大字下南畑字乗越に
 建設した。総工費は約2,776円で、その内1,654円(建設費の約60%)は県からの補助金であった。
 乗越門樋は樋管長7間(12.6m)、通水断面はアーチ1連で幅6尺(1.8m)、中央高4尺5寸(1.35m)、
 ゲートは木製のマイター(観音開き)であった。
 使用煉瓦数が約42,000個(選一等焼器械抜20,000個、普通一等焼22,000個)の中規模の施設で、
 地杭(基礎杭)には長さ2間5尺(5.1m)、末口5寸(15cm)の松丸太が92本使われていた。
 煉瓦の種類の選一等焼器械抜とは、機械で成形してから焼き上げた煉瓦の中から、上質な物だけを
 選別した煉瓦のこと。つまり、手作業によって作られたものではなく、近代工場の製品である。
 乗越門樋の外見と見た目の大きさは、水越門樋(富士見市上南畑、1904年、現存)とほぼ同じだったと思われる。

 乗越門樋が設けられていた地点は、南畑村(現.富士見市)と宗岡村(現.志木市)との境であり、
 村境には宗岡村の控堤である佃堤(築田堤)が存在していた。佃堤は新河岸川の洪水から宗岡村を
 守るための堤防であった。一方、南畑村側の新河岸川左岸には木染橋の下流から佃堤付近まで、
 木曽目堤と呼ばれる堤防が築かれていた。木曽目堤は新河岸川の洪水から南畑村を守るための
 堤防である。このように下南畑地区は東側と南側に堤防が築かれているうえに、地形は南東に向かって
 低くなっているので、排水先は新河岸川しかなかった。そのため内水の排除に苦労した土地であり、
 ちょっとした降雨でも悪水の流下が困難となり、慢性的な湛水被害を被っていた。
 このため、南畑村には江戸時代から数ヶ所に木製の悪水圦樋が設けられていた。
 木曽目堤の末端に設けられた大悪水圦が、乗越門樋の前身の施設である。

 乗越門樋が建設された動機のひとつに、1898年に宗岡村が大小合併門樋大悪水圦から500m東)
 建設したことが
挙げられる。宗岡村と競うように、現.富士見市には8基もの煉瓦樋門が
 建設されたのだが、その先鞭をつけたのが乗越門樋である。
 乗越門樋は、現在では富士見ポンプ場の樋管(南畑大排水路)へと変貌している。
 南畑村と宗岡村は、それぞれ入間郡富士見村、北足立郡志紀町(しき)へ合併して消滅したが、
 大正末期に設置された南畑村と宗岡村の道路元標は今も残っている

 施設名の銘板    施設名の銘板
↑施設名の銘板
 2つに割れたまま放置されている。川表に設けられていたためか、風化と浸食が激しい。
 左の写真からは”門樋”が確認できるが、右の写真から施設名は読み取れない。
 どうも”乗越”とは刻まれていないような気がする。樋門の設計書には文字記入石には
 ”5寸文字6字彫刻”と記されているのだが、右の写真に4文字が刻まれているとも思えない。
 なお、鶴新田集会所内には、銘板と煉瓦の破片以外にも隅石に使われていたと
 思われる石材が、集会所の土留め壁として再利用されている。
 また、江戸時代に建立された
石橋供養仏も現存している。

竣工銘板
↑竣工銘板
 設計書には、文字記入石は長さ4尺1寸(123cm)、
 幅8寸(24cm)、厚さ8寸(24cm)、4寸文字9字彫刻と
 あるが、大体、そのとうりの大きさである。 

   散在する煉瓦
  ↑散在する煉瓦
   平の面には機械抜き成形の跡が確認できる。
   実測寸法は227×105×57mm。
   長手面にはガラス質の光沢がある。
   これは設計書に記された選一等焼煉瓦であろう。

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