三間樋 (さんげんぴ)

 所在地:北埼玉郡騎西町上崎(かみさき)新川用水にっかわ、見沼代用水左岸)  建設:1902年

 三間樋は、星川(見沼代用水)から取水する新川用水(騎西領用水)の元圦であった。
 最初の三間樋は、見沼代用水の開設(1727年)より前の1690年に造られている。
 その後、数度の改築を経て、明治35年(1902)には県税の補助(町村土木補助費)と
 埼玉県の技術指導を得て、木造(明治24年改築)から煉瓦造りへと改良された。
 使用煉瓦数が約13万5千個(表積:撰焼過一等 4万2千個、裏積:焼過二等? 9万3千個)、
 樋管長が7間(約12.6m)の大規模な樋管である。

 基礎の工法は当時一般的だった土台木である。これは地盤へ基礎杭として松丸太を打ち込んでから、
 杭頭の周囲に木材で枠を組み、中に砂利や栗石を敷詰めた後に突き固めて、その上に捨コンクリートを
 打設した方式である。建設地点が予想以上に軟弱地盤であったために、地杭(松丸太の基礎杭)を
 設計当初の本数よりも増やすなど、建設は困難であったようだ。杭の支持力や樋の通水量の計算書が
 埼玉県立文書館に保管されている。(埼玉県行政文書 明2492-12)

 新川用水は星川に設けられた騎西領用水堰(煉瓦造り)から左岸側へ取水していた。
 起点には新川溜井(溜池)が設けられていて、用水をいったん貯留し沈砂してから、
 三間樋で送水する方式であったようだ。煉瓦造の樋門は当時のままの形で、
 三間樋の跡地に埋設されているそうである(騎西町教育委員会が実施した調査による)。
 なお、明治17年迅速測図-埼玉県などによると、新川用水の路線は起点から三間樋までの区間は
 現在よりも300m位南側にあり、かつ大きく蛇行していた。
 三間樋の南側から南西に向かって延びる農道は、新川用水の旧堤防跡だと思われる。

 三間樋  ←三間樋 (現地の説明板から作成)

 埼玉県の煉瓦造り樋門の設計では、
 施設が大型の場合には呑口と吐口で
 アーチの数が異なるものが選択されることが多かった。
 三間樋の呑口は、四分円の三連アーチ(幅4尺)であり、
 吐口は15尺(4.5m)の一連アーチである。
 図には石造りと思われる堰柱が見られるが、
 意外なことにゲートの形式は
角落しではなく、
 鉄製であった。巻き上げ式のスルースだったと思われる。
 呑口には銘板が2つ!ある。
 翼壁と面壁の結合部には隅石が使われている。

 三間樋の埋設地
↑三間樋の埋設地(新川用水右岸)
 見沼代用水の騎西領用水分水工(元圦)から
 約500m下流、小さな公園の中に埋設されている。

   騎西領用水堰之碑
  ↑騎西領用水堰之碑(玉敷神社内、騎西町騎西)
   騎西領総鎮守、久伊豆大明神とも称された玉敷神社内にある。
   明治32年(1899)3月建立。明治31年に煉瓦造りで
   建設された騎西領用水堰(忍騎西領用悪水堰)の
   竣工記念碑である。碑文には、騎西領用水の歴史とともに、
   堰を木造から煉瓦造りへと改築した経緯が記されている。
   用水堰の建設には県税の補助を仰ぎ、
   明治31年2月28日に起工、5月5日に竣工とある。
   碑の表・裏側には堰改築に関係した町村名も記されている。
   現.騎西町(田ケ谷村、種足村、鴻茎村、高柳村、騎西町)、
   現.川里町(共和村)、現.加須市(水深村)、現.鷲宮町(鷲宮村)
   現.久喜市(清久村、江面村、太田村、久喜町)
   以上、12町村のかんがい受益面積は1900町歩(ha)にも及んだという。
 現在の三間樋
↑現在の三間樋(新川用水の上流から撮影)
 現在の施設は水位調節堰(チェックゲート)である。
 幅5m、高さ1.4mの鋼製転倒ゲートが付けられている。

埼玉県の煉瓦水門へ戻る  騎西町の煉瓦樋門:[落合門樋[三間樋]