荒川 - 植松橋の付近  [荒川のページ一覧

 撮影地: 埼玉県大里郡花園町、大里郡川本町

 川本町の区間では、荒川の河床には広範囲に岩盤が露出している。

 六堰頭首工
↑六堰頭首工 左岸:花園町永田、右岸:川本町畠山
 農業用水の取水堰は
頭首工(とうしゅこう:headworks)と
 呼ばれることが多い。昭和14年に建設された旧六堰が、
 洪水で破壊されたため、現在の頭首工が建設された。
 六堰頭首工の取水口は左岸側に設けられていて、旧来の
 
6つの用水路と山王用水へ送水している。かんがい面積は
 約3,400ha、頭首工はゲート5門(幅40m×4、幅25m×1)、
 右岸側(写真手前)には流水改善水路、階段式と
 緩勾配式の2種類の魚道が設けられている。
 なお、六堰頭首工には管理橋(一般道)が
 併設されていて、その名は重忠橋という(注1)
   櫛挽排水路の合流
  ↑櫛挽排水路の合流(右岸から) 川本町田中
   六堰頭首工から100m下流では、左岸に櫛挽排水路が
   合流している。写真の上部中央が櫛挽排水路。
   写真の手前の流れは、六堰頭首工の流水改善水路のもの。
   櫛挽排水路は利根川水系に属する櫛引ヶ原(岡部町、
   寄居町、深谷市に跨る)からの排水路であり、水量の
   1/3くらいが荒川(玉淀ダム)から取水した水である。
   合流地点は意外に砂礫の堆積が多い。この付近には
   新生代(1000〜1500万年前)の地層が露出している。
   泥岩が露頭している所では化石(注2)が見つかるというから、
   地質学に興味のある人には垂涎の地である。

 荒川第二水管橋
↑荒川第二水管橋(上流から)
 左岸:川本町田中、右岸:川本町畠山
 櫛挽排水路の合流地点から200m下流に架かる。
 ローゼ補剛形式(4スパン)、全長263mと大きい。
 下流(吹上町〜大里町)にある
荒川水管橋はこれよりも、
 さらに巨大で全長は約1.1Km(日本最大)である。
 この付近の荒川は鶯ノ瀬と呼ばれる浅瀬になっている。
 河床の大半は露出した岩盤で、おう穴(ポットホール)も
 見られる。砂利や礫の堆積した、いわゆる河原はない。
 鶯ノ瀬の名は荒川を渡ろうとしていた畠山重忠(鎌倉時代
 初期の武将、愛馬
 三日月を担ぐ強力)に、鶯が鳴き声で
 浅瀬の場所を知らせたという故事に基づく。
 右岸の段丘崖上に位置する井椋神社(注3)は畠山氏に
 ゆかりが深く、境内には重忠の歌碑もある。井椋神社には
 豊かな社叢林が残っている。なお、井椋神社から南西へ
 700mの重忠公史跡公園には重忠の墓と館跡、三日月を
 担いだ重忠の銅像、重忠を詠んだ
芭蕉の句碑がある。

   
植松橋と植松冠水橋記念碑
  ↑植松橋と植松冠水橋記念碑(右岸から)
   左岸:川本町田中、右岸:川本町畠山
   現在の
植松橋は昭和46年(1971)竣工の鋼桁橋だが、
   旧橋はコンクリート製の
冠水橋だった。植松橋の右岸上流には、
   その植松冠水橋(昭和26年(1951)完成)の竣工記念碑が
   建てられている。また、植松橋の下流側の河床には
   植松冠水橋の橋脚跡(コンクリート製)が数基残っている(注1)
   右岸上流の川本町ペタンク場付近には、
水神宮などを
   祀った石仏群がある。水神宮は材木を江戸へ運んでいた筏師達が、
   水運の安全を祈願し建立したものだ。荒川では長い間、
   筏流し(木材を筏に組んでの運搬)が盛んだったが、秩父鉄道の
   全通と旧六堰頭首工の竣工によって、事実上、終止符が打たれた
   (それでも六堰頭首工には、幅11mの筏通しが設置されていた)。
   なお、水神宮の付近には内務省
 19/30の文字が刻まれた、
   
測量の古い基標が残っている。これは荒川の近代改修のさいに
   内務省(国土交通省の前身)によって設置されたものだろう。
   荒川近代改修の対象区間の上流端がこの付近だった。

 大里用水の沈砂池
↑大里用水の沈砂池(上流から) 川本町菅沼
 植松橋から1Km下流。荒川の左岸には断続的に
 段丘崖が分布している。菅沼天神社(注4)はその上に
 鎮座する。菅原道真が祀られ、丑年丑の日生まれの
 道真にちなんだ牛天神の石像もある。
 天神社の脇には大里用水(六堰頭首工によって荒川から
 取水された農業用水)の沈砂池が設けられている。
 
この沈砂池は埼玉県の事業として、昭和初期に
 建設された。ここで大里用水の土砂と余水(時には
 洪水流)は再び荒川へ戻される。用水路が土砂で
 埋まってしまうのを未然に防いでいる。
 沈砂池の末端には2基の古い水門が並ぶ。
 写真の左が導水路の呑口、右が土砂と余水の吐口。
 下流100mでは武川排水路が荒川の左岸に合流している 

   吉野川の合流
  ↑吉野川の合流(右岸から) 川本町本田
   大里用水の沈砂池の対岸では、吉野川が荒川の右岸へ
   合流している。吉野川の流域は江南台地である。
   写真の手前が吉野川。自然合流であり、合流地点には
   導流堤や逆流防止水門は設けられていない。
   吉野川はかつては
和田吉野川と密接な関係があったようだが、
   現在はまったく別の河川。地元では逆川とも呼ばれている。
   北へ向かって流れる川は、埼玉県では逆川と異名を持つことが多い。
   吉野川の最下流にも
水神(明治26年建立)が祀られているが、
   これは水を鎮めるためのもので、荒川の逆流による水害
   (出水による田畑の流出が多かった)の防止を祈願したものだろう。
   なお、この付近は昭和30年に川本村が誕生するまで、
   荒川の右岸が大里郡本畠村、左岸が大里郡武川村だった。
   大正時代に設置された
武川村の道路元標は今も残っている。

(注1)旧六堰頭首工に使われていたローラーゲート(建設当時は東洋一の規模)は
 遺構として管理所の敷地内に保存されている。
 重忠橋の名前の由来はまごうことなく、畠山重忠だろう。
 重忠橋から下流へ400mに位置する満福寺は、畠山重忠の菩提寺である。
 重忠橋の地点には、旧六堰頭首工ができる以前に、渡し(渡船)が
 設けられていた記録が残っている。
 武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の榛沢郡永田村(10巻、p.101)に
 ”滝之渡:隣村通路に属す
 村の南方 荒川の下流にあり 渡船一艘 私渡”とある。
 永田村下永田と対岸の畠山村如意を結んでいたと思われる。

 植松橋も冠水橋が架けられる以前は渡しだった。前掲書の榛沢郡田中村(10巻、p.98)に
 ”上松渡:小川道に属す
 村の南方十二町四十二三尺 荒川の下流にあり 官渡”とある。
 上松は植松のことである。荒川の渡しでは珍しく、私渡ではなく官渡(県営)だった。
 川本町田中の秩父往還(国道140号の旧道)には、嘉永七年(1854)建立の
 聖徳太子塔(講中による名号塔)が残っているが、これは
道標(道しるべ)
 兼ねていて、小川へ二里、舩渡へ五丁(舟の渡しへ500m)と刻まれている。
 舩渡とは上松渡のことだろう。

(注2)川本町菅沼の荒川河床では、メガロドン(サメ科)の歯の化石が
 見つかっている。今から1500万年前には、川本町付近まで海が進入していて
 (俗にいう秩父湾)、荒川はまだ存在せず、入り江だったことを示す物証だという。
 メガロドンの化石は県立自然史博物館(長瀞町)に展示されている。

(注3)井椋神社(いぐら、男衾郡本畠村の村社)は、畠山重忠の父、重能が
 秩父からこの地に移った時に、郷里の椋神社(むく、秩父郡吉田町下吉田)を
 勧請したのが起源だとされる。椋神社は秩父郡の延喜式内社に比定される古社であり、
 江戸時代からの神事である龍勢(農民ロケット)は全国的に有名だ。
 また、明治17年(1884)11月1日に埼玉県、群馬県、長野県の農民約3,000人が
 自由と人権を訴え、武装決起した場所でもある。世に言う秩父事件の勃発地だ。

(注4)菅沼天神(村社)の敷地内には、几号(きごう)の付けられた、
 古い様式の水準点(石造り)が残っている。
 これは荒川の改修に関連して、昭和5年(1930)に内務省(国土交通省の前身)が
 設置したもの。几号の水準点とは、不に似たマークの付いた水準点のことであり、
 明治初期にお雇い英人の指導で実施された全国測量のさいに
 設置されたのが起源である。不思議なことに昭和初期の河川計画でも、
 几号の付いた水準点が踏襲された事例があり、筆者は埼玉県内の
 
荒川で10基(内務省9、埼玉縣1)、利根川で26基(埼玉縣)を確認している。


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