道路元標 (大里郡)_ 北埼玉郡 (南埼玉郡) 北葛飾郡 (北足立郡) (深谷市) (熊谷市) (比企郡) (入間郡) 児玉郡 秩父郡

岡部町に設置された道路元標で、見つかっていないのは下表のとうり。

町村名 設置場所 現在の住所 備考
本郷村 針ヶ谷字中道229 八幡大神社の南側付近? 道路は拡幅

 
岡部村道路元標
↑岡部村道路元標
 大里郡岡部町榛沢新田
 県道86号花園本庄線、岡部町文化財
 保護室(以前はJA榛沢支所)の敷地内。
 倒れたまま放置されている。
 25cm角、地上高67cm。
 下部にはコンクリートの基礎(62cm角、
 高さ32cm)が打たれている。
 榛沢郡岡部村は岡部村、普済寺村、岡村、
 伊勢方村、宿根村が合併して明治22年に
 誕生。明治29年に大里郡岡部村となった。
 昭和30年には伊勢方村と宿根村は
 岡部村から分離し、深谷市へ合併した。

   榛沢村道路元標
  ↑榛沢村道路元標
 大里郡岡部町榛沢新田
   この元標も岡部町文化財保護室の敷地内
   にある。脇には安永八年(1779)建立の
   見事な庚申塔(正面金剛、三猿、笠付)が
   ある。元標は27cm角、地上高70cm。
   下部にはコンクリートの基礎(60cm角、
   高さ30cm)が打たれている。
   榛沢郡榛沢村は榛沢村、後榛沢村、
   榛沢新田村、沓掛村、西田村、山崎村が
   合併して明治22年に誕生。明治29年に
   大里郡榛沢村となり、昭和30年には
   岡部村、本郷村と合併し大里郡岡部村へ


寄居町に設置された道路元標で、見つかっていないのは下表のとうり。

町村名 設置場所 現在の住所 備考
鉢形村 露梨子字山下7 鉢形駅から東へ300m、県道30号のT字路 付近に鉢形村解散記念碑、道標あり

 寄居町道路元標

↑寄居町道路元標
 大里郡寄居町寄居
 県道296号線の[寄居駅入口]T字路、
 酒井文具店の壁の脇にある。
 25cm角、地上高62cm。
 表面は変色していて、黄色っぽいが
 石材は花崗岩である。
 榛沢郡寄居町は寄居町、藤田村、
 末野村が合併して明治22年に
 誕生。明治29年に大里郡寄居町となった。
 昭和18年に桜沢村と合併、昭和30年には
 用土村、折原村、男衾村、鉢形村と合併

   桜沢村道路元標
  ↑桜沢村道路元標
 大里郡寄居町桜沢
   東武東上線の玉淀駅から北へ500m、
   県道296号線の三叉路、土屋酒店の
   脇にある。二本の電柱の間に、
   守られるかの様に建っている。
   25cm角、地上高63cm。
   榛沢郡桜沢村は明治22年に誕生。
   明治29年に大里郡桜沢村となった。
   昭和18年に寄居町と合併し、
   昭和30年には用土村、折原村、男衾村、
   鉢形村と合併。

   用土村道路元標
  ↑用土村道路元標
 大里郡寄居町用土
   用土五区公会堂の敷地内、県道175号線の
   歩道脇にある。175号線はかつては
   鎌倉街道(上の道)。ここから南へ50mに
   あるJR八高線の踏切は鎌倉街道踏切だ。
   元標は25cm角、地上高63cm。
   下部にはコンクリートの基礎(63cm角)が
   打たれている。元標面は道路に面していない
   榛沢郡用土村は明治22年に誕生。
   明治29年に大里郡用土村となり、
   昭和30年には寄居町など4町村と
   合併して大里郡寄居町となった。

 折原村道路元標
↑折原村道路元標
 大里郡寄居町折原
 JR八高線の第一下郷踏切から東へ
 100mの地点、庚申塔群の脇にある。
 付近の白髯神社には大正3年建立の
 道路改修紀念碑があることから、
 この道路はその時に造成されたものだろう。
 なお、元標のすぐ近くには折原村青年団が
 昭和6年に建立した道標も残っている。
 25cm角、地上高29cm。
 男衾郡折原村は折原村、立原村、三品村、
 秋山村、西ノ入村が合併して明治22年に
 誕生。明治29年に大里郡折原村となった。
 昭和30年には寄居町など4町村と
 合併して大里郡寄居町となった。

   男衾村道路元標
  ↑男衾村道路元標 大里郡寄居町富田
   県道296号線の北柏田交差点から西へ
   300m、斉藤商会の南側の三叉路にある。
   三叉路では県道と男衾停車場線が
   交差している。元標の脇には牛頭天王尊
   (ごずてんのう)の石碑が建っている。
   ここは旧男衾村役場の跡地だが、現在は
   大久保家の敷地となっている。
   25cm角、地上高65cm。
   男衾郡男衾村は富田村、牟礼村、今市村、
   赤浜村、西古里村、鷹巣村が合併して
   明治22年に誕生。明治29年に大里郡
   男衾村となり、昭和30年には寄居町など
   4町村と合併して大里郡寄居町となった。


川本町と江南町に設置された道路元標で、見つかっていないのは下表のとうり。

区分 村名 設置場所 現在の住所 備考
川本町 本畠村 本田字下宿3820 川本南小から北東へ400mの付近 (株)アクテイオの北西?
江南町 小原村 須賀広字前新田104 江南南小から東へ200m、
重殿稲荷の付近。→ 重殿とは
現在は主要道ではない。
小原村役場の跡地は小原農協

 花園村道路元標
↑花園村道路元標
 大里郡花園町小前田
 国道140号線の小前田駅入口交差点から
 300m東側、信号機のある交差点の
 歩道脇にある。この道路元標は規格外の
 寸法であり、幅28cm、奥行27cm、
 地上高は59cm。
 下部にはコンクリートの基礎(45cm角、
 高さ10cm)が打たれている。
 榛沢郡花園村は小前田村、武蔵野村、
 荒川村、黒田村、永田村、北根村が
 合併し明治22年に誕生した。花園とは
 藤田氏の居城だった花園城にちなむ。
 明治29年に榛沢郡が大里郡へ編入され
 たことにより、大里郡花園村となった。
 昭和58年には町制を施行し、
 花園町となった。

   武川村道路元標
  ↑武川村道路元標 大里郡川本町田中
   国道140号線(旧道)の武川駅入口
   交差点の中にある。川本町役場から北へ
   200mの地点。27cm角、地上高70cm。
   写真の奥に見えるのが国道140号線。
   元標の正面は道路へ向いていない。
   下部にコンクリートの基礎(60cm角、
   高さ15cm)が新たに打たれているので、
   移築されたのだと思われる。
   榛沢郡武川村は長在家村、明戸村、
   瀬山村、田中村、上原村、菅沼村が
   合併して明治22年に誕生。村名は古来の
   武川荘(むかわのしょう)に由来する。
   明治29年に大里郡武川村となり、
   昭和30年には本畠村と合併し、
   大里郡川本村となった。

   御正村道路元標
  ↑御正村道路元標 大里郡江南町成沢
   県道81号熊谷寄居線の樋春交差点の
   北側、旧道の脇にある。対面にはJAの
   くまがや御正支店(みしょう)が位置する。
   JAの敷地は旧村役場の跡地。
   この道路元標のサイズはちょっと変わっていて、
   幅28.5cm、奥行き27cmと大きく、地上高は
   76cmである。基部が剥き出しのまま、
   コンクリートの台座(後年に増設されたもの
   だろう)の上に置かれている。
   大里郡御正村は成沢村、樋春村、三ッ本村、
   押切村、御正新田村が合併して明治22年に
   誕生。本田(ほんでん)村ではなく、新田村の
   名前(中世からの領名だが)を新らしい村名と
   した点が興味深い。御正村は昭和30年に
   小原村と合併し、大里郡江南村となった(注)

(注)昭和29年の時点では、荒川右岸の江南5村(御正村、小原村、吉岡村、市田村、吉見村)が
 合併する計画があり、大里郡江南村として、その準備も進んでいた。
 しかし、最初に市田村が合併協議会から脱退したことにより、
 吉見村もこれに追従したので(市田村が飛地となってしまう)、
 結局、御正村、小原村、吉岡村の3村での合併計画が進められた。
 しかし合併直前になって、吉岡村が江南村への合併を白紙撤回とした。
 吉岡村は熊谷市と合併する意向を示した。結局、残されたのは御正村と小原村だが、
 両村へも熊谷市との合併の誘いがあった。村民投票によって、
 熊谷市との合併は却下され、両村は大里郡江南村として出発する道を選んだ。
 参考文献:江南町史 通史編 下巻、p.340-342


大里町に設置された道路元標

 市田村道路元標
↑市田村道路元標 大里町中曽根150付近
 市田村役場の跡地。農協の市田支店から
 南へ50m、県道257号熊谷冑山線と
 町道との交差点の脇にある。この交差点を
 東へ進むと南市田神社へ通じ、元標の
 近くには殉国慰霊塔がある。257号線は
 鎌倉街道の古道(比企道)だとされている。
 元標は幅27.5cm、奥行き27cm、
 地上高8cm。なお、ここから北100mには
 
通殿川が流れ、それが中曽根と小泉の
 境界となっている。中曽根橋の袂には
 一級河川の管理起点と寛政十年(1798)
 建立の
石橋供養塔がある。
 大里郡市田村は中曽根村、小泉村、
 屈戸村、沼黒村、手島村、上恩田村、
 中恩田村、下恩田村、吉所敷村、高本村、
 津田新田村が合併して明治22年に誕生。
 市田とは中世の郷名に由来する。
   吉見村道路元標
  ↑吉見村道路元標 大里町相上(あいあげ)
   県道257号熊谷冑山線と町道との交差点の
   脇、吉見神社の鳥居の対面にある。
   吉見村第二部消防組の
レトロな建物
   (火の見櫓の跡、昭和10年竣工)の
   敷地内にある。27.5cm角、地上高25cm。
   大里郡吉見村は相上村、冑山村、小八林村、
   玉作村、箕輪村、津田村、向谷村が合併して、
   明治22年に誕生した。昭和30年には
   市田村と合併して、大里郡大里村となった。
   ちなみに大里郡吉見村という名称は、
   合併した村々が上吉見領に属したことに
   由来する。比企郡吉見町と混同しやすいが、
   吉見町の前身は下吉見領。吉見町は領が
   そのまま横見郡となり、郡域がそっくり町にまで
   発展した極めて稀有な例だ。
   なお、横見郡には東西南北を冠した4つの
   吉見村が存在した。

妻沼町に設置された道路元標で、見つかっていないのは下表のとうり。

村名 設置場所 現在の住所 備考
男沼村 出来島字熊ノ臺1409 JA男沼支所の付近 役場は昭和9年まで普門寺、それ以降はJA。
JA内に水防倉庫。JAから300m東に
青年団建立の道標

(補足)妻沼町の町域には利根川沿いに、几号の付けられた古い仕様の水準点(埼玉縣)が
  4基現存している。それらは道路元標と同様に希少な存在である。

 妻沼町道路元標
↑妻沼町道路元標 大里郡妻沼町妻沼
 妻沼小学校から東へ250m、芝川の
 さくら遊歩道の東屋の脇にある(移築)。
 利根川の右岸堤防から南へ300mの地点
 当初は妻沼聖天前交差点(県道45号線と
 県道59号線、妻沼小学校から南へ200m
 の地点)に設置されていた。芝川は下流で
 
道閑堀となり、最後は福川へ合流する。
 元標は25cm角、高さは67cm。
 幡羅郡妻沼村は明治22年(1889)に
 誕生し、明治29年に大里郡妻沼村と
 なった。大正2年(1913)に弥藤吾村と
 合併し妻沼町となった。昭和30年には
 太田村、長井村、男沼村、秦村と合併。
   太田村道路元標
  ↑太田村道路元標 大里郡妻沼町飯塚
   県道127号線からJA妻沼太田へ向かう、
   交差点の脇にある(飯塚1113付近)。
   元標正面は県道を向いている。
   写真の奥に見えるのは200m南東に、
   ある太田小学校。ここから600m北には
   
備前渠用水が流れている。
   元標は25cm角、高さは52cm。
   幡羅郡太田村は明治22年(1889)に
   飯塚村、永井太田村、道ヶ谷戸村、
   八木田村、原井村、市ノ坪村、
   上江袋村が合併して誕生。明治29年に
   大里郡太田村となり、昭和30年には
   秦村、長井村、男沼村、妻沼町と合併。

 長井村道路元標
↑長井村道路元標 大里郡妻沼町江波
 JA長井支所から北東へ150m、県道303号
 の交差点の脇に放置されている。場所は
 石川コンクリート工業の工場の北西である。
 この交差点は江波神社と宝蔵院の参道を
 兼ねていて、元標の脇には江波神社の
 4基の幟立てがある。宝蔵院の南側には
 旧村役場の建物が残っている。元標は
 花崗岩製で25cm角、全長96cm、下部には
 60cm角、厚さ30cmのコンクリートが打たれ
 ている。幡羅郡長井村は明治22年に
 上根村、江波村、八ッ口村、上須戸村、
 西城村、田島村、西野村、善ヶ島村が
 合併して誕生。村名は長井庄に由来する。
 昭和30年には妻沼町へ合併した。

   秦村道路元標
  ↑秦村道路元標 大里郡妻沼町葛和田
   県道59号羽生妻沼線と県道83号熊谷・
   館林線の天王店交差点内にある。
   秦小学校(はた)の南150mの地点。
   県道83号を南西へ500m進むと福川の
   左岸堤防、北東へ400m進むと、そこは
   利根川の右岸堤防で、河川敷内には
   
葛和田の渡が設けられている。
   元標は25cm角、高さは16cmで文字は
   ほとんど見えない。幡羅郡秦村は
   明治22年に葛和田村、日向村、俵瀬村、
   大野村、弁財村が合併して誕生。
   明治29年に大里郡秦村となり、
   昭和30年には太田村、長井村、
   男沼村、妻沼町と合併した。

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