和田吉野川  源流から国道407号線まで  [和田吉野川のページ一覧

 和田吉野川は延長約11Km、流域面積31Km2の荒川水系の一級河川。
 源流は埼玉県大里郡川本町(かわもと)にあるが、一級河川の管理起点は大里郡江南町(こうなん)成沢に
 設けられている。川本町から、江南町、熊谷市、東松山市、大里町(おおさと)と東へ流れ、
 大里町で右岸に和田川、左岸に通殿川を合流した後、吉見町上砂で荒川の右岸に合流する。
 流路の左岸側は低地、右岸側は比企丘陵の裾であり、荒川扇状地の田園・丘陵地帯を流れる。
 なお、和田吉野川の源流付近の川本町本田、菅沼地区は荒川扇状地の扇央に位置する。

 和田吉野川の主な支川には和田川、九頭龍川、通殿川がある。
 新編武蔵風土記稿(江戸時代末期の編纂)には、元来は和田川との合流地点から
 下流の部分を和田吉野川と呼んでいたと記されている(11巻、p.84)。
 合流地点から上流は吉野川ということなのだろうが、現在の吉野川は川本町本田で荒川に
 合流しているので、吉野川と和田吉野川は直接は繋がっていない。

 元来の和田吉野川は、上流部に片鱗が残るような小さな川(だったと思われる)が、
 江戸時代から現在まで延々と続けられた治水工事によって、今では下流部には巨大な
 堤防(河道貯留による洪水調節)と数基の排水機場が設けられている。
 和田吉野川を起点から終点まで辿ると、河相の変化が極めて大きいことを実感できる。

 和田吉野川の流路変遷:
 和田吉野川は江戸時代以前は、市野川や入間川の支川であった。
 和田吉野川が市野川の支川だったのか、市野川が和田吉野川の支川だったのかは
 はっきりししないが、川の規模や格(!)から推測すると、和田吉野川が市野川の支川であろう。
 江戸時代初頭の荒川の瀬替え(1629年、伊奈忠治)によって、荒川は熊谷市久下で
 流路が締め切られ(久下から下流の旧荒川は、現在は元荒川となっている)、締め切り地点から
 大里町玉作付近までは新しい河道(新川)が掘られて、和田吉野川へと繋げられたとされている。
 つまり、現在の荒川の流路のうち、大芦橋(大里町〜吹上町)から糠田橋(吉見町〜鴻巣市)までの
 区間は、かつては和田吉野川であったと推測できる。昭和初期に実施された荒川の近代改修によって
 和田吉野川の下流部は大幅に流路が変更されているので、江戸時代の荒川(和田吉野川の旧流路)は
 不明瞭となっているが、大芦橋の上からは和田吉野川の旧流路跡が確認できる。

 糠田橋の下流から荒井橋(北本市〜吉見町)の間に残る旧荒川も瀬替え以前は
 和田吉野川だったと思われる。もっとも弥生時代の頃には、荒川中流部の流路は
 扇状地河川特有の乱流をしていて、和田吉野川は荒川の派川の一つだったようなので
 (荒川中下流流路変遷図、荒川上流改修六十年史、荒川上流工事事務所、1979)、
 江戸時代初頭に大昔の形態に戻されたともいえる。

 こうして和田吉野川は荒川の支川となったのだが、合流地点の大里町では荒川からの洪水の
 逆流による浸水被害が顕著になった。玉作地区に見られる水屋は、洪水に対する自己防衛手段として、
 民家の中に設けられた非常時用の貯蔵倉庫である。水との闘いの歴史を今に伝えている。
 また合流地点から下流の吉見町では水量が増大し、水害が頻発するようになったので、
 様々な治水対策がとられた。例えば、大芦橋の右岸に残る横手堤は寛永年間(1630年頃)、
 吉見領の大囲堤は元和年間(1620年頃)の築造だとされている。

 和田吉野川の源流1
↑和田吉野川の源流1(上流から) 川本町本田
 和田吉野川を上流へ遡って行くと、幅0.3mの
 農業排水路に辿り着く。写真は
鹿島古墳群
 南側300m付近の様子。右岸側は丘陵であり、
 舟山(標高58m)が存在する。西側400mには
吉野川
 流れる。元来は和田吉野川の源流?だが、現在は
 北流して荒川の右岸へ合流している。源流1には
 吉野川から取水した農業用水が、流れ込んでいるので、
 和田吉野川は間接的だが、吉野川と繋がっている。
   和田吉野川の源流2
  ↑和田吉野川の源流2(下流から) 江南町成沢
   和田吉野川の管理起点の右岸側には、比企丘陵が位置し、
   江南台地を刻む大きな谷が存在する。写真の水路は谷底を
   流れていて、遡ると江南町運動公園の付近まで続いている。
   付近に広がる雑木林は規模は小さいが、源流域の
   水源涵養林の役目を果たしているのだろうか。
   冬場でも、この水路の水量は豊富である。
   なお、この雑木林の中には行人塚古墳が存在する。
   雑木林の南側で丘陵は終わり、崖下には和田川が流れている。

 和田吉野川の管理起点
↑和田吉野川の管理起点(上流から) 江南町成沢
 江南町浄水場(写真右上)から西側へ200mの付近。
 源流1(写真手前)と源流2(写真右)が合流する地点が
 和田吉野川の管理起点である。右岸の堤防上には
 [一級河川
 和田吉野川起点]と刻まれた標石が
 設けられている。管理起点付近では、コンクリートの
 護岸が施されていて、農業排水路の印象が強い。
 ここから北へ200mにある赤城神社には、延享二年
 (1745)の
弁財天が祀られている。900m下流左岸の
 雷電神社には雨乞いの神が祀られている。
 なお、この付近は昭和30年まで大里郡御正村(みしょう)
 であり、旧村役場跡には
御正村の道路元標が残っている。

   
万吉橋の付近
  ↑万吉橋の付近(上流から) 熊谷市万吉(まげち)
   管理起点から2.1Km下流、江南町と熊谷市の境界付近。
   この付近の和田吉野川には、田園地帯を流れる野川の
   雰囲気がある。和田吉野川には緩傾斜の護岸が施され、
   所々に河床へ降りる階段が設けられている。これは元来は
   川棚(川店)だったと思われる。牛や馬、農機具、野菜などを
   洗う場所のことである。和田吉野川の周辺は開放的で
   生活空間と河川空間が連続している点は好感がもてる。
   熊谷市万吉から揚井(やぎい)にかけての、和田吉野川の
   右岸側は江南台地(洪積台地)である。一方、左岸側には
   水田が広がり、和田吉野川には御正堰用水(荒川の
   
六堰頭首工から取水)の流末が流れ込んでいる。

 川幅の狭い区間
↑川幅の狭い区間(上流から) 熊谷市平塚新田
 万吉橋から1.5Km下流の地点。この付近は熊谷市と
 大里町の境界である。和田吉野川は丘陵の裾を
 緩やかに蛇行しながら流れ、川幅は約5mと狭い。
 周囲には落葉広葉樹の雑木林が広く分布する。
 この付近には宝暦十四年(1764)の
石橋供養塔
 祀られているが、この川幅なら石橋の架橋も
 容易だったと思われる。 

   国道407号線の下恩田交差点付近
  ↑国道407号線の下恩田交差点付近(上流から) 大里町下恩田
   周辺の地形は国道407号線を境に西が丘陵、東が低地である。
   国道407号線沿いには段丘崖も見られ、崖下には民家が
   建ち並ぶ。和田吉野川は国道407号線の東側に並行して、
   東松山市と大里町の境を流れる。この付近はまだ、はっきりと
   した築堤はないが、川幅は次第に広くなっている。
   ここから下流700mでは和田川が合流する。
   なお、左岸から400m東に位置する高城神社(注)は延喜式内社である。

(注)大里郡には5つの延喜式内社(延喜式神名帳に記載された古社)があり、
 そのうちの4つは、ほぼ所在が比定されているが、高城神社については
 同名の社が熊谷市本町と大里町高本に存在するので、不定である。
 ただし、熊谷市の高城神社を延喜式内社とする説の方が優勢なようだ。
 大里町の高城神社は旧高本村の村社だが、新編武蔵風土記稿(8巻、p.117)に
 よれば、江戸時代後期の時点で、大里郡高本村の村社は御霊明神社だった。
 現在は御霊明神社は存在しないので、高城神社に合祀されているのかもしれない。
 御霊明神社は鎌倉権五郎景政を祀っていた。
 戦さで片目になったとの伝承がある鎌倉時代の武士である。
 近隣の東松山市
正代の御霊神社、熊谷市上奈良の豊布都神社(旧称は御霊社)も
 鎌倉権五郎景政を祀っている。


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