水準点、三角点 (利根川水系:その1)_

利根川の沿線に分布する几号の付けられた水準基標  改定8版:2009/03/21

利根川の流域には利根川の近代改修(明治期から昭和初期まで)に関連して、
設置されたと思われる古い標石(測量の水準点や三角点)が数多く残っている。
特に興味深いのが、埼玉県内に分布する几号(注1)の付けられた水準基標である。
現在のところ筆者は、埼玉県の北縁に沿った6市4町において、計26基の存在を確認している。
これらの基標は現在は使われていないようで、利根川上流河川事務所(国土交通省)や
埼玉県に問い合わせたところ、管理者は不明であった。というよりも標石の存在自体が
認知されていないのが実情である。

(1)几号付標石の現況

その分布状況から判断すると、基標番号はおそらく連番であり、北埼玉郡北川辺町の
渡良瀬遊水地付近(群馬県、栃木県、茨城県の境界)から始まり、西へ向かって番号が大きくなり、
児玉郡上里町の烏川(利根川の支川)付近まで続いている。埼玉県の県域の北縁を規定するのは
ほぼ利根川だが、その堤防付近に沿って基標は約1Km間隔で設置されたようである。
設置単位は現在の大字毎に相当するので、明治22年の市制・町村制施行以前の旧村が対象だろうか。

現在のところ、標石の存在が確認されているのは、ほとんどが神社の境内であり、
路傍ではわずかに1基(深谷市江原)しか見つかっていない。しかし、分布密度が低い、羽生市から
行田市の区間での標石の現存状況から判断すると、神社だけでなく路傍にもかなりの数が
設置されていたと思われ、現在、神社の境内に存在するものも、本来は路傍に
設置されていて、その後、何らかの理由で神社へ移築された可能性が高い。

羽生市から行田市の区間は約15Kmにも及ぶが、見つかっている標石はわずかに6基である。
しかもそのうち2基はタイプが異なり、標石の保存状態や様式などから、その2基の設置年は
他の4基よりも古いと思われる。
この区間はカスリーン台風の洪水後に策定された利根川改修改訂計画に基づいて、
昭和24年以降に大規模な引堤(川幅拡大のために堤防位置の変更)が実施されている。
路傍に設置されていた標石は、この時に撤去されてしまった可能性が高い。
と考えれば、標石が設置された時期は昭和24年以前ということになる。
もっとも、路傍に設置された標石は目印がないので、発見するのが極めて困難なのが実情だが。
なお、本庄市から上里町にかけては基標No.67からNo.78が見つかっていない。

標石の設置が確認された神社は、村社などの比較的規模の大きなものが多い。
鳥居すら存在しない、祠のみのような小さな神社への設置例はない。
一方、総社、郷社や村の総鎮守などの格式が高く、かつ境内が非常に広い神社では、
確認数が少ない(設置されなかったということではなく、現存が確認されていないだけ)。
例外は和銅年間(710年頃)創設の延喜式内社であり、忍保領(おしぼ)の総社である、
池上神社(上里町)だ。正式名は今城青坂稲実 池上神社(いまきの あおさか いなのみ)であり、
確かに由緒ありそうな名前だ。ただし、池上神社の境内はそれほど広くはない。

(2)標石の形態と様式

標石は花崗岩製の角柱であり、頂部には水準点(半球体の突起)が設けられているが、
なぜか様式の異なる3種類のもの(本ページではタイプ1からタイプ3に区分)が存在する。
一時期に三種類の標石を地点を選別しながら設置したのではなく、年度を変えて
数度にわたって設けたのだろう。したがって設置の目的も異なると推測される。
これらは標石の様式が荒川の流域に残る几号付基標(昭和五年に内務省が設置)と
良く似ているので、設置年度は昭和初期であろうか。
なお、3タイプの中ではタイプ2の設置年が最も古いと思われるが、確かな証拠はない。
タイプ2は基標番号から類推すると、約4〜5Kmの間隔で設置されたようである。

不思議なのはどのタイプにも、標石に[埼玉縣]と刻字されていることだ。
これは設置地点を指しているとは思えないので、[埼玉縣]とは設置者を表していることになる(注2)
利根川の近代改修を担当したのは内務省(現在の国土交通省に相当)だが、筆者の知る限り、
埼玉県内の利根川流域には、内務省と記された水準基標は存在していない。
まさか、[埼玉縣]とは内務省が埼玉県内に設置したという意味ではないだろう。
一方、利根川対岸の群馬県でも、几号の付いた水準基標(埼玉県とは様式が異なる)が
数基現存し、[群馬縣]と刻字されている。茨城県にも利根川沿線に
[茨城縣]と刻字された古い様式の水準基標(几号なし)が現存する。

これらの標石は半永久的なものとして設置され、積極的に保存されているのではなく、
仮設的な標石として設置されたが、役目を終えた後も撤去されずに残っていると
考えた方が良さそうである。一度抜かれたが、再び設置しなおされたと思われる形態のものも多い。
つまり、現在は神社に残されていても、当初からそこに設置されたとは限らないということである。
路傍に設置されていたが、何らかの理由で撤去され、廃棄はされずに神社へ移築されたのだろう。
設置当時の標石の固定方法は、地中に埋め込んだだけの簡易的なもの(注3)だったようなので
容易に掘り起こせる。なお、標石保護石が設けられたものは、26基のうちで2基しか存在しない。
この2基の現況も設置当初からの原形態なのかは疑問である。

区分 概略寸法 刻字の様式 (/は二段に刻字されていることを示す) 確認数
タイプ1 15cm角、基本高30cm、35mmの半球体
基部(根入れ部)を含む全長は約127cm
四面(半時計回りに):不(几号)、B.M..(BM)、
    基標/No.??(横書)、埼玉縣(縦書)
22基
タイプ2 18cm角、基本高30cm、100mmの半球体 二面(表と裏):不(几号)/No??、埼玉縣(縦書) 3基
タイプ3 21cm角、基本高35cm、60mmの半球体 三面?:不(几号)/No??、埼玉縣(縦書)、?? 1基
補足:タイプ1には頂部の半球体が53mmと大きいものが存在し、北川辺町で3基、幸手市で1基が確認されている。
  またB.M..をBMと刻字したものが、上里町、本庄市、北川辺町でそれぞれ1基ずつ、計3基存在する。
  ちなみに、B.M..とはBench
 Markの略であり、水準基標または水準点を示す測量用語。
  さらに、基標/No.ではなく、Y/No.としたものが1基だけ存在する。
  北川辺町麦倉の鷲神社にあるNo.2は、上記の3条件に合致した亜種である(笑)。

注1:几号水準点(きごう)とは、明治初期にお雇い英人の指導で実施された全国測量のさいに
  建てられたのが起源。几号(基標No.58の写真に見られるような不のマーク)が付けられた水準点である。

  ただし、不は漢字ではなく、測量機器(レベルと三脚だろうか)を表した図柄。
  正確な国内地図作成のための測量用に設置されたものだが、不思議なことに昭和初期の
  河川計画でも、几号の付けられた水準点(補助標石?)が設けられている。
  これは利根川水系だけでなく、荒川水系でも同様である(荒川のものは昭和五年、内務省と刻字されている)。


注2:埼玉県内の河川の周辺には、埼玉縣と記された古い標石が、几号基標以外にも数多く存在している。
  例えば、埼玉県が大正時代末期から昭和初期にかけて実施した、13河川の改修事業のさいには
  
工事起点を示す標石が設置されている。同時期には内務省によって中川の改修が実施されたが、
  中川(権現堂川、庄内古川)の沿線には、内務省設置の基標と共に
埼玉縣設置の水準点と三角点も現存する。
  また、耕地整理事業に関連して設置された
水準基標(BMの刻字あり)も見られる。

注3:基標No.48の形状から推測すると、標石の固定方法は両タイプとも基礎(コンクリート)を
  使わない、単なる埋め込み式のようだ。地中にコンクリート基礎が存在しない替りに、
  根入れ長(埋め込み部分の長さ)は約1mと大きい。埋め込み部は一辺が約16cmと
  地上部に比べると若干太くなっている。こぶ出し加工がなされているのは、
  表面積を大きくして土との摩擦力を高めるためであろう。
  これは石造物を土に埋めて固定する場合の古典的な形式である。
  起源を遡ればおそらく、有史以前になるのではないか。
  江戸時代中期頃の
石橋供養塔でも、この方式のものが存在する。

(3)標石の設置目的に関する考察

仮に、これらの標石の設置者が埼玉県だとして、何のためにこれほど大量に設置したのであろうか。
北川辺町では合の川と渡良瀬川、幸手市では中川、上里町では烏川に沿って設置されていることから、
県域の境界標とも考えられる。しかし、境界標ならば刻字もそうあるべきで、わざわざ水準点の様式を
持った標石を設置する必然性はない。不思議なことにNo.3の基標は重複していて、北川辺町と
幸手市にそれぞれ1基が存在している。

特異なのは本庄市と深谷市の設置地点で、これらは県境である利根川の右岸からは遠く離れていて、
しかも設置間隔は密である。河川や道路の改修とは全然関係がなく、単に神社やお堂の
悉皆調査のために、設置したのではないかとさえ思えてくる(笑)。
土木工事と関係がないなら、利根川流域の水準測量のための基標として設置されたと
考えるのが自然だろう。利根川改修後の河床高の変動および利根川から取水している、
農業用水路の敷高・水位の経年変化を計測するための基準点である。
また、利根川へ大規模な連続堤防を築くことによる影響、例えば周辺地域での地盤変動(局部的な膨れや
地盤沈下)、利根川の平水位が変化することによる地下水位の変動などを観測したかったのかもしれない。

そう考えると、本庄市と深谷市の設置地点の特異性は、備前渠用水路の存在のためだと推測できる。
備前渠用水路は烏川(上里町)から取水し、備前渠川(本庄市)、小山川(深谷市)と繋がっている。
以上のことと関連があるのかは不明だが、群馬県にも埼玉県や栃木県との県境、
谷田川の流域に古い様式の水準基標(几号はないが連番)が残っている。→ 谷田川流域の基標
ともあれ、設置者、設置箇所、設置年、設置目的の全てが不明であり、謎は深まるばかりだ。

(4)標石の所在地一覧

ページ 基標 No 所在地 地点 タイプ 河川 備考
その1 No.79 児玉郡上里町忍保 池上神社 烏川  
No.66 本庄市小和瀬 薬師堂 備前渠川 損傷が酷い
No.65  〃 稲荷神社  
No.63 深谷市町田 八幡神社 小山川 保護石あり
No.61 深谷市南阿賀野 葦原大神社  
No.58 深谷市上手計 二柱神社  
その2 No.11 深谷市江原 地蔵堂 江原堤(論所堤)
No.48  〃 聖天堂 掘り出されている
No.44 大里郡妻沼町出来島 雷電神社 利根川  
No.39 大里郡妻沼町八ッ口 伊勢神宮  
No.36 大里郡妻沼町弁財 厳島神社 倒伏
No.35 大里郡妻沼町葛和田 神明宮  
その3 No.33 行田市北河原 十二所神社 福川  
No.29 行田市須加 雷電社 利根川  
No.7 羽生市上新郷 白山神社  
No.6 羽生市稲子 諏訪神社  
No.21 羽生市上村君 惣徳院  
No.17 羽生市常木 常木神社 埋没
No.13 北埼玉郡大利根町砂原 鷲神社  
その4 No.11 北埼玉郡大利根町佐波 鷲神社 社殿
No.8 北埼玉郡北川辺町麦倉 八坂神社  
No.6 北埼玉郡北川辺町駒場 鷲神社 旧川 掘り出されている
No.3 北埼玉郡北川辺町柏戸 日枝神社 渡良瀬川 半球体が大
No.2 北埼玉郡北川辺町麦倉 鷲神社 合の川 [基標]ではなくY
No.3 幸手市上宇和田 稲荷神社 中川 半球体が大
No.1 三郷市岩野木 富足神社 江戸川  




 几号水準点
↑几号の水準点 (タイプ1:基標 No.79)
 埼玉県上里町忍保(おしぼ)、池上神社
 池上神社は
坂東大橋(利根川)から
 3.5Km東に位置する。ここは利根川では
 なく、烏川(からす)の右岸である。
 右岸堤防から南へ200m離れた地点だ。
 標石は社殿の前、社務所の入口付近に
 設置されている。花崗岩製で15cm角、
 地上高は16cm。頂部の水準点は損傷が
 酷く、直径25mm、高さは5mm。
 東北西南の面にそれぞれ、不(几号)、
 BM(B.M.ではない)、基標
 No.79、埼玉。
 池上神社には安政三年(1856)建立の
 
芭蕉の句碑も祀られている。

   
几号水準点
  ↑几号の水準点 (タイプ1:基標 No.66)
   埼玉県本庄市小和瀬(こわぜ)、薬師堂
   小和瀬176付近。県道258号中瀬牧西線の
   小和瀬交差点から北西へ400mの薬師堂、
   堂裏の石仏群との間に設置されている。
   花崗岩製で15cm角、地上高は21cm。
   全体的に損傷が酷く、頂部の半球体
   (水準点)は欠損している。しかし、
   刻字面は無事なので文字は読み取れる。
   東北西南の面にそれぞれ、不(几号)、
   B.M.、基標
 No.66、埼玉縣。
  →
この付近の利根川

   
几号水準点
  ↑几号の水準点 (タイプ1:基標 No.65)
   埼玉県本庄市小和瀬、稲荷神社
   基標No.66から南東へ400m、小和瀬交差点の
   付近にある稲荷神社の境内。神社は
   稲荷橋(備前渠川)の右岸橋詰に位置する。
   ここは利根川の右岸堤防から南へ900m
   離れた地点だ。敷地内にはなぜか、大杉大明神の
   石祠もある(主に舟運関係者が信仰した)。
   この標石は花崗岩製で15cm角、
   地上高は23cm。頂部の半球体はかなり
   磨耗しているようで、直径24mm、高さ3mm。
   東北西南の面にそれぞれ、不(几号)、
   B.M.、基標
 No.65、埼玉縣。
  →
この付近の備前渠川

 几号水準点
↑几号の水準点 (タイプ1:基標 No.63)
 埼玉県深谷市町田、八幡神社
 町田地区は本庄市滝瀬と岡部町岡との
 境界に位置する。地区の南端では小山川
 に備前渠川(
備前渠用水の導水路)が
 合流している。この標石は県道45号
 本庄妻沼線の北側に位置する、
 八幡神社の境内、社殿の裏側にある。
 花崗岩で15.5cm角、地上高は10cm。
 頂部には直径34mm、高さ14mmの
 半球体(水準点)が施されている。
 南東北西の面にそれぞれ、不(几号)、
 BM(B.M.ではない)、基標
 No.63、
 埼玉縣。40cm四方に保護石あり。
 →
この付近の利根川
 →
この付近の小山川

   几号水準点
  ↑几号の水準点 (タイプ1:基標
 No.61)
   埼玉県深谷市南阿賀野、葦原大神社
   基標No.63から北東へ500mの地点に
   設置されている。大福寺に隣接した、
   葦原大神社の社殿の前、西側にある。
   花崗岩製で15cm角、地上高は28cm。
   頂部には直径36mm、高さ16mmの
   半球体(水準点)が施されている。
   南東北西の面にそれぞれ、不(几号)、
   B.M.、基標
 No.61、埼玉縣。
   なお、葦原大神社から南東へ100mには
   諏訪神社(血洗島地区の鎮守社)が
   位置するが、その拝殿は地元出身の
   実業家、
渋沢栄一が大正5年(1916)に
   寄進造営したものだそうだ。

   
几号水準点
  ↑几号の水準点 (タイプ1:基標 No.58)
   埼玉県深谷市上手計(かみてばか)、二柱神社
   基標No.61から東へ600mの地点に
   設置されている。二柱神社の境内、
   参道の脇に残っている。不思議なことに、
   No.63、61、58の設置地点は利根川の
   右岸堤防からは、2Kmも離れている(補足)。
   もっとも700m南には小山川が流れて
   いるので、設置理由は利根川だけでなく
   小山川の河川改修も含むのだろうか。
   花崗岩製で15cm角、地上高は48cm
   (基部の露出部18cmを含む)。
   頂部には直径33mm、高さ13mmの
   半球体(水準点)が施されている。
   南東北西の面にそれぞれ、不(几号)、
   B.M.、基標
 No.58、埼玉縣。


 水準点 埼玉県本庄市久々宇
 水準点 埼玉県本庄市久々宇(くぐう)
 仁手小学校から北へ150m、備前渠川の
 右岸堤防の裾に設置されている。
 利根川の右岸堤防まで200m、備前渠川の
 利根川からの取水点まで300mの地点だ。
 安山岩製で15cm角、地上高は41cm。
 刻字は3面で、北面に第一区土木監督署
 東面にBM、南面に49/0。
 明治19年(1886)から同38年の間に
 内務省によって、設置されたものだろう。
BM 51/0が群馬県玉村町五料に現存する。

   境界標 埼玉県本庄市久々宇
   境界標 埼玉県本庄市久々宇
   ←の水準点から5m西に設置されている。
   15cm角、地上高は33cm。
   頂部が破損している。
   刻字は一面のみ。
   埼玉県と群馬県の県境の基準を
   定めるための境界標だろうか。
   本庄市の市域は利根川で分断されていて、
   
本庄市上仁手の集落は利根川の
   北側に位置する。

   
小三角点 埼玉県深谷市横瀬
   小三角点 埼玉県深谷市横瀬
   横瀬神社の西側の交差点から
   県道259号線を北へ600m進むと、
   畑の中に標石が倒れている。
   この小三角点は15cmの角柱で高さは35cm。
   残念なことに根本から折れている。
   頂部には三角点を示す、十字の切り込みが
   ある。刻字は3面で埼玉縣、小三角點、B六。
   使われている石材は花崗岩系ではなく、
   安山岩系である。なお、この地点から北へ200m
   進むと利根川の南側だが、群馬県との県境となる。

(補足)昭和初期に利根川の近代改修が完了するまでは、利根川の
 旧右岸堤防(に相当するもの)は旧大里郡八基村の北縁に位置していた。
 これは八基村の村囲い堤であり、現在の中瀬と下手計の境界から始まり、
 横瀬と北阿賀野の境界付近まで続いていた。
 つまり、現在の利根川右岸堤防よりも約600m南側に堤防が存在していて、
 中瀬と横瀬は利根川の堤外地であった。旧堤防は新堤防が築かれた後も、
 しばらくは残っていたが、昭和7年(1932)に行なわれた耕地整理事業のさいに、
 完全に撤去された。深谷市下手計にはこれを記念して建てられた
利根川旧堤跡之碑
 残っている。また、付近には
八基村の道路元標も残っている。


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