倉松川 (その3) (その1)(その2)(その4)  [倉松川のページ一覧

 
撮影地:埼玉県北葛飾郡杉戸町、春日部市

 堤根橋の付近
(1)堤根橋の付近(上流から) 杉戸町本郷
 堤根橋は県道319号線(路線は概ね、かつての関宿道に
 相当する)の道路橋。杉戸町堤根と本郷の境界に架かる。
 左岸側の小字は町張(ちょうはり)という。これは
 丁張り(土木工事のさいの基準として設置される目印)に
 由来するのだろうか。倉松落の開削や周辺の干拓工事を
 連想させる小字である。堤根橋から下流の倉松川は
 昭和8年から昭和15年(1940)にかけて、新たに
 開削された水路。これにより、排水先が古利根川から
 中川へと変更された。堤根橋の下流右岸には、倉松川の
 改修記念碑(昭和18年建立)と倉松川の旧流路がある。
 なお、新流路の開削当時、この付近は北葛飾郡
 堤郷村だった。ここから1.4Km北西には大正時代に
 設置された
堤郷村の道路元標が今も残っている。

   不動院野水管橋の付近
  (2)不動院野水管橋の付近(上流から) 春日部市不動院野
   写真(1)から800m下流。久太郎橋の下流に架かっているのが、
   不動院野水管橋(逆三角形ワーレントラス形式)。埼玉県の
   中川水系農業水利事業所が管理する施設なので、この水管橋に
   よって、倉松川の上を運ばれているのは上水ではなく、
   農業用水である。倉松川には
水管橋が非常に多い
   不動院野地区には、次郎右衛門、久太郎、茂兵衛、掃部(かもん)、
   修理(しゅうり)など、ちょっと変わった字名が分布している。
   不動院野は幸手領用水(葛西用水)の開削に伴う新田村なので、
   これらの小字は開拓者(あるいは入植者)の名前が冠されたの
   だろう(注)。村内を幸手領の2つの悪水路(倉松落と
安戸落)が
   南北に横断し、村域の東側に香取神社が多く分布するが、
   村社は下谷神社(天神社)だった。下谷神社には境内社として
   大杉神社も祀られている。

 向島排水路と中郷用水の流末が合流
(3)向島排水路と中郷用水の流末が合流 (右岸から)
 春日部市八丁目 写真(2)から200m下流。
 粛正橋(県道320号線)の上流付近。右岸に向島排水路、
 左岸に
中郷用水(葛西用水の支線)の流末が合流する。
 なお、県道320号線は、ここから1.4Km南西で旧倉松川を
 横断するが、その付近に架かっている、
めがね橋
 明治24年(1891)に建設されたもので、煉瓦造りである。
 現在は道路橋だが、本来は洪水が古利根川から
 旧倉松川へ流入するのを阻止するための水門だった。

   
首都圏外郭放水路の第3立坑
  (4)首都圏外郭放水路の第3立坑 (上流から) 春日部市樋篭(ひろう)
   写真(3)から700m下流。国道16号線の春日部野田バイパスの
   北側に位置するのが、国土交通省
 首都圏外郭放水路の第3立坑。
   洪水で倉松川が増水した時、洪水流は倉松川の左岸堤防に
   設けられた越流堤(幅は約50m)から立坑(縦に掘られた入口)を
   経由して、地下トンネルへと導水される。倉松川の洪水は地下50mに
   ある延長約3Kmの地下トンネル(直径10m)の中を流れ、最終的には
   庄和排水機場から江戸川へ排水される。首都圏外郭放水路には
   中川や
古利根川(第5立坑)の洪水も導水される。

 今も残る古い橋梁群
(5)今も残る古い橋梁群 (上流から) 春日部市樋篭
 写真(4)から200m下流。国道16号線バイパスの下流から
 倉松川の終点までの約1Kmの区間には、写真のような
 
古いコンクリート橋が5基も残っている。これらはおそらく、
 新流路の開削のさいに建設されたものだろう。
 ただしどれも幅員が狭いので、現在は歩行者専用橋で
 あり、地域の生活道路として利用されている。 

   
倉松川の終点
  (6)倉松川の終点 (上流から) 春日部市牛島
   写真(5)から1Km下流。倉松川は中川の右岸へ合流して終了する。
   合流地点に設置されているのが倉松川水門(平成14年竣工)。
   鋼製ローラーゲート(幅9.5m)を2門装備した巨大な施設だ。
   倉松川水門の脇には[準用河川
 倉松川終点]と記された、
   花崗岩製の標石がある。なお、祠もあり、寛保三年(1743)建立の
   
車地蔵と文政六年(1823)建立の庚申塔が祀られている。

(注)武蔵国郡村誌の葛飾郡不動院野村(14巻、p.311)によれば、
 不動院野村は田宮庄幸手領に属し、元和二年(1616)の開発である。
 村名は隣村である小渕村の不動院(寺社)の寺領だったことに由来するという。
 また、字地はそこを開墾した者の名前が付けられたとあり、
 嘉右衛門、長右衛門、善兵衛、茂兵衛、四郎右衛門などの記述が見られる。
 幸手領用水(葛西用水)の開削は万治三年(1660)なので、
 不動院野村はそれ以前に成立していたことになるが、幸手領用水が
 整備されたことに伴い、用水量が安定して、以降は村高が
 増加したのだと想像できる。
 しかし近年まで湛水被害は大きかったようで、前掲書によれば、
 明治9年(1876)の時点で、本籍81戸に対して水害予備船の所有数が
 46艘と多い。一方、耕作船(農作業に使う船)の所有数は6艘である。


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