武蔵水路 (むさしすいろ) 〜 首都圏800万人の都市用水

 延長 14.5km (始点)利根大堰  行田市  吹上町  鴻巣市  (終点)荒川
 薄型コンクリートライニング水路(天端幅 16.7m、水路底幅 8m、深さ 2.9m)、
 計画水深 2.5m、最大送水量 50.0m3/s、平均流速 約1.7m/s

 武蔵水路は利根川から荒川への連絡水路である。武蔵用水と呼ばれる埼玉県・東京都の
 都市用水、新河岸川・隅田川の浄化用水(暫定水利権)を運んでいる。
 水質が汚濁した河川を浄化するために、他の河川から浄化用水を導水したのは、武蔵水路が
 日本で最初であり、現在の流況調整河川(国交省の造語)のはしりとも言える。
 もっとも隅田川浄化の動機は、河川環境を本来の姿へ戻すというエコロジーなものではなく、
 東京オリンピックの開催を控えての対外的な見栄であった。付言すれば、浄化用水の導水とは、
 河川の水量を増やして汚濁を希釈する見かけだけの対策であり、
 水質を生物・化学的に向上させる本質的な浄化ではない。

区分 送水量 荒川下流の施設 目的・機能 水利権者
武蔵
用水
 都市用水  30m3/s  秋ヶ瀬取水堰 
 (志木市)
 埼玉県:大久保浄水場へ送水
 東京都:朝霞浄水場、村山浄水場へ送水 
埼玉県企業局
東京都水道局
 浄化用水  20m3/s 朝霞水路
(志木市→朝霞市)
 新河岸川へ水を注水→隅田川も浄化  東京都建設局

 武蔵水路は農業用水路とは異なり、一年中休むことなく水を運んでいる。ただし大雨の時には、
 利根川からの送水は停止され、武蔵水路へは近隣市町村からの洪水が導水される(注1)
 つまり、武蔵水路は忍川や元荒川の放水路として機能している。→送水停止時の武蔵水路の様子
 武蔵水路で調整された洪水は、時間が経ってから荒川や元荒川へ放流される。
 武蔵水路には洪水の流入・排水施設はあるが、利水のための取水・分水施設は一切ない。
 なお、武蔵水路は地元では単に[導水路]と呼ばれることの方が多い。利根導水事業で
 建設された水路であること、普段は都市用水を導水していること、大雨の時には近隣の洪水が
 導水されることを考慮すると、確かに云いえて妙な俗称である。沿線の住民からすれば
 武蔵水路は地域を分断する[招からざる客]の印象が強いと思われるが、忍川や元荒川の
 放水路としての内水排除機能は、周辺地域を湛水から防いでいるという点で評価すべきである。
 武蔵水路は河川ではなく水路だが、利根川水系の一級河川に指定されても不思議ではない。

 利根川と荒川は本来は一つの河川だったが(注2)、治水や舟運等を目的として江戸時代以降、
 数100年をかけて切り離された。武蔵水路は利水を目的として、利根川と荒川を再び繋げ直したものである。
 利根導水事業は高度経済成長の中、逼迫した東京都の水資源問題を解決する最後の切り札であった。
 武蔵水路の建設工事は昭和39年(1964)2月に起工し、昭和40年6月に竣工している。
 とてつもない突貫工事だった。設計者は小野久彦(水資源開発公団)、小野は利根大堰の設計者でもある。
 武蔵水路は昭和40年(1965)に完成したが、取水口である利根大堰が完成するのは昭和43年である。
 それまでの3年間は緊急取水と称して、見沼代用水から武蔵水路へ導水していた。

 武蔵水路の模式図 . 
 施 設:

  幹線水路

  堤外水路と注水口(荒川)  

  サイフォン(伏越)

  チェックゲート(水位調節堰)

  雨水の流入施設

  排水・放流施設


  橋梁

  用排水路の横断


  武蔵水路の四季


  サイフォン
 
 流入施設
 
 排水施設

(注1)上図を見れば明らかなように、武蔵水路周辺の地形は西側の標高が高く、
 東側が低くなっている。河川流域は星川、野通川、忍川、元荒川、荒川に跨る。
 河川はどれも西から東へ向かって流れている。
 唯一、
忍川が北から南へ流れて元荒川へ合流しているが、この区間の忍川は
 昭和初期に開削した人工水路である。このような地域を武蔵水路は南北に
 横断している。そのため、本来は西側から集まり、河川へと流れ込んでいた雨水が、
 武蔵水路の存在によって行き場を失ってしまうという弊害も発生した。
 武蔵水路の建設当初は水路の西側の地区では、住宅や農地の湛水被害が
 頻発したそうである。県道306号線(武蔵水路の管路道路)が堤防と同等になってしまい、
 雨水の自然流下を阻害したからである。余談だが、このような現象は今から約400年前にも
 発生している。天正18年(1590)、石田三成は成田氏の居城である忍城を水攻めにした。
 その時に築いた堤防が
石田堤であり、荒川(当時は元荒川)や利根川から水を導水し、
 石田堤によって水をせきとめて、忍の城下を水浸しにしようとしたのである。
 石田堤は総延長が14Km(28Kmとする説もあり)もあったので、武蔵水路の総延長と
 ほぼ同じである。石田堤の跡は武蔵水路の西側に今も残っている。
 また、西側の地区では武蔵水路が建設されてから、井戸水が涸れる所も多かったようだ。
 これは武蔵水路が巨大な集水暗渠と化して、地下水を低下させたことが原因のようだ。

(注2)荒川が利根川の支川だった形跡は現在も残っている。
 元荒川(昔の荒川)や綾瀬川(昔の荒川の本流)は、
中川(昔の利根川)へ合流している。→元荒川の終点
 そして中川は東京湾へと注いでいる。中川の下流部(埼玉県内)は古利根川と
 呼ばれていた時代もあった。埼玉県の南東部の区間、元荒川が合流する付近の中川は
 昭和初期まで古利根川だった。古利根川は中川の河川改修によって流路が付け替えられて、
 中川へ合流する形態へ改められた。それに伴い、古利根川という名称は
大落古利根川へと変えられた。

参考文献:武蔵水路工事誌、水資源開発公団利根導水路建設局編、1968
       水のはなしIII、高橋裕 編(15.見沼代用水と武蔵水路)、技報堂出版、1982


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