古レールのアーチ橋の周辺 〜 石田堤とラーメン橋台橋

 撮影地:忍川、埼玉県行田市樋上(ひのうえ)、堤根(つつみね)

 (注)本ページの画像は、Nikon COOLPIX 995 (334万画素)で撮影しました。

 青柳橋 ←青柳橋(忍川の上流右岸から)   青柳橋の詳細
 左岸:行田市堤根、右岸:行田市樋上
 
樋上2号橋の200m下流、堤根1号橋の150m上流に位置する。
 昭和8年?建設、コンクリート桁橋、長さ17m(歩測)、幅5.1m
 ラーメン橋台橋(斜橋)

 3径間に見えるが、両脇のアーチは橋台の一部である。
 中央の径間の桁側面には、持ち送りが設けられている。
 橋脚はアーチ状の開口部(水抜き)を持つラーメン形式。
 親柱と中柱には幾何学模様の装飾が施されている。

 上部の道路は、県道148号線(騎西街道)。
 青柳橋の400m東(写真の奥)には、
武蔵水路が流れる。
 昭和8年当時、この付近は北埼玉郡下忍村であり、青柳橋の
 右岸側400mには下忍村役場が置かれていた(現.吹上町下忍〜
 行田市樋上、下忍農協の付近)。
下忍村の道路元標もその地点にあった。

 
石田堤と日光裏街道
↑石田堤と日光裏街道 (堀切橋の上流付近、行田市堤根)
 石田堤は天正18年(1590)、石田三成が
忍城を水攻めに
 した時に築いた堤防として広く知られている。
 かつては総延長が14Kmもあったそうだが、現在では
 行田市堤根から吹上町袋にかけての約400mが
 残るのみである。行田市側は堤裾に盛土をして市道が
 設けられているので、石田堤の全貌は確認しにくいが、
 吹上町側は石田堤の旧態がはっきりと残っていて、比高が
 3m以上あるのがわかる。写真の奥で石田堤を分断して
 流れるのが新忍川。昭和初期の
元荒川支派川改修事業
 開削された河川だ。新忍川を挟んで吹上町袋の側には、
 石田堤史跡公園、行田市堤根の側には日光裏街道の
 松並木がある。日光裏街道(館林道)はここから2.5Km南で
 旧中山道の箕田追分から分かれ、行田市桜町付近で
 日光脇往還(八王子千人同心道)に合流していた。  

   
石田堤の碑
  ↑石田堤の碑 (行田市堤根)
   慶応2年(1866)建立、碑文は寺門静軒(注)
   天正十八年
 豊公東征 遣石田三成 攻忍城、などと
   記されている。豊臣秀吉の小田原征伐(関東の平定)で、
   北条氏に味方していた成田氏の拠城、忍城も攻撃された。
   この時、派遣されたのが石田三成である。石田三成は
   周辺の村々から人夫を集め、わずか1週間で石田堤を築き、
   利根川(
現.星川)と荒川(現.元荒川)の水を引き込んで、
   忍城を水攻めにしたと伝えられている。しかし、忍の城下よりも
   堤根地区の付近に水が集中してしまい、結局、石田堤が
   決壊してしまったので、水攻めは失敗に終わった。
   石田堤は石田三成が築堤する前から原形が存在し、
   元々は村囲堤であり、利根川や荒川が形成した自然堤防の
   上に土を盛って築いた小堤だった。水攻めのさいの工事は、
   その上に周辺の古墳を崩して得た土を、わずかに盛っただけの
   安普請だったようである(地元では石田堤のことを一夜堤とも
   呼んでいる)。また築堤人夫の中に成田氏の密偵がいて
   手抜き工事をしたのが、堤防の決壊原因だったという説もある。
   p.s.秀吉は水攻めが好きだったようで、備中高松城(岡山市)の
   攻撃にも、この戦術を使っている。

 堀切橋

←堀切橋 (忍川の上流左岸から)  
堀切橋の詳細
 左岸:行田市堤根、右岸:吹上町袋(ふくろ)
 
堤根2号橋の300m下流、前屋敷橋の450m上流に位置する。
 昭和8年(1933)?建設、鋼桁橋、長さ19m(歩測)、幅5.2m
 青柳橋と同じく、新忍川の流路に対して橋軸が斜めに配置された斜橋。

 堀切橋は古くからある橋のようで、武蔵國郡村誌(明治9年調査)には、
 大悪水堀に架かる土橋と記述されている。現在の新忍川は全区間を
 新たに開削したのではなく、大悪水堀の流路を改修したのだろう。
 堀切橋という名前は、石田三成が忍城を水攻めにした時、
 この付近で石田堤が破堤したことに由来するようである。

 現橋は、昭和初期の元荒川支派川改修事業のさいに建設されたもの。
 青柳橋と同じく、ラーメン橋台橋であり、橋台の側面はアーチ状に
 デザインされているので、遠目には三連のアーチ橋のように見える。
 親柱には幾何学模様、欄干の開口部 にはアーチと三角形をあしらった
 意匠が施されている。アール・デコの影響を受けているのだろうか。

(注)寺門静軒は江戸時代末期の儒学者。寛政8年(1791)、江戸小石川生まれ。
 著作である[江戸繁昌記]が幕府からを風紀を惑わす悪書とみなされ、
 江戸払いとなった。各地を放浪する旅に出たのが、天保9年(1838)、
 静軒47歳の時であった。慶応3年(1867)には、静軒の弟子だった竹井澹如の
 招きに応じて、熊谷の石上寺に塾を開いている。竹井澹如は明治12年(1879)に
 初代の埼玉県議会議長を努めた人物であり、板垣退助、大隈重信、陸奥宗光などと
 親交が深かった。後に熊谷県が設置されたのは、竹井が陸奥にはかったからである。
 ちなみに、寺門静軒の弟子の一人であった松本万年の教えを受けたのが、
 
荻野吟子(1851-1913)。開業医試験(1885)による日本で最初の女医である。
 静軒の墓は大里町の冑山共同墓地にある。


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