荒川 〜 填長淵記、旧河道跡、日光脇往還の跡など
撮影地:
荒川左岸、埼玉県北足立郡吹上町(ふきあげ)大芦
↑填長淵記(大芦地区の氷川神社) |
明治22年(1889)11月建立。題字は埼玉県知事 吉田清英 当初、この碑は荒川の堤防上に設置されていた。荒川の近代改修に伴い、 昭和9年12月に堤防上から、この地へ移転した旨が碑に追刻されている。 長淵とはかつて、この地に存在した沼沢地。文政八年(1825)の 洪水では、荒川の堤防が明用村で80間(約144m)に渡って 決壊した。その時の落ち堀(決壊地跡に形成された沼)が、 年を経る毎に次第に大きくなり、明治15年(1882)頃には 荒川の堤防付近に沿って、久下、大芦から三町免地区にまで 及ぶようになっていた。総延長が1365間(約2457m)、 幅は広い所が22間(約39.6m)もあったという。 この状態のまま放っておくと、堤防が決壊しやすくなるだけでなく、 一旦決壊したら大惨事になることを憂慮した地元民は、埼玉県に長淵の 埋め立て工事を申請した。工事は明治18年(1885)12月に起工し、 19年6月に竣工している。長淵の埋め立てと同時に1680間(約3024m)に 及ぶ堤防の修築工事も実施されている。工事担当者は埼玉県技手 馬場久悠 周辺地域(現在の熊谷市、吹上町、行田市、川里町、鴻巣市)の 村々からは、15,000人にも及ぶ人夫と寄付金が出されている(補足)。 碑の裏面には村々毎の寄付金額(40村)と人夫数(55村)が 記されているが、寄付金を出した村は40村全てが人夫も供出している。 寄付金額が多いのは、大芦村40円、小谷村20円、明用村10円、久下村9円、吹上村6円 人夫数が多いのは、箕田村891人、上之村725人、屈巣村647人、長野村639人、持田村636人 上之村と屈巣村は人夫のみで寄付金は出していない。 |
↑現在の荒川の左岸堤防(大芦橋の上流付近、下流から) 奥に見えるのが、大芦地区にあるスーパー堤防。 上には荒川パノラマ公園が建つ。 明治9年の調査を基に編纂された武蔵国郡村誌の足立郡 大芦村(3巻、p.244)には伊勢沼、砂原沼、菱沼の記述が ある。どれも規模が小さく、最も大きい伊勢沼でも周囲長は 116間(209m)だが、これらの沼が次第に繋がっていった。 |
↑現在の荒川の左岸堤防(大芦橋の下流付近、上流から) 奥に見えるのが、明用地区にあるスーパー堤防。 上にはコスモスアリーナふきあげ(町民体育館)が建つ。 武蔵国郡村誌の足立郡明用村(3巻、p.240)には、 池(周囲長135間)と沼(周囲長800間)の記述がある。 沼は周囲長が1440mなのでかなり規模が大きい。 ”村の西方大芦村より来り南方三丁免村に入る”と記されている。 |
↑日光脇往還の跡地 荒川の左岸堤防から北東へ700mの地点。 日光脇往還は八王子千人同心道とも呼ばれた。 荒川の渡河地点には橋はなく、大芦の渡し(渡船)だった。 現在の道幅は約4m。鳥居の奥には祠があり、道六神と 日枝神社が祀られている。道六神とは道祖神のこと。 道中の安全を祈願する反面、村へ悪疫や災いが 入り込むのを防ぐ結界でもある。日枝神社の脇には 文化十一年(1814)の庚申塔(裏面に塞神)があるが、 これは道標を兼ねていて、右 松山道、左 五反田かしと 記されている。五反田とは小谷村にあった河岸場。 |
↑荒川の旧河道跡(下流から) 大芦橋の上から撮影。寛永6年(1629)の荒川の瀬替えの さいの新流路が偲ばれる貴重な遺構である。この旧河道が 吹上町と大里町(つまり北足立郡と大里郡)との境界となっている。 普段は水が無いので、その形跡ははっきりしないが、 大雨の後には写真のように水が溜まり、旧河道の跡が 明瞭となる。荒川の旧河道は大芦橋の上流250mの地点で、 現在の流路から西へ向かって蛇行を始め、大芦橋の 下流付近で元に戻っていた。蛇行区間の延長は約700m。 蛇行の終了地点には、かつて大芦河岸があった。 現在は旧河道のすぐ西側を和田吉野川が流れている。 |
(補足)碑文によれば、総工費19,800円の内1,500円を地元が負担している。
人夫は延べ85,000人を要したが、その内の15,000人は地元町村の供出である。
工事の期間は約6ヶ月だったので単純計算すると、平均して毎日470人が
荒川の周辺で土木作業に従事していたことになる。壮観な光景だったことだろう。
なお、明治41年(1908)に大里郡長から県知事に対して、
荒川北縁水害予防組合の設立認可願が提出されているが、
組合を構成する町村は、長淵の埋め立て工事に寄付金および人夫を
出した町村とほぼ同じである。同年11月24日には組合の設立が
認可されている(埼玉県行政文書 明2240)。
ちなみに荒川北縁水害予防組合の構成村は、成田堰用水(荒川の
六堰頭首工から取水)の普請組合とほぼ同じである点が興味深い。
填長淵記には個人の寄付金額も記されていて、発起人22名の筆頭に名を
連ねる秋池政三郎が15円で最も多い。秋池は吹上村の初代村長であり、
明治22年から32年まで努めている。寄付金者の中には湯本義憲(埼玉村)、
長島其吉(小谷村)、代田仙三郎(榎戸村)の名も見られる。
湯本義憲は当時は県会議員であり、後に国会議員を経て、明治30年には
岐阜県知事に就任している。治水関連に長けた人物であり、治水翁とも称された。
前玉神社(行田市埼玉)には湯本治水翁頌徳碑が建てられている。
長島其吉は小谷村の初代村長であり、明治22年から32年まで努めている。
吹上町小谷の荒川左岸堤防上に祀られた九頭龍大神(明治25年建立)にも
その名が記されている。
代田仙三郎は吹上村の第2代村長、明治32年から38年まで努めている。
就任中に榎戸堰(元荒川)を木造から煉瓦造りへ改良する工事を実施した。
(余談)大芦の氷川神社には填長淵記以外にも、近代史を彩る興味深い史料が多々ある。
まず、日露戦争の表忠碑と戦利兵器奉納ノ記。表忠碑の上には戦利品と思われる砲弾が
飾られている。富士登山参拝記念碑の側面には、大正十二年九月一日大地震、
八幡型石基鳥居大修繕費と刻まれている。これは関東大震災に関するもの。
震災記念碑は昭和6年9月21日に発生した西埼玉地震に関するもの。
碑には倒壊した鳥居の一部が使われている。