荒川 - 荒井橋の周辺 [荒川のページ一覧]
撮影地: 埼玉県北本市、荒川の河川敷
(注)本ページの画像は、CAMEDIA C-2000Z(211万画素)で撮影しました。
↑荒井橋(右岸から) 北本市荒井四丁目〜吉見町江和井 高尾橋から1Km下流に位置する。北本市と吉見町を 結ぶ県道33号線の道路橋(長さ650m、11スパン)。 現橋は昭和50年(1975)竣工、その前の橋は木製桁の 冠水橋だったが、昭和40年の台風17号で流出して しまった(注)。なお、右岸下流の堤防裾には、 享和二年(1802)建立の水神宮や供養塔などの石仏群、 荒井橋から1.6Km下流の荒川の右岸河川敷内には 土橋供養塔が2基祀られている。 |
↑荒井橋記念碑 北本市高尾九丁目 昭和15年建立。荒井橋の左岸上流の河川敷に土地改良記念碑と 並んで設けられている。碑文には昭和13年の荒川の洪水によって、 橋が流出してしまい、石戸村長が私費を投じて新たな橋を架けたこと、 昭和14年にはこの路線が村道から県道に編入されることになり、 荒井橋は埼玉県へ移管したことなどが記されている。 流出した橋とは昭和8年に架けられた初代の荒井橋(木製の冠水橋)。 なお、荒井橋から1.2Km東の県道57号さいたま鴻巣線の脇には 北足立郡石戸村の道路元標(北本市歴史資料)が残っている。 |
↑城ヶ谷堤 北本市石戸宿 荒井橋から800m下流の左岸。城ヶ谷堤は荒川の水除堤 (田畑を水害から守る)として江戸時代初期に築かれた。 桜並木が整備されているので、通称は石戸宿の桜堤。 石戸宿の歴史は古く、鎌倉街道に沿って中世から 既に拓かれていたという。江戸時代には街道に沿って 宿場の形態が形成され、定期的に市が開かれていた そうだ。城ヶ谷堤の北端(石戸宿八丁目、薬師堂脇)には、 寛政十年(1798)建立の水神宮があり、願主 横田市場 村中と記されている。また城ヶ谷堤には徳川家康が 鷹狩のさいに休憩するための茶屋も設けられていた。 |
↑北本自然観察公園 石戸宿七丁目 城ヶ谷堤の東側に広がる周囲長が約2.5Kmの公園。 範囲は荒井五丁目から石戸宿七丁目に及ぶ。 園内には高尾ふるさとの森、自然学習センターがあり、 貴重な動植物を守るための保護区域も設けられている。 自然環境の保護・保全と自然観察が両立されているようだ。 また北本自然観察公園は史跡公園でもあり、戦国時代の 石戸城跡(岩付城の出城)と一夜堤跡(現在は遊歩道)が残る。 周囲にはクヌギとコナラで構成された雑木林が広範囲に 分布し、林の中には谷状の地形(窪地)と湧水が見られる。 ここから100m北の横田薬師堂の付近には湧水群がある。 |
↑石屋下沼 北本市石戸宿 城ヶ谷堤の西側には約800mに渡って、石屋下沼と 呼ばれる沼地(荒川の旧河道)がある。沼と城ヶ谷堤の 間には天神下公園があり、公園の一帯は北本市から 川島町にかけて、荒川ビオトープ(面積約50haは 全国最大規模)が計画されている。なお、石屋下沼へは 城ヶ谷堤に伏せ込まれた城ヶ谷樋管(1933年竣工)を 経由して荒井、石戸宿からの排水(雨水)が流れ込む。 県道57号さいたま鴻巣線がその分水界であり、 県道の西側の地区は直接、荒川へ、 東側の地区は江川を経由して荒川へ排水している。 |
↑榎堂と芭蕉の句碑 北本市石戸宿四丁目 桶川市川田谷との境界付近、県道57号さいたま鴻巣線の 三叉路脇にある(桜堤通り)。嘉永四年(1851)建立。 写真の右端の小さな碑が芭蕉の句碑で、芭蕉の句 「原中や 物にもつかず 啼雲雀」が記されている。 なお、左の祠(榎堂)の中には猿田彦大神と庚申塔が祀られている。 芭蕉の句碑は全国に約2500基あるというから、一都道府県当りの 平均存在数は約50基ということになる。一方、埼玉県内には 約100基が存在するそうだから、全国的に見て多い方である。 ちなみに芭蕉の句碑は荒川の流域では、上尾市領家の椿堂、 鴻巣市箕田の氷川神社、熊谷市鎌倉町の石上寺などにもある。 |
(注)荒井橋の前身は渡(渡船)であった。明治9年(1876)の調査を基に編纂された、
武蔵国郡村誌の足立郡荒井村(3巻、p.124)に、渡についての記述がある。
世戸井渡:”松山道に属す村の西方 荒川の中流にあり 渡船二艘 人渡馬渡”
世戸井の渡という名前であるが、荒井橋の付近にそのような小字があったのかは
未確認である。これは俗に云う、荒井の渡しであろう。馬渡とは馬が乗れるように
改造された大型の船による渡し。この当時、農作業や荷物の運搬に馬は欠かせなかった。
荒井橋の付近には荒井河岸もあり、武蔵国郡村誌の比企郡江和井村(荒井の対岸)には、
”荷船八艘”とあり、高瀬船(大型の帆船)の存在が記されている。
北本市荒井三丁目には、明和九年(1772)建立の地蔵が残っているが、
それは道標(道しるべ)を兼ねていて、行き先として(荒井河岸)が刻まれている。
ちなみに江和井という変わった村名は江戸時代に江川新田、大和屋新田、荒井新田の
3新田が合併して誕生したことに由来する。新編武蔵風土記稿によれば、
江川新田は大里郡江川村(現在の熊谷市久下)の民、大和屋新田は大和屋助左衛門と
いう町人、荒井新田は足立郡荒井村の民がそれぞれ開墾したのだという。
これら3新田は堤外地にあったのだが、その開発は意外に古く、
寛文年間(1661-1672)だとされている(埼玉県史通史編3、p.571)。
なお、荒井橋の下流1.5Km付近にも渡があったことが、武蔵国郡村誌の
足立郡石戸宿(3巻、p.79)に記されている。
渡:”松山道に属し村の西方 荒川の中流にあり 渡船二艘 馬渡私渡”
場所は現在の石戸宿六丁目付近だったと思われ、石戸河岸が渡しを兼ねていたようだ。