荒川 -
太郎右衛門橋の周辺 [荒川のページ一覧]
撮影地:左岸:埼玉県桶川市、右岸:比企郡川島町、荒川の河川敷
(注)本ページの画像は、CAMEDIA C-2000Z(211万画素)で撮影しました。
↑市野川の合流付近(右岸堤防から) 川島町東野 太郎右衛門橋から上流へ1.3Kmの地点。河川敷内では、 延長2Kmにも及ぶ瀬割堤(導流堤)を伴い、市野川が 荒川の右岸へ合流している(→市野川の合流地点)。 市野川は大里郡寄居町から流れて来る延長35Kmの 一級河川。川島町は四方を河川の堤防で囲まれて いるが(川島領囲堤)、市野川の右岸堤防は、かつては 川島領囲堤の一部であり、町の北から東の地区を 洪水の被害から守っていた。 荒川は近代以前の河川改修では、支川が合流した後の 下流側では両岸の堤防の間隔を狭めて、狭窄部を 設ける形態が、多く採用されていた。これは荒川の洪水の 流下を貯留させ、支川へ直接逆流するのを防ぐためだと 思われる。福川が利根川へ合流する地点でも荒川と 同じような堤防配置が採られ、福川の側は遊水池だった。 太郎右衛門橋の上流に設けられていた狭窄部は、 荒川の近代改修でも改められず、今も残っている。 この付近では荒川の流路も近世の頃のままである。 なお、川島町の荒川沿線には、寛文〜延宝年間に 造立された古い庚申塔(青面金剛)が数多く分布している。 |
↑荒川の右岸堤防(上流から) 川島町三保谷宿 太郎右衛門橋から上流へ1Km、氷川神社の付近。 荒川の右岸堤防は、かつては川島領囲堤の東側の砦だった。 堤防の中段に見えるのは水防倉庫。中にはいざという時に 備えて、土嚢などが格納されているのだろう。荒川の堤防天端は 砂利敷だが、中小段は舗装され、荒川サイクリングロードとして 整備されている。右岸側の河川敷には長さ約60mの小さな 横堤がある。川島町側の堤内は低地であり、一面に水田が 広がっている。谷と名の付いた地名が多いが、これは低湿地 だったことに由来するのだろう。しかし、東大塚、三保谷宿、 表にかけての右岸堤防沿いの微高地には古墳が点在している。 一方、対岸の地形は対照的で、桶川市川田谷の付近は荒川に 向かって突き出した舌状の台地であり、荒川の河床との比高差が 大きいので、堤防は設けられていない。雑木林の中には9基の 古墳(判別は困難だが)からなる原山古墳群がある。 築造は古墳時代後期の7世紀だそうだ。この付近には古代から 人々が居住し、川の道として舟運が展開されていたのだろう。 古墳群から北東の金比羅堂には、昭和五年 内務省と 記された几号付きの水準点(B.M.9)が残っている。 荒川の近代改修に関する貴重な史料である。 |
↑太郎右衛門橋(右岸上流から) 桶川市川田谷〜川島町東野 桶川市と川島町を 結ぶ県道12号線の橋、昭和46年(1971)竣工。 長さ900m(13スパン)で、右岸側の橋脚は横堤(緑色の 部分)の上に設けられている。これは荒川に架かる、 大きな橋の特徴でもある。旧橋は木製の冠水橋だったが、 その橋は昭和40年の台風17号によって流出してしまった。 なお、初代の太郎右衛門橋が架けられるまでは、この付近の 渡河は渡し(注)に頼っていた。太郎右衛門という古風な 名称は、渡し場の運営者の名前に由来するようだ。 川島町側の河川敷に祀られた延命地蔵は、江戸時代の 石橋供養(橋の竣工記念と安全祈願)が起源である。 |
↑柏原堤(左岸下流から) 桶川市川田谷 太郎右衛門橋の左岸下流から始まる長さ約200mの 不連続な堤防。江戸時代に水防重要箇所に築かれたものだ。 柏原堤は武蔵国郡村誌の足立郡川田谷村(3巻、p.119)に、 以下のように記されている。柏原堤:”荒川畑囲堤なり 村の西方にあり 長百十間 馬踏一間堤敷八間 修繕費用は 民に属す”、当時(郡村誌の編纂は明治9年)の柏原堤の 規模は長さ198m、堤防天端幅1.8m、堤防敷14.4mである。 現在の堤防は断面は拡大されているが、長さは昔と 比べそれほど変わっていない。柏原堤の南端には氷川神社が 鎮座するが、拝殿には八幡宮の額が飾られている。 この氷川神社には白山社、妙見社、第六天が合祀されている。 |
↑柏原樋管と荒川の河川敷(左岸から) 桶川市川田谷 柏原樋管はゲートや門柱が新設されているが、 樋管本体は昔のままのようで、昭和7年(1932)竣工の 銘板が付いている。荒川の中流部には、近代改修のさいに 建設された、このような古いRC樋管が意外に多く残っている。 左岸下流に見えるのは泉福寺の社叢。 スギとカシの樹林が[ふるさとの森]に指定されている。 泉福寺は荒川の段丘崖の上に鎮座する。平安時代の 開基という古刹である。山門の仁王像が印象的だ。 |
↑赤城樋管と排水路(右岸から) 川島町出丸下郷 太郎右衛門橋から1.6Km下流。右岸堤防上から。 赤城悪水路が赤城樋管を経由して、荒川へ排水している。 荒川の河川敷には旧流路跡の沼地に沿って、雑木林(河畔林)が 広範囲に分布していて、景観は良好だ。河川敷の農地は水田で、 用水はこの排水路や旧荒川(赤城貯水池)から揚水しているようだ。 なお、右岸堤防裾の赤城神社にも内務省の測量水準点(BM13)が 残っている。赤城神社は赤城山を祀っているので、 群馬県に多く分布するが、埼玉県では珍しい。 |
(注)明治9年(1876)の調査を基に編纂された、
武蔵国郡村誌の足立郡川田谷村の項(3巻、p.118)には、
太郎右衛門の渡について、以下のように記されている。
太郎右衛門渡:”川越道に属し村の西方 荒川の上流にあり 渡船二艘 人渡馬渡”
郡村誌には記述がないが、太郎右衛門の渡は官設の渡し場ではなく
私設であった。普通の船と馬を乗せられる大型船の二艘が装備されていた。
渡しは河岸場も兼ねた規模だったようである。太郎右衛門河岸は川田谷河岸とも呼ばれた。
北本市石戸二丁目には、延享元年(1744)建立の地蔵が残っているが、
それは道標(道しるべ)を兼ねていて、行き先として高尾河岸と共に
太郎右衛門舟戸が刻まれている。舟戸とは船渡であり、船による渡し場のこと。
江戸時代には、中山道の桶川宿一帯は、ベニバナ(紅花)の栽培が盛んで、
山形県の最上地方に次いで全国で2番目の生産量を誇っていたという。
紅花は太郎右衛門河岸などから江戸へ運ばれた。紅花が重要な物産品だったことは、
稲荷神社(桶川市寿二丁目)の石灯籠(桶川市指定文化財)からもうかがえる。
これは安政四年(1857)に地元の紅花商人たちが寄進したもので、
表面に”献灯 紅花商人中”とあり、16名の名前が刻まれている。
なお、足立郡川田谷村は明治22年(1889)に群制の変更によって、
北足立郡川田谷村となったが、昭和30年に桶川町と合併するまで、
長い間、独立した村であった。村域が広かったこともあり、明治期の人口は
桶川宿と比べても遜色がなかった。驚くべきことに、城山公園の付近には
川田谷村の村役場(廃屋)と昭和6年(1931)に設置された川田谷村の道路元標が
現在も残っている。ちなみに、城山公園は戦国時代にこの地にあった、
三ツ木城の城跡を公園として整備したもの。
ちなみに、太郎右衛門橋を挟んだ川田谷村の対岸は昭和29年まで、
比企郡八ッ保村だったが、八ッ保村の道路元標も現存している。