荒川 - 原馬室橋の周辺 [荒川のページ一覧]
撮影地: 埼玉県鴻巣市(こうのす)、荒川の河川敷
この付近から左岸側には大宮台地が迫ってくる。
↑御成橋から見た原馬室橋(上流から) この付近の荒川は昭和初期に開削した人工水路。 写真の左側が荒川の左岸。左岸は河岸段丘になっていて、 人工堤防はない。鴻巣市からさいたま市まで荒川左岸には、 旧中山道(JR高崎線の沿線)に沿って、関東ロームの 台地(大宮台地)が発達している。そして旧中山道がほぼ 利根川水系との分水界となっている。 荒川の右岸側には広大な高水敷が設けられているので、 御成橋を渡り終えても、右岸堤防までは1.5Kmもある! この1.5Kmは横堤で、堤防天端が県道27号線となっている。 県道には、かつて河岸場があったことを示す、御成河岸と いう名のバス停がある。バス停付近には旧荒川の河道跡が 残っていて、すぐそばの稲荷神社には旧御成橋の遺構が 保存されている。御成橋が建設されるまで、荒川には 橋はなく、対岸との往来は渡船(注)だった。 なお、御成橋右岸の横堤に沿った明秋、古名地区は 堤外地だが、集落があり現在も人が住んでいる。堤外地に 私有地が(農地だけでなく民家も)多いのも荒川の特徴だ。 |
↑冠水橋架設記念碑(昭和33年建立) 原馬室橋から東へ300mの地点、河川敷内にある。 写真左端の道路が原馬室橋につながっている。 原馬室と滝馬室地区は昭和29年まで、北足立郡馬室村だった。 馬室村は鴻巣市と合併して消滅してしまったが、ここから 200m東には、大正末期に設置された馬室村の道路元標が 今も残っている。馬室村の旧村域には古い火の見櫓が多く現存する。 冠水橋架設記念碑の碑文には、 総工費256万円(内.地元負担金70万円)をかけ、 昭和32年5月に延長56m、幅員3.6mの橋を竣工とある。 これは、旧・原馬室橋のことであろうか (現在の原馬室橋より幅員があるぞ)。 記念碑の隣の石碑は水神宮。近年のもので 裏側には、架橋竣成 昭和七年五月と刻まれている。 この架橋とは御成橋のことだろうか? 橋の竣工にさいして、通行の安全を祈願したのだろう。 この付近の荒川の河川敷内には、水神宮が非常に多く 分布している。近世ではなく、近代の造立というのが特徴である。 |
↑河川敷内の神明宮 原馬室橋から西へ900m、 旧荒川の左岸に祀られている。写真の奥に見えるのが 旧荒川の河畔林。神明宮は河岸の守護神として 寛保三年(1743)に創建された。河岸とは上流に あった御成河岸のことだろう。ここから400m南の 旧荒川の川畔には、明治26年(1893)建立の 水神宮が2基祀られているが、それらも河岸の守護と 洪水の鎮静を祈願したものだろう。神明宮の社殿は 洪水で頻繁に破壊されたようだが、神明宮の石祠は 現存している。社殿の脇にあるのは社殿の改築記念碑 明治45年(1912)1月に原馬室村の川端一同が建立した。 神明宮の来歴と社殿復興の寄付金者が記されている。 |
↑旧荒川に架かる橋(右岸上流から) 原馬室橋の周辺(低水路の西方1km)には、旧荒川の 蛇行跡が湖沼として、約3kmにわたり残っている。 旧荒川とは昭和初期におこなわれた荒川の河川改修に よって廃棄された荒川の旧流路。ということは江戸時代に 付替えられた旧・和田吉野川であろう。旧流路の周囲には、 見事な河畔林(ハンノキのようだ)が群生している。 写真の橋は、鴻巣市原馬室、吉見町蓮沼新田、北本市高尾の 境界付近に位置する。正確には旧荒川の左岸へ旧千間堀が 合流する地点に架かる。荒川の堤防内なので、この橋も 冠水橋(笑)である。写真上部の広大な高水敷は、旧流路の 乱流・蛇行跡を堤防で囲んだ結果で、洪水調節池として機能する。 横堤、河道を使った調節池と、荒川は個性のある川だ。 |
↑石田川の放流工(右岸から) 原馬室橋から下流へ100mの左岸では石田川が 荒川に合流している。石田川は鴻巣市原馬室、 松原地区からの都市下水路(雨水排水)。 大宮台地の侵食谷を流れている。 小さな水路の合流だが、荒川には大量の護床工が。 |
↑馬室埴輪窯跡(はにわ かまあと) 埼玉県指定史跡(昭和9年) 原馬室橋から900m下流の 左岸、段丘の縁にある。この付近は鴻巣市と北本市の 境界である。北本市側の荒川縁には北袋古墳群、 中井古墳群があるそうだ。馬室埴輪窯跡は 古墳時代後期(5世紀後半〜6世紀)のもの。 荒川の河岸段丘を利用した、のぼり窯の跡が、 10基以上確認されている。なお、ここから200m北側の 妙楽寺には水神宮(江戸時代建立)が祀られている。 |
(注)御成橋の路線はかつての御成川岸道であり、荒川を渡る地点は渡であった。
武蔵国郡村誌(明治9年(1876)の調査を基に編纂)の足立郡滝馬室村(3巻、p.137)には、
御成川岸の渡(御成の渡し)について、以下のように記述されている。
”村の西方 荒川の中流にあり 渡船二艘 官渡”
荒川にしては珍しく、私設の渡ではなく官設の渡であった。
ちなみに御成橋の名前は、徳川家康がこの地へ鷹狩に訪れたさいに、
荒川を渡るために設けられた船橋に由来するという。
それ以降、御成河岸は特別に扱われたのであろう。
ただし、明治9年の時点では河岸場の機能は、かなり縮小して、
ほとんど渡し場だけになっていたようである。
鴻巣市大間二丁目の久保寺には、享保九年(1724)建立の
地蔵(道標)が残っているが、それには道標(行き先)として
左/御なり者し(御成橋)道と刻まれている。