荒川大橋 (旧橋の遺構)
場所:荒川、埼玉県熊谷市村岡 形式:下路トラス橋(プラットトラス9連、長さ509m) 建設:大正14年(1925) 荒川大橋の略史 |
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明治42年(1909) | 木橋の架橋(長さ509m)、それまでは村岡の渡し(渡船)(注1) |
大正3年(1914) | 洪水で中央部が流出 |
大正6年(1917) | 中央部の2連のみ、プラットトラスで架け替え |
大正10年(1921) | 両脇の木橋部分が流出 |
大正14年(1925) | プラットトラス9連の完成(中央2連は旧橋のまま) 橋脚・橋台はコンクリート製(表面は煉瓦貼り) |
昭和29年(1954) | 荒川の改修に伴い、橋の長さを拡張(509mから830mへ)。 両脇はコンクリートの桁橋(ゲルバー桁) |
昭和38年(1963) | 中央部の2連トラスの架け替え、全体の嵩上げ |
昭和44年(1969) | 現在の荒川大橋(下り線)の竣工。正式名称は新荒川大橋 |
昭和55年(1980) | 現在の荒川大橋(上り線)の竣工、旧トラス橋の撤去 |
(注) 略史は[荒川大橋の変遷、神山喜義、1984、p.89]から作成 明治42年の最初の架橋のさい、新しい橋の名前を巡って左岸の熊谷町と 右岸の吉岡村(村岡村、万吉村などが合併)で紛争が勃発した。 熊谷町は熊谷大橋、吉岡村は村岡大橋を主張した。 それを仲裁するために、埼玉県が荒川大橋と命名したと伝えられている。 |
↑荒川大橋トラス広場 (北から) 荒川大橋の南橋詰には、旧荒川大橋のトラスの一部分が 残されている。写真右が国道407号線。 トラスの内側に欄干が見えるが、通路の部分は昔から この様な形態だったという。ただし、橋面は木製だった 期間が長く、昭和30年頃まで続いた(注2)。 両脇の橋灯は、竣工当時の形へ復刻したものだろう。 |
↑荒川大橋トラス広場 (西から) 荒川大橋の形式は、プラットトラスであったというが、 保存されている部分はわずかなので、これだけでは、 ワーレントラスと勘違いしてしまう。現在は再塗装されて 銀色になっているが、当初は何色だったかは不明。 荒川大橋の架橋当時から廃止までの間、この付近は 大里郡吉岡村だった。吉岡村の道路元標が今なお残っている。 |
↑橋門構の装飾 埼玉県内の荒川への架橋状況は、かなり遅れていた。 荒川大橋が竣工した大正14年当時、熊谷から下流に ある橋は、ほとんどが木橋(しかも冠水橋)であり、 コンクリート製や鋼製のいわゆる永久橋は皆無であった。 荒川大橋は荒川で初めての近代橋梁ということになる。 それでも、隅田川(東京都)では明治20年頃から鋼製の 橋梁が架けられていたので、やはり遅れている。 荒川大橋は当時、荒川髄一の近代橋梁であったので、 外見は豪華である。橋門構の頂部と隅部には、 アールヌーボー調の細かな装飾がふんだんに施されている。 |
↑部材の接合方式 部材の接合方式は、エンドポストと上弦材が、ダブルレーシング。 垂直材と斜材は、シングルレーシング。部材格点のカゼットは、 リベット結合。当時の一般的な構成方式である。使われている鋼材には、 (S) B.S 8×21/2 SEITETSUSHO YAWATA ヤワタ の刻印が 確認できる。八幡製鉄所(福岡県北九州市)が製造したもの。 B.SとはBritish Standardであり、英国規格の寸法を表している。 |
(注1)村岡の渡しは武蔵国郡村誌の大里郡村岡村(9巻、p.65)に以下のように記録されている。
”松山道に属す 村の北方十一町五十間 荒川の下流にあり 深船四艘 私渡”
船四艘の内訳は人渡二艘、馬渡二艘だった。荒川の渡しとしては最大規模である。
村岡の渡しで使われていた渡し船(木造船)は、大橋南交差点から1Km南西の
吉岡小学校に今も保存されている。また、吉岡小学校から500m北東の高雲寺には
[祝渡初 明治四十二年四月]と題された看板が残っている。
これは初代の荒川大橋(木造橋)の渡り初めのさいに使われたものだろう。
なお、松山道は古くは鎌倉道だったとの言い伝えがある。
荒川左岸の熊谷市鎌倉町の名前は鎌倉街道に由来する。
松山道は江戸時代には大山阿夫利神社(通称 石尊様、相模国の雨降りの神)へ
通ずる街道(石尊街道)として、人の往来が多かった。
荒川大橋右岸の熊谷市村岡の国道407号線の三叉路には、
寛政二年(1790)建立の石尊常夜灯が今も残っている。
(注2)朝日新聞埼玉県版、昭和33年(1958)6月20日の記事に
”危ないツギハギ大橋”と題して荒川大橋が紹介されている。
両端部は幅6.4mで橋面はコンクリート舗装だが、中央部の約100mの区間は
幅が4.2mへと狭くなり、しかも橋面は板張りだったとある。