荒川 - 熊谷大橋〜荒川大橋の付近  [荒川のページ一覧

 撮影地:埼玉県熊谷市、大里郡江南町、大里町

 大麻生陸閘
(1)大麻生陸閘(おおあそう
 りくこう) 熊谷市大麻生
 荒川の左岸堤防に設けられている。写真奥に
秩父鉄道
 車輌基地がある。大麻生陸閘は荒川に現存する唯一の
 陸閘であり、竣工は昭和29年12月(堤防上に竣工記念碑が
 現存する)。同時期に建設された貝殻陸閘(上尾市)は
 現存しない。高度経済成長期には、この付近の荒川
 河川敷では砂利の採掘が盛んに行なわれていた。
 陸閘とは河川敷の中へ車輌が直接入っていけるようにと、
 堤防を分断して設けられた構造物。洪水時には写真に
 見える溝にゲート(木製の
角落しだと思われる)が
 取り付けられ、堤防と化す。なお、ここから400m北西の
 国道140号は旧秩父往還(注1)であり、往還脇の赤城神社
 には
大麻生村の道路元標が今なお残っている。
   熊谷大橋の付近
  (2)熊谷大橋の付近(右岸から)
   左岸:熊谷市大麻生、右岸:江南町押切〜樋春(ひはる)
   大麻生陸閘から下流へ400m付近。
熊谷大橋
   県道武蔵丘陵森林公園広瀬線の橋梁。長さ約1.1Kmの
   ラーメン橋で、橋の大部分は江南町側に架かっているのだが、
   橋梁名は何故か熊谷大橋である。熊谷大橋が架かるまでは、
   この地点の渡河は、樋春の渡し(渡船)だった(注2)
   この付近から荒川の右岸側にも連続堤防が始まる。
   左岸の河川敷にはひろせ野鳥の森と荒川大麻生公園、
   そしてゴルフ場が広がる。この付近の荒川の河川敷は
   広瀬河原と呼ばれる。熊谷大橋の左岸橋詰は河岸段丘であり、
   一帯には広瀬古墳群が分布している(注3)

 修萬吉堤之碑
(3)修萬吉堤之碑(右岸堤防) 熊谷市万吉(まげち)
 熊谷大橋から2Km下流の付近。この付近の荒川の
 右岸堤防:万吉堤は、明治40年、43年と相次いだ荒川の
 洪水によって決壊した。これは復旧工事の完了を記念して
 明治45年(1912)7月に建立された碑。万吉堤とは
 万吉村(村岡村などと合併したので
当時は吉岡村)に
 築かれていた荒川の右岸堤防のこと。明治期の荒川は
 現在のように連続堤防ではなく、必要な地点(水防の
 重点箇所)にのみ堤防が設けられていた。
 そのため、堤防にも名前が付けられていたのである。
 万吉村と村岡村の境界付近の堤防配置は、霞堤の
 ような形態だった(県道11号線にその片鱗が残っている)。
 萬吉堤の復旧工事は、地元の村々が主体と
 なり(工事形態は村請け)、
県税の補助金を得て、
 580間(約1050m)を築堤したと、碑文に記されている。
 工事の監督は埼玉県が担当し、作業には地元民が
 従事している。当時の埼玉県の土木課長だった山田博愛、
 技手
 三宅清熊の名も記されている。

   
荒川大橋の付近
  (4)荒川大橋の付近(右岸から) 熊谷市村岡
   万吉堤の碑から600m下流。
荒川大橋は国道407号線の
   橋梁(長さ約850m)。上りと下りの2本の橋が架かる。
   埼玉県内の荒川に架かる橋としては珍しく、荒川大橋は
   早い時期から永久橋であった。右岸の橋詰には大正時代に
   建設された
荒川大橋の遺構(トラス)が残っている。
   なお、右岸の県道11号線の下を横断している村岡樋管は、
   煉瓦造りで明治24年(1891)竣工。埼玉県で3番目に古く、
   荒川水系では現存最古の水門である。→
 埼玉県の煉瓦水門
   荒川大橋の左岸橋詰に建つのは、安藤野雁(ぬかり)の歌碑
   (昭和29年建立)。江戸時代末期の国学者・歌人で福島県の
   出身だが、今は熊谷寺に眠る。酒を愛した自由人だった。
   野雁の歌碑の脇には川守地蔵が祀られているが、これは
   荒川の水難者16人を供養するために、昭和29年に建てられたもの。
   左岸の鎌倉町(町名は鎌倉街道に由来する)には、元和9年(1623)の
   洪水跡の池を、公園化した星渓園がある。星渓園の付近には
   近年まで湧水(荒川の伏流水)があり、星川(下流では
忍川)の
   源流だった。忍川は元荒川(荒川の旧流路)へ繋がっている。

 荒川大橋から見た荒川
(5)荒川大橋から見た荒川(上流から)
 流路は扇状地河川特有の網状の乱流となっている。
 この付近は瀬切れ(流水が絶えること)が顕著だという。
 左岸の堤防は荒川桜堤(旧.北条堤)として有名である。
 北条堤は寄居城主だった北条氏によって、近世以前に
 築堤されたという。左岸の河川敷には荒川運動公園が
 広がり、1km下流には万平公園がある。
 これは
旧.熊谷堤の跡地を公園として整備したもの。
 万平とは地元の有力者、竹井澹如の愛称。
 竹井澹如は明治2年(1869)に私財を投じて、熊谷堤から
 荒川に向かって突堤(万平出し)を築いている(注4)
 熊谷側を洪水の被害から守るためであるが、
 これによって対岸の大里町側では、洪水被害が増大した。

   
手島の渡しの跡地
  (6)手島の渡しの跡地、堤防上に建つ石碑(右岸から) 
   荒川大橋から下流へ1km、大里町手島。
   右岸堤防の天端には庚申塔(安永年間)、馬頭観音
   (明治21年)、
道標(昭和10年、在郷軍人会)が残っている。
   左岸と異なり、右岸堤防の天端は舗装されてなく、砂利敷。
   この付近の河川敷(高水敷)の標高は、河床に対して
   比較的高く、河道は段丘状になっている。堤内地の標高よりも
   河川敷の標高の方が高く感じられる。
   河川敷には民有地(農地や墓地)が広く分布しているようだ。
   右岸堤防の裾には吉見堰用水の支線である手島用水が流れている。
   吉見堰用水は荒川の六堰頭首工から取水し、荒川の右岸堤防に
   沿って流れ、写真(4)の付近で村岡樋管を経由した後に3派に
   分かれる。吉見堰用水の余水は
通殿川(一級河川)の水源となっている。

(注1)旧秩父往還は旧中山道から分かれるが、その分岐点である熊谷市石原を
 はじめ、旧秩父往還沿線の大麻生、三ケ尻には
道標(道しるべ)を兼ねた
 石仏が非常に多く分布している。

(注2)樋春の渡しは武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の
 大里郡樋春村(9巻、p.53)に以下のように記されている。
 ”渡:村道に属す
 村の北方七町 荒川の下流にあり 渡船二艘 私渡”
 なお、下流の荒川大橋も明治42年(1909)に木の橋が
 架けられるまでは、渡船(村岡の渡し)であった。
 さらに、写真(6)の地点にも、渡しがあったと記録されている。
 これは手島の渡しであり、前掲書の大里郡手島村(9巻、p.68)には
 ”渡:中山道に出づる村路に属す
 村の北方九町四十二間 荒川の下流にあり 渡船三艘 私渡”
 とある。船三艘の内訳は人渡二艘、馬渡一艘であり、
 荒川の上中流部に設けられた渡しでは、村岡の渡し(船四艘)に次いで大規模だった。

(注3)広瀬古墳群は7〜8世紀にかけて築造されたとされている。
 現在も小規模な円墳や方墳が6〜7基ほど残っている。
 そのうちの宮塚古墳は、高さが5mに満たない小さい古墳だが、
 形式は全国的にも珍しい上円下方墳であり、熊谷市唯一の国指定史跡である。
 なお、宮塚古墳から東へ100mの地点にある山王神社は古墳(円墳)の上に
 建てられている。熊谷市史
 上巻によれば、現在の熊谷市の市域には
 かつては163基以上の古墳があったというが、開発によってほとんどが
 破壊されてしまい、現在残る古墳は10数基程度である。

(注4)万平出しは百間出し(ひゃっけんだし)を改修したものなのだろうか。
 明治17年(1884)測量の迅速測図、熊谷駅には荒川の河川敷内に
 大規模な突堤が明瞭に残っている。万平出しの設置位置は百間出しと
 同じようである。百間出しとは寛保年間(1740年頃)に築造されたと
 される水制工であり、荒川左岸の現在の熊谷市月見町と見晴町の
 付近から、荒川の河道に向かって斜めに突き出して設けられた。
 柳原堤とも呼ばれたが、設置目的は熊谷宿を洪水の被害から守るためである。
 当初はその長さが文字通り、百間(180m)だったようだが、増築を重ねるうちに、
 全長は三百間(540m)にまで達していたようである。百間出の存在によって、
 荒川の流心は右岸に向けられ、その水衝部である右岸の村岡、手島では
 堤防が決壊することが多かった。したがって、右岸側は百間出の撤去を要求し、
 水論(水争い)から訴訟問題に発展している。
 安政六年(1859)の済口証文(和解書)、万延元年(1860)の訴状、
 文久二年(1862)の済口証文などが残っている(埼玉県史
 資料編13、p.541-553)。
 文久二年の時点での和解条件は、荒川の流れを右岸寄りに変更することであり、
 結局、百間出は撤去されずに残されたようである。


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