石の橋 (その3) [石橋の一覧]
熊高橋(俗称) 新星川、埼玉県熊谷市大原一丁目(下流から) 形式: 石の桁橋(1スパン) 長さ 2.6m、幅 5.2m 竣工: 明治30年(1897)4月 県立熊谷高校の正門の南側に架けられた石橋。 正式名は不明だが、地元では熊高橋と呼ばれているという。 熊高とは熊谷高校のこと。熊谷高校は明治29年(1896)10月6日に 埼玉県立第二尋常中学校として、現在の場所に開校している。 この橋は開校とほぼ同時期に架けられたことになる。 本橋は欄干の天端まで道路の舗装で埋ってしまっているが、 それ以外は建設当初の形態を留めている。橋台(護岸を兼用)も 石造り(切石の布積み)である。右岸下流には親柱(28cm角、 地上へ25cm突出)が残されていて、竣工年が確認できる。 橋の形式は大里郡岡部町岡に同時期に建設された穂波橋(1898年)、 筑波見橋(1899年)とほぼ同じである。 |
名称不明 柿沼堀脇、埼玉県熊谷市久保島〜新島(下流から) 形式: 石の桁橋(1スパン) 長さ 1.2m、幅 6.1m 建設年: 不明 国道17号の新島北の交差点から西へ100m、 旧中山道が農業排水路を跨ぐ地点に架かる橋。 すぐ南側には、玉井用水の柿沼堀が流れている。 この橋は大幅に改修されていて、桁の大部分は コンクリートとなっている。橋幅は広いのだが桁の形式は 床版ではなく、コンクリート板を数枚並べたものである。 旧形態を踏襲したのだろうか。橋台は切石(48×30cm)の空積みで、 石材は安山岩系、表面には瘤出し加工が施されている。 また、水路の護岸も石積みで上流側は切石積み、 下流側は玉石積みである。 |
名称不明 埼玉県熊谷市村岡(上流から) 形式: 石の反り橋(1スパン) 長さ 1.2m、幅 2.5m(現況) 竣工:明治26年(1893)4月? この橋は登由宇気神社の神橋(参詣橋)である。 同神社は伊勢神宮ゆかりの神社だが、社内には金毘羅神社、 稲荷神社、菅原神社、八坂神社も祀られている。 地元の人々が寄進した石橋だが、現在は橋面は全てコンクリートに 改築されていて、建設当初の形態を保っているのは親柱と欄干のみである。 親柱(高さ35cm、15cm角)には奉納 伊勢講中、従是北敷三間、 明治廿六年四月吉日とある。 欄干(高さ20cm)の側面には、上流側に西橋寄進、伊勢講中、 安政二乙卯年八月吉日、世話 新井仙蔵、同 要七、 下流側には寄付金者と思われる7人の名前が彫り込まれている。 橋の建造は安政二年(1855)であり、明治廿六年(1893)に 橋の周辺に敷石を普請したのであろうか。 |
あんざん橋 埼玉県本庄市四方田(上流から) 形式: 石の桁橋(1スパン) 長さ 1.8m、幅 2.4m(現況) 竣工:大正10年(1921)5月 この橋は産泰神社の神橋(参詣橋)である。 産泰神社の創建は鎌倉時代であり、児玉党(武蔵七党)の 一族、四方田五郎が勧請したのが起源だという。 産泰神社は金佐奈神社だが、女性の守護神として、広く 信仰されているので、橋名のあんざんとは安産のことだろう。 この橋は個人が寄進した石橋で、上流側の桁の側面には 西比利亜出征帰郷記念 大正十年五月とあり、 二人の氏名が刻まれている。西比利亜とはシベリアのことなので、 日露戦争に出兵し、無事帰還したのを記念して奉納したのだろう。 なお、産奉神社の境内に置かれたベンチには、側面に 奉納 本庄電気軌道株式会社とある。かつては本庄電気軌道が 本庄と児玉間を運行していた。現在の国道462号線がその路線に相当する。 |
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