都幾川 〜 氷川の合流から都幾川大堰 [都幾川のページ一覧]
撮影地:埼玉県比企郡都幾川村西平
↑氷川の合流(上流から) 都幾川村西平 都幾川橋から200m下流、右岸へ氷川(一級河川)が 合流する。この付近の標高は約135m。氷川の管理起点は 西平と椚平の境界付近に設けられていて、河川延長は 約4.5Km。管理起点よりも上流は泉川と名前が変わり、 源流はブナ峠と飯盛峠にある。氷川には滝の鼻橋と同型の トラス橋:昭和橋(昭和2年竣工)が架かっている。 平村(比企郡には平村が2つ存在した)の村民が 寄付金を募って架けた橋だ。なお、氷川の合流地点から 南へ300mに鎮座する萩日吉神社は、飛鳥時代に蘇我氏に よって創建された古社だが、神事として木曽義仲の家臣の 子孫たちによって、流鏑馬(やぶさめ)が奉納されている。 |
←切り出された木材 「木のむら」、都幾川村では、 製材所があちこちで見られる。 この木材を利用した建具業者も 多く、町村としては、 生産高日本一を誇るという。 反面、以前は盛んだった炭焼きは ほぼ消滅してしまったという。 |
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←清流、都幾川 流れる水は周囲の山々に 涵養され、透明度が高い。 都幾川村の名は、 村の中央を縦断する、 清流、都幾川に由来する。 「木のむら」は清流を育む、 [水源のむら]でもある。 |
↑都幾川と西平の集落(下流から) 都幾川村西平 小幡橋から200m下流、富士浅間神社都幾川分社の上から 撮影。分社の周辺には聖徳太子講の石碑が数基ある。 木工職人が多い土地柄なので、信仰が厚かったのだろう、 都幾川村に多く分布する碑だ。北へ向かって流れて来た 都幾川は細入沢、以後ヶ沢を左岸へ合流後、この地点で、 流れを急激に東へと変える。この付近の小字は上宿。 都幾川に沿った平坦地(谷底平野)には、秩父へ通じる 街道(現在の県道172号線)に沿って町場が形成され、 宿場として栄えた。平宿は慈光寺(坂東三十三観音霊場の 第9番札所)に至る巡礼道でもあった(注1)。 |
↑滝の鼻橋の付近(上流から) 都幾川村西平 県道172号線の路線は、おおむね都幾川に沿っている。 172号線(秩父道)と273号線(小川道)が交わる西平交差点の 付近にあるのが滝の鼻橋。大正14年(1925)に建設された トラス橋である。都幾川が流れを急激に東へと変えた直後に 架かる。この付近の都幾川は、谷が深く増水すると激流となる。 そのため、本格的な架橋が始まった明治10年代から、 橋の形式は木造のトラスやアーチ(方杖)であった。 滝の鼻橋の右岸橋詰には、入比坂東三十三ヶ所観音の 二番札所の小幡堂がある。それに由来するのだろう、 滝の鼻橋の上流に架かる橋は小幡橋だ。 |
↑後野川の合流(右岸から) 都幾川村西平 滝の鼻橋から200m下流、左岸へ後野川が合流する。 後野川の第一橋(最下流の橋)は、日尺橋(にっしゃく、 県道172号線)。日尺はこの付近の小字名である。 合流地点での後野川の川幅は約10m、コンクリート護岸と 砂防堰堤が施されているので、沢の印象は薄い。 後野川は雲河原地区の小字である後野付近から始まる 延長約1.2Kmの小河川だ。ここから1.8Km北には松郷峠が あり、小川町、玉川村、都幾川村の境界となっているが、 同時に分水界でもあるようだ。峠に降った雨は 赤木川(槻川の支川)、雀川、後野川へと流下する。 |
↑都幾川大堰(右岸から) 都幾川村西平 下郷橋から600m下流に設けられた農業用水の取水堰。 県道172号線の関根バス停付近に位置する。下流の小字名は 堰下だ。大堰は都幾川の右岸から取水し、都幾川右岸の 田中、桃木、関堀地区の水田をかんがいしている。(注2) 用水路に沿った小道は、県道が整備されるまで、秩父道だったと 思われる。現在の施設は大正12年(1923)竣工。 石積み(蛇籠)だった堰をコンクリートで全面的に改修したもの。 河床に転がる巨岩をコンクリートで固めた無骨な印象の堰だ。 取水口の上には竣工記念碑と共に水神塔が祀られている。 これは取水の安定を祈願したものだろう。→ 都幾川大堰の詳細 |
(注1)慈光寺は現存する埼玉県最古の寺院であり、白鳳年間(673年〜)の
開基とされ、宝亀元年(770)には観音堂を建立した記録が残る。
坂東三十三観音霊場は埼玉県には慈光寺の他に、正法寺(岩殿観音、東松山市)、
安楽寺(吉見観音、吉見町)、慈恩寺(岩槻市)の計4箇所がある。
4箇所のうちの3箇所が比企郡に存在し、都幾川の流域には慈光寺と
正法寺が鎮座する。坂東三十三箇所の巡礼が成立したのは、
鎌倉時代とされているが、その当時の比企郡は
観音信仰の中心地だったことが想像される。
慈光寺参道の山門跡地には数多くの板碑(青石塔婆)が残っていて、
カエデの木の根元には芭蕉の句碑もある。
(注2)都幾川大堰は古くから存在する施設なので、明治9年の調査を
基に編纂された武蔵国郡村誌にも記載されている。
例えば比企郡田中村(6巻、p.217)には、田中地区を流れる用水路が
都幾川用水と記されている。”深二尺巾二間 村の西方 平村より来り
南方 桃木村に入り又本村に来り東流して都幾川に入る
本村に係る長十二町 田八町七反の用水に供す”
[東流して都幾川に入る]とあるが、大堰から取水された用水は
現在も明覚小学校の北側付近で、再び都幾川へ戻されている。