ちょこっと補足

日本で一番石橋の多い県

 正確には、明治時代までの石橋架設数が一番多いのが、熊本県。
 大正・昭和まで含めると、大分県が日本一となる(約600橋が現存する。これらは豊後の石工による)。
 九州地方は石橋の建設年代に各県の特徴が見られ、江戸時代前期が多いのが長崎県、
 江戸時代末期から明治時代前半が多いのが熊本県、そして大正・昭和期が多いのが大分県である。
 この分布には日本の石橋架橋の歴史が凝縮されているともいえる。西洋や中国の技術的影響を受けて、
 石橋の本格的な建設は長崎の地で始まった。そこで萌芽した技法を伝統工法として確立させたのが
 熊本県の種山石工である。大分県の石橋はセメントを使った近代工法によるものが多い。
 ちなみに、九州には日本全国の石橋の95%以上が存在しているそうで、石橋王国とも呼ばれている。
 本州では、山形県、福島県、栃木県に石橋(アーチ橋)が多いが、これは明治初期に彼地の
 県令(現在の県知事に相当、ただし選挙ではなく国が任命した)を歴任したのが、
 三島通庸(みちつね:鹿児島県出身)だったからである。三島は郷里の九州からわざわざ石工を
 呼び寄せ、赴任地に石橋を架けさせた。積極的に土木工事を推し進めたことから、
 道路県令、土木県令などとも呼ばれた。一般的には自由民権運動を弾圧した鬼県令として
 有名である(福島事件、加波山事件を誘発させている)。晩年は警視総監に転任したという筋金入りの人物。
 なお、意外に知られていないのだが、かつて本州では埼玉県が石橋王国であった。
 埼玉県では江戸時代に、数千基以上もの石橋が架設されている(筆者の推測)。
 それを裏付ける石橋供養塔(一種の竣工記念碑)も300基以上が現存する。
 ただし埼玉県の石橋はほとんど現存していない。小規模な石橋で形式はアーチ橋ではなく桁橋であった。

藤原林七
 
 種山石工の開祖といわれる。元は長崎奉行所の役人。
 円周率に興味を持ち、それが昂じて、ご法度であるのに西洋人に教えを請うた。
 そのため幕府から追われ、逃亡の果てに種山村(平家落人の里)に流れ着いた というのが定説らしい。
 これが種山村(現.熊本県八代郡東陽村)が種山石工の発祥地といわれる所以である。
 種山で百姓仕事をしながら、曲尺(かねじゃく)を使う独自の石橋設計術を編み出した。
 それを一族の秘伝として、息子たち(嘉八、三五郎ら)に叩き込んだそうだ。
 ちなみに当時の和算では、円周率は円理と呼ばれていたそうです。
 現代の小学生は、円周率はと教えられるそうですが、それじゃあ、石橋は設計できません(笑)

岩永三五郎

 藤原林七の次男として(諸説あるようだが)、種山村に生まれた。
 生涯に約54の石橋を架けたが、石橋だけでなく、土木技術全般に天賦の才を発揮した。
 鹿児島市・甲突川の五大石橋(新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋、玉江橋)の架橋、
 鹿児島港の防波堤工事、熊本県八代地方の干拓工事(堤防や樋門)等で有名。
 彼が率いた石工の集団は、土木工事を請け負うめっぽう腕の立つ組織〜種山石工として
 九州全域に名を轟かせた。晩年には野津組の棟梁として活躍した。
 児童文学の名作[肥後の石工]は、彼が主人公の哀しいお話。
 岩永三五郎を顕彰した石像が、鹿児島市の洲公園に建てられているそうだ。

橋本勘五郎
 
 種山石工の名工、約50の石橋を架けた。勘五郎の前は、丈八と名乗っていた。
 通潤橋竣工の功績を称えられ、苗字帯刀を許された。
 肥後の石工で苗字帯刀を許されたのは、岩永三五郎(叔父)と橋本勘五郎の二人のみ。
 また、晩年には明治政府に招聘され(宮内省土木寮へ勤務)、旧皇居二重橋、万世橋、浅草橋、
 江戸橋、京橋、蓬莱橋等も架橋した。これらの橋は種山石工伝統の素朴な石橋で、
 欄干や親柱には装飾の類は一切なかったそうである。
 (うーん、おかみに迎合しない職人魂。さすがに欄干なしや自然石の乱れ積みはなかったようだが...)
 その後、二重橋、万世橋浅草橋、江戸橋は架けかえられてしまった(それでも橋の形式は
 昔の形態を踏襲したアーチ橋である)。京橋、蓬莱橋は現存しない。
 橋本勘五郎は日本最大の霊台橋(スパン28.3m、熊本県砥用町)だけでなく、
 日本最小の大久保自然石橋(スパン0.6m、熊本県八代郡東陽村)も架橋している。
 橋本勘五郎の墓は、石匠館(熊本県八代郡東陽村、石橋の博物館)の隣に建てられている。
 勘五郎さんは、種山石工の発祥地に眠っているのだ。

種山石工の系図

  藤原林七 (もとは武士)
     |
     +---------+--------+
    嘉八   三五郎   三平
     |
     +------+------+-------------+
    宇助  宇一  丈八(勘五郎)  甚平

    (注)勘五郎の兄:宇助を卯助、宇一を宇市と表記している書籍もある。

 九州の石橋は、長崎県と大分県を除くと、種山石工(種山組、野津組)が架設したと云っても過言ではない。
 彼らの架けた石橋は、堅牢性と実用性を重視した素朴な造りのものが多い。
 石橋の建設費は、藩ではなく庄屋や農民が捻出した。その費用負担を少なくするために、
 構造上不要なものは省き、安く仕上る橋を架けたのである。欄干がない橋が多いのは、このためである。
 一方、架橋技術は群を抜き、殊に1スパンが20mを超えるような巨大な石橋の建設は、
 種山石工の独壇場であった。なお、肥後の石工は、種山以外にも、矢部、砥用、天草が有名。

緑川
 
 熊本平野南部を流れる熊本県で二番目に大きな川。
 ちなみに一番大きいのは...、あれー、わかんないや(^^;)

日本で一番大きな石橋

  順位 名前 長さ(m) 所在地 建設年 形式
全 長 耶馬溪橋(やばけい) 116.0 大分県本耶馬溪町 1923 8連
羅漢寺橋  89.0    〃 1920 3連
馬溪橋  82.6 大分県耶馬溪町 1926 5連
径間長 近戸橋  30.0 大分県臼杵市(うすき) 1893 3連(注1)
霊台橋  28.3 熊本県砥用町 1847 1連
通潤橋  28.2 熊本県矢部町 1854 1連
下大河平水路橋  27.5 宮崎県えびの市 1928 3連(注2)
出合橋 約25 大分県清川村 1925 1連(注3)

 (石橋は生きている、山口祐造、葦書房)から作成。径間長の順位は、1930年以前に建設された石橋が対象である。
 (注1)近戸橋は現存するが、乙見ダムに水没していて、夏にしか現れないそうである。
 (注2)下大河平水路橋(通称.めがね橋)は計測し直したら、27.5mではなく、28.8mであったようだ。
 (注3)出合橋も計測し直したら、25mではなく、29.3mであったようだ。(^^;)
     ちなみに、現存最長の径間は、轟橋(とどろ、大分県清川村、1932年) の 32.1m。
     ということは、全長・径間長ともに、大分県が表彰台を独占ということに...


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