宝珠花閘門 (ほうしゅはな)

 所在地:北葛飾郡庄和町西宝珠花、江戸川(右岸)  建設:1920年

 宝珠花閘門とは、江戸川の右岸堤防に設けられていた煉瓦造の陸閘(りくこう)であり、
 治水施設であると同時に宝珠花河岸へのゲート(通用門)であった。
 陸閘とは堤防を登らずに河川敷の中へ人や車輌が、直接入っていけるようにと、
 堤防を分断した開口部に設けられた構造物のこと(→陸閘の例)。
 普段は堤防にある開口部(切り欠き)だが、洪水時にはゲートが閉められて堤防と化す。
 宝珠花閘門の場合は、閘門の側面に2ヶ所(川表側と川裏側)の溝があり、洪水時にはそこへ
 ゲート(木製の角落し)を複数枚、はめこんでいた。川表のゲートと川裏のゲートの間には
 空間が生じるが、そこに土や土嚢を充填すれば、一時的だが完全に堤防となる。
 カスリン台風(昭和22年)による洪水(注)を防ぐために、宝珠花閘門を締め切った写真が、
 埼玉東部写真集(国書刊行会、1987)のp.125に掲載されている。それによると、宝珠花閘門は
 壁体は煉瓦(イギリス積み)であり、天端には笠石、隅部には隅石(共に花崗岩)が施されている。

 なお、宝珠花閘門は大正9年に煉瓦造りへと改良されたが、それまでは石造りの陸閘だった。
 明治21年2月の埼玉県報(埼玉県行政文書 C535、p23)に、堤防修築並ニ閘門新設の記事が収録されている。
 堤防修築では江戸川の堤防馬踏(天端幅)が3尺(約0.9m)と小さく危険な区間、360間(約654m)について
 馬踏を3間(約5.4m)へ拡張している。それに伴い、55戸(土蔵5戸を含む)の家屋が移転させられている。
 堤防修築と同時に、埼玉郡大沢町(現在の越谷市)から千葉県へ抜ける県道に
 長さ2間(約3.6m)、幅2間半(約4.5m)の石造りの閘門を設けたと記録されている。
 閘門の総工費は5,220円。内4,440円が地方税の補助金、780円が地方有志の寄付金であった。
 閘門の建設工事は埼玉県の直轄工事だったと思われる。

(注)カスリン台風では利根川が大利根町荒川が熊谷市と鴻巣市で決壊し、洪水流は両河川の
 旧河道である古利根川や元荒川へ流れ込み、埼玉県の東半分は完全に水没した。
 カスリン台風後には利根川の改訂河川改修が実施され、それに伴い宝珠花付近の江戸川は
 川幅(堤防天端幅)が従来の200mから400mへ拡張される計画が浮上した。
 昭和25年から始まった江戸川の引き堤工事(上述の川幅拡大工事)によって、西宝珠花の
 半分以上が江戸川の河川敷へと化した。326戸の家屋のうち実に250戸が江戸川の河川敷に
 沈むことになり、移転を余儀なくされた。引き堤工事では江戸川の右岸堤防を新たに
 築堤し直したので、この時に宝珠花閘門は撤去されたと思われる
 参考文献:庄和町之百年、庄和町教育委員会、p.46

 宝珠花閘門の銘板  ←宝珠花閘門の銘板
 宝珠花神社の敷地内の浅間山(富士山信仰の富士塚)に
 祀られている。宝珠花神社は宝珠花閘門があった地点から
 300m南に位置する。写真の上が施設名、下が竣功年の銘板。
 共に花崗岩製で大きさは80cm×32cm。
 これらの銘板は川裏側(河川敷の反対側)の翼壁に
 付けられていたそうだ。
 竣功年の銘板には大正九年四月竣功とある。
 なお、浅間山には大正8年6月5日建立の
 西宝珠花堤防拡張紀念の碑があり、工事従務員の17名の
 名前が記されている。堤防拡張のさいに宝珠花閘門は
 それまでの石造りから煉瓦造りへ改修されたと思われる。
 どうやら、建設経緯は石造り閘門の時と同じようである。
 宝珠花閘門は江戸川の改修の度に、その時点での最新の
 建設材料で改築されている。

 江戸川の右岸堤防
↑江戸川の右岸堤防(下流から)
 宝珠花神社の付近から撮影。写真の右端に見えるのは
 宝珠花橋。江戸川の引き堤工事と西宝珠花の移転の
 交換条件として、昭和25年に建設が開始された橋梁だ。
 それまでは永久橋ではなく、船橋(大正14年竣工)であり、
 船橋の前は渡船(渡し船)だった。宝珠花橋の左岸側を
 江戸川に沿っているのが結城街道(県道17号結城野田線)。
 宝珠花閘門は宝珠花橋の右岸橋詰から河川敷へ向かって
 200mの付近に設置されていたと推測される。
 宝珠花閘門へ通じる道は、昔からの街道であり、江戸時代の
 道標に、行き先として宝珠花道や河岸場道と記された例が
 非常に多い。なお、武蔵国郡村誌の西宝珠花村の記述に
 よれば、明治初期でも荷舟が十二艘なので、規模は大きい。

   宝珠花神社
  ↑宝珠花神社
   宝珠花神社はここから300m東(現在は江戸川の河川敷)に
   あったが、江戸川の改修のために昭和28年(1953)に
   ここへ移転している。写真の奥に見えるのが江戸川の右岸堤防、
   左端が宝珠花閘門の銘板が埋め込まれている浅間山。
   宝珠花河岸があった頃は、江戸川の河川敷内が
   北葛飾郡宝珠花村の中心部だったようだ。宝珠花閘門の
   付近には
宝珠花村の道路元標が置かれていた。
   宝珠花村の半分は江戸川の河川敷と化してしまったので、
   一時、宝珠花村の道路元標は宝珠花神社に保存されていたが、
   現在は大凧会館に移築されている。なお、江戸川を挟んで、
   西宝珠花の対岸は、千葉県東葛飾郡関宿町東宝珠花である。

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