利根川 (利根川橋梁〜埼玉大橋の付近)  [利根川のページ一覧

 左岸:群馬県邑楽郡板倉町、埼玉県北埼玉郡北川辺町  右岸:埼玉県羽生市、加須市、北埼玉郡大利根町

 谷田川排水機場の付近
↑谷田川排水機場の付近(左岸上流から) 板倉町飯野
 東北自動車道の
利根川橋から、1.5Km下流に位置する。
 ポンプ5台が装備された巨大な施設だ(1974年建設)。
 ここから谷田川の導水路(放水路)の水が利根川へ
 排水されている。谷田川排水機場の脇には、旧排水機場が
 残っているが(上屋が木造)、そちらは鶴生田川導水路の
 排水に使われている。かつては内水排除に苦労した、
 
谷田川だが、放水路が整備された現在は、河道の一部が
 群馬の水郷公園(ここから東へ1Km)として整備されている。
   羽生スカイスポーツ公園の付近
  ↑羽生スカイスポーツ公園の付近(上流から) 羽生市常木
   この付近の利根川の右岸堤防はスーパー堤防となっている。
   スーパー堤防の上には、
羽生スカイスポーツ公園
   整備されている。年中無休で入場無料(笑)、トイレと
   駐車場も完備されている。この付近は田んぼばかりで、
   他に何もないので、堤防上に数多く設置された子供向けの
   遊具は遠くからでも異彩を放っている。利根川の河川敷には
   滑走路が設けられ、週末にはグライダーも飛ぶ。
   公園には航空自衛隊のT-3型初等練習機も展示されている。

 合の川
↑合の川の堤防跡 板倉町大高島〜北川辺町飯積
 利根川の左岸堤防の上から北東方向を眺めると、
 大きく蛇行した古い堤防が目に入る。これは
合の川
 (北利根:中世の利根川の主流の一つ、間の川)の
 堤防跡である。写真中央の道路が右岸堤防(北川辺町)、
 上部が左岸堤防(板倉町)であり、合の川は上州と武州の
 国境を流れていた。旧堤防は
渡良瀬遊水地に向かって
 約4Kmに渡っていて、
谷田川に合流して終わる。
 左岸と右岸の堤防間の距離は広い所では約200mもある。
 現在、合の川は廃川であり、河川敷は農地や公園と
 なっている。写真の地点の利根川の左岸堤防は、
 かつては合の川の締切堤防である。 

   加須未来館の付近
  ↑加須未来館の付近(上流から) 加須市外野
   奥に見える橋は
埼玉大橋。周囲は利根川河川敷緑地公園で、
   緩傾斜のスーパー堤防の上には、加須未来館が建てられている。
   この建物はプラネタリウムが設けられた、こども宇宙科学館であり、
   地域の総合交流施設も兼ねている。加須未来館から東へ100mの
   地点、右岸堤防上には
利根川旧堰堤跡(埼玉県指定史跡)がある。
   浅間川(東利根)と呼ばれていた利根川の旧流路は、この地点で
   江戸時代初期に締め切られた。浅間川は写真中央から右に曲がり、
   加須市と大利根町の境界を南へ流れていた。これは現在の
   
古利根用水路の路線に相当する。用水路の周辺には広範囲に
   
浅間川の旧堤防跡が残っている。なお、この付近の利根川右岸には
   延宝期(1675年頃)建立の
庚申塔(青面金剛)が数多く分布している。

 上州連山と大河:利根川
↑上州連山と大河:利根川 大利根町弥兵衛(注)
 右岸堤防の上からの眺望。上州の山なみを背にした、
 左岸の北川辺町は埼玉県である。この付近の利根川は、
 かつては新川と呼ばれた。浅間川と渡良瀬川とを
 結ぶために、江戸時代に新たに開削された流路である。
 もっとも、まったく水が流れたことのない土地を開削したの
 ではなく、故道の跡などを最利用したものだろう。
 そして現在、利根川の両岸は埼玉県である。
 利根川の南側だった旧・川辺領(北川辺町と大利根町)は、
 江戸時代以降の利根川の改修によって、川を挟んで
 南北に分断されてしまった。

   カスリーン公園
  ↑カスリーン公園 大利根町新川通
   新川堤と呼ばれる利根川の右岸堤防上に設けられている。
   昭和22年(1947)9月のカスリーン台風による洪水で、利根川の
   右岸堤防が230mに渡って決壊したのが、この地点である。
   洪水流は利根川の旧流路を辿り、東京湾へ向かって
   流れたという。写真中央のモニュメントには、当時の状況を
   撮影した12枚の写真が展示されている。なお、カスリーン:
   Katherineをキャスリンやキャサリンと表記することもある。
   慣習的に台風名は、その年に発生した順にアルファベットが
   付けられ、なぜかそれを頭文字とする女性名が付けられる。
   Katherineは1947年の11号台風である。

(注)弥兵衛という地名は、この地の開発者である、平井弥兵衛に由来するという。
 天正年間(1573-1591)に平井外記という者が、80数名と共に
 飯積村(北川辺町飯積)から移り住み、現在の外記新田を開発したとの伝承がある。
 平井弥兵衛は平井外記の子供である。利根川の右岸堤防に隣接した鷲神社
 (八坂神社、八幡神社、愛宕神社などを合祀)は弥兵衛が勧請したのだという。
 なお、平井外記の墓は遍照寺(北川辺町飯積)にある。

(補足)利根川には羽生市から大利根町にかけての約19Kmの区間には、
 長い間、橋が架けられなかった。最初の近代橋梁(永久橋)は明治18年(1885)に
 架けられた日本鉄道(現在のJR東北本線)の利根川橋梁だが、一般道の道路橋は
 さらに後になり、大正13年(1924)の利根川橋(栗橋町〜古河市)が最初である。
 もっとも、明治23年(1890)には現在の昭和橋の下流に、川俣橋と呼ばれる
 賃取橋(有料)が川俣架橋合資会社によって建設されたという記録(→群馬縣邑楽郡誌、
 1917、p.973-974)もある。川俣橋は永久橋ではなく、船橋(河道に船を複数係留し、
 その上に板を渡して橋としたもの。江戸時代から存在する方式)だった。

 江戸時代には利根川は、関東北部防衛の要地でもあり、上述の区間には
 定船場(幕府認可かつ指定の渡船場)は、館林道の川俣の渡し(羽生市、
 現在の昭和橋付近)と日光街道の房川の渡し(栗橋町、現在の
 利根川橋付近)しかなかった。しかもそれらには関所が設けられていた。
 なお、この付近の利根川の堤防には、江戸時代に建立された
水神と風神
 数多く祀られている。板倉町の雷電神社(雨乞いの神)の影響が大きいと思われるが、
 多くの(非公式の)渡しがあったので、舟運の安全祈願の意味合いもあったのだろう。

 明治時代になると、渡船場の設置が自由になり、数多くの渡し(渡船)が運行するようになった。
 財政難に苦しんでいた明治政府は、民間による渡船場の開設や架橋を積極的に推奨した。
 武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)から、それらの渡しを集計したのが下表である。
 驚くべきことに利根川の右岸に面した、ほぼ全ての村に渡しがあった。
 渡しが記録されていないのは、尾崎村と常木村(羽生市)、佐波村と旗井村(大利根町)のみだが、
 常木村と佐波村には河岸場があったようだから、実質的には渡河が可能だったはずである。
 現在、この区間には一般道の橋は2橋(昭和橋と埼玉大橋)しかないが、かつては
 15箇所(17箇所)もの渡河地点(平均すると約1.2Km間隔)があったのだ。
 皮肉なことに、近代的な道路橋の建設と引き換えに渡河の機会は
 以前よりも減っている。時代に逆行するかのように、対岸はさらに遠くなっている。

 右岸の村に渡しがあるということは、当然、対岸(左岸)にも渡しが存在したわけで、
 例えば、大越と外野の対岸の北川辺町飯積には上渡場と下渡場という2つの渡しがあった。
 飯積渡場の跡地には町指定文化財(史跡)の碑が建てられている。
 また、飯積には飯積河岸もあり、明治9年の時点でも、荷船7艘(百石積)が常備されていた。
 百石積の船というのは、米俵250俵が積めるかなりの大型船である。
 おそらく船の形式は帆船であり、高瀬舟だったと思われる。
 なお、利根川の周辺には江戸時代に建てられた
道標(道しるべ)を兼ねた石仏が
 数多く残っているが、それらには行き先として渡しや河岸の地名が刻まれた物が多い。

場所

現在の地名

名称 武蔵国郡村誌の記述内容

河岸場

対岸
上新郷村 羽生市上新郷 渡(川俣渡) 館林道に属し村の北方 利根川下流にあり 馬渡船二艘
人渡船一艘
 私渡
別所河岸 富士見の渡し
上川俣村 羽生市上川俣 竜蔵渡 川岸道に属し村の北方 利根川の中流にあり 渡船一艘 私渡 竜蔵河岸 上ノ渡し
本川俣村 羽生市本川俣 長宮渡 羽生道に属す村の北方 利根川の下流にあり 渡船一艘 私渡 長宮河岸 梅原下の渡し
稲子村 羽生市稲子 稲子渡 川岸道に属し村の北方 利根川の中流にあり 渡船一艘 私渡 稲子河岸 江口の渡し
発戸村 羽生市発戸 発戸渡 館林道に属す村の北方 利根川の中流にあり 渡船一艘 私渡 発戸河岸 上ノ渡し
上村君村 羽生市上村君 上村川岸渡 羽生道に属す村の北方 利根川の下流にあり 渡船二艘 私渡   下ノ渡し
下村君村 羽生市下村君 下村川岸渡 川岸道に属し村の北方 利根川の下流にあり 渡船一艘 私渡 下村河岸 千津井の渡し
堤村 羽生市堤 延命寺渡 館林道に属す村の北方 利根川の中流にあり 渡船一艘 私渡
対岸は飯野村
 川巾二百三十間(約418m)
  斗合田の渡し
名村 羽生市名 名村渡 不動岡村より上州館林町に至る経路に係る
村の北方字屋敷裏にて利根川の上流にあり
 渡船一艘 官渡
名河岸 飯野の渡し
大越村 加須市大越 大越河岸 郡村誌に渡の記述はないが、荷船十六艘 歩行渡船二艘
水害予備船三十艘とある
  大久保の渡し
外野村 加須市外野 外野渡 古河館林道に属し村の北方 利根川の中流にあり 渡船一艘 私渡   本郷の渡し
弥兵衛村 大利根町弥兵衛 上の渡 館林道に属し村の北方 利根川の上流にあり 渡船二艘 私渡 上河岸  
下の渡 古河道に属し村の北方 利根川の上流にあり 渡船一艘 私渡    
新川通村 大利根町新川通 新川渡 古河道に属し対岸栄村に通ず村の北方 利根川上流にあり
渡船一艘
 官渡
   
中渡村 大利根町中渡 中渡 古河道に属し村の北方 利根川の上流にあり対岸は本郷村なり
渡船三艘
 人
   

 渡しは川の道であり、河岸場へと続く旧街道は河岸道(川岸道)などと呼ばれていた。
 大正時代の末に道路法施行令が交付されると、各町村には道路の基点を示す指標として、
 道路元標の設置が義務付けられた。道路元標が設置されたのは村の主要道だったので、
 河岸道の沿線にも設置されている。上表の村では、
新郷村と大越村の道路元標が残っている。
 また、大越村の対岸の利島村(麦倉村)にも残っている。
 なお、大越河岸(加須市大越)は明治時代になっても、隆盛を誇っていたようで、
 利根川の右岸堤防裾には、明治32年(1899)に河岸場関係者が建立した、
 馬頭観音が残っていて、
台座に大越上川岸とある。荷物の運搬には馬が
 利用されたので、河岸に限らず、運送業者が馬頭観音を信仰することは多々あった。
 加須市下三俣の葛西用水の左岸には、天保三年(1832)に馬士講中
 (当時の運送業者)が往還道中の安全を祈願して建立した
馬頭観音がある。
 大利根町杓子木には、文政九年(1826)建立の
十九夜塔(道標)が残っているが、
 それには行き先として、大越河岸と佐波河岸(上河岸)が刻まれている。


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