旧・矢島堰 (その1)(その2)
所在地:小山川(こやまがわ)、深谷市矢島 建設:1897年
旧・矢島堰は、小山川に設置されていた備前渠用水(農業用水)の取水堰である。
(小山川は利根川の支川で、深谷市付近では利根川の南側3Kmを並行して流れている)
矢島堰は備前渠用水の開削時(約400年前)から存在する古い歴史を持つ堰だが、
幾多の改修を経て、明治30年(1897)には備前渠用水水利土功会によって、
石堰(蛇籠に石を詰めた固定堰)から煉瓦造りの堰に改築されている。→備前渠改閘碑記
当初、建設工事は明治29年度に予定(明治29年1月25日起工、同年5月10日竣工)されていたが、
設計変更箇所があったために、工事は翌年へ繰り越された(埼玉県行政文書 明2432-19)。
なお、矢島堰が建設された当時、この付近は大里郡大寄村だった。大寄村は昭和30年(1955)に
深谷市と合併して消滅したが、大寄村の道路元標は今なお残っている。
矢島堰は使用煉瓦数40,000個、ゲート3門(形式は角落しだったと思われる)なので、
古笊田堰(久喜市、備前堀川、現存最大の堰)よりも若干小さな規模であった。
なお、矢島堰は筆者の知る限り、埼玉県で最初に建設された煉瓦造りの取水堰である。
ちなみに埼玉県初の煉瓦造り樋管、備前渠圦樋(明治20年竣工)も備前渠用水の施設である。
煉瓦の堰は大正末期まで使われたが、河川改修工事によって小山川の流路が変更されたために
廃止された。今では旧河道の跡地に、護岸(側壁)の煉瓦が残るのみである。
矢島堰に使われている煉瓦は、地元の日本煉瓦製造の製品である。煉瓦には上敷免製の刻印が
確認できる。埼玉県の煉瓦水門では明治28年頃(1895)から、それまで主流だった黒煉瓦(中小工場が
手作業で製造)に変わって、日本煉瓦製造の赤煉瓦が使われるようになった。
矢島堰は日本煉瓦製造の刻印が確認できる、埼玉県に現存する最も古い煉瓦水門である。
なお、河川改修後の小山川には、新しい矢島堰(1926年竣工?)と圦樋(矢島樋管)が建設されたが、
これらも外見は、煉瓦造り(内部構造はコンクリートだと思われる)であった。
←旧河道の跡 小山川の右岸堤防から撮影。 大正期まで小山川は手前から奥へと蛇行して 流れていたようだ。かつての河道は現在は 堤内地へと変貌している。 写真の左端と右端に矢島堰の側壁(護岸)の 煉瓦が残されている。堰堤は固定堰と可動堰の 中間形式(堰中央の約5mが可動部)だったようで、 護岸間の距離は28mもある。 外見は現在の矢島堰とよく似ている。 (→文献4、p.252) 写真上部が現在の備前渠用水。 (右から左へ流れている) |
↑側壁(旧左岸) 長さは約6m、天端幅は60cm。 地上へは、0.7〜1.6m露出している。 煉瓦の平均寸法は218×106×57mm。 |
↑側壁天端 天端にはモルタルを塗った跡が残っている。 数カ所に刻印煉瓦(上敷免製)が確認できる。 |
←反対側の側壁(旧右岸) こちらは埋没と損傷が激しい。 現在の小山川は写真の左側(北)を、 手前から奥(西から東)へ流れている。 ここから東へ3Kmの地点の小山川右岸には、 日本煉瓦製造(株)の工場がある。 矢島堰に使われている煉瓦は、同工場から 小山川を使って舟で運ばれたのであろう。 同社の社史によると、煉瓦輸送専用線の 開通(1895年)後も、しばらくは川舟輸送は、 存続していたようで、完全に廃止されたのは、 1899年とある(→文献20、p.80) |
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