横見川 (その1) (その2)
撮影地:埼玉県大里郡大里町、比企郡吉見町
横見川は大里町の和田吉野川を水源として(正確には和田吉野川と通殿川に設けられた、
横見第1号堰、第2号堰)、大里町から吉見町へと南流し、吉見町では比企丘陵の東側に沿って流れ、
最後は吉見町江綱(えつな)で市野川に合流する。延長は約8Km、吉見町の区間は準用河川である。
なお、横見川は横見第二用水路とも呼ばれていて、横見郡(現在の吉見町)二十ヶ村の
農業用水路という古い歴史を持つ。
また、吉見町の横見川の流域には、9世紀以前に創設された横見郡の延喜式内社(延喜式神明帳に
記載された古社)が3社もあり、さらに黒岩横穴墓群(7世紀頃の横穴式墓が500基)などの古い史跡が多い。
横見郡は小さな郡だったので、明治29年(1896)には比企郡に編入されたのだが、編入先の
比企郡には延喜式内社が、伊古乃速御玉比売神社(いこの はやみたま ひめ、滑川町伊古)の1社しかない。
横見郡が律令国家にとって重要な土地であったのか(屯倉(天皇の直轄地)だったとする説もある)、
あるいは横見郡の郡域は比企郡や大里郡にまで入り込んでいて、実際はもっと広かったのかもしれない。
それにしても、横見郡の延喜式内社3社が、非常に狭い範囲に集中して存在しているのは謎である。
(1)源流付近(下流から) 大里町小八林 横見川は荒川の控堤である横手堤(写真の奥の道路)を 横断して流れてくる。 横手堤とは洪水から吉見町側を守るために、江戸時代に 築かれた堤防。大里町小八林の中にあり、横手堤だけが 比企郡吉見町の飛び地である。 写真の地点には鏡ケ淵と分量樋(分水施設)が 設けられていて、横見第二用水路(横見川)と 横見第一用水路(下流では文覚排水路)に分岐している。 |
(2)横見川(下流から) 吉見町田甲(たこう) (1)から1.1Km下流。この付近は比企郡吉見町と 大里郡大里町の境であり、写真の奥は大里町小八林。 右上に見えるのは、ここから600m北、荒川に架かる荒川水管橋。 横見川は素掘りの水路で川幅は6mと広い。この付近では 悪水路なのだろう、右岸の丘陵に位置する寺ノ前沼や 堂ノ前沼などの農業用ため池のかんがい悪水が流れ込んでいる。 横見川の流域には数多くの石仏が祀られている。 写真の左下にも数体の石仏(延宝元年の銘あり)が写っている。 |
(3)ポンポン山の付近(上流から) 吉見町田甲 (2)から400m下流。西側(横見川の右岸)に見えるのが、 ポンポン山(玉鉾山:標高は約40m)。山頂には 高負比古根神社(たかおひこね)が鎮座する(注1)。 和銅3年(710)創設とされる延喜式内社である。 横見川の流域は西に比企丘陵の断崖を望む低地だが、 これは荒川の古代流路の跡だという。 |
(4)古い取水堰(上流から) 吉見町山ノ下 (3)から1Km下流、右岸側は八丁湖などのある丘陵で、 比企丘陵自然公園。横見川の上流部は平地と丘陵の 境界が流路に選定されている。山裾の等高線に沿って 掘られた幅約2mの農業用水路である。 古い取水堰が2つ連続して設置されている。 大正14年(1925)改築の銘があるが、今なお現役だ。 |
(5)坂東樋管の付近(下流から) 吉見町黒岩 (4)から1.3Km下流。巡礼坂(写真奥の丘陵部に 残っている旧道。吉見観音へと通ずる)の付近では、 横見川の流路はクランク状に2度直角に曲がっている。 巡礼坂の下には巡礼供養塔(道標)や地蔵と共に 石橋供養塔が祀られている。武蔵国郡村誌によれば、 かつて横見川には黒岩村だけでも3基の石橋が 架けられていた。なお、この地点に残る坂東樋管は 明治38年(1905)竣工、煉瓦造りである。 坂東樋管から300m北西の丘陵部には伊波以神社 (いわい)、100m東(御所地区)には横見神社が鎮座する。 共に延喜式内社である(注2)。 |
(6)吉見中学校の付近(下流から) 吉見町和名(わな) (5)から700m下流。ここから北東へ500mの御所地区には 源範頼(頼朝の弟)の館跡があるという(だから御所なのか)。 範頼の子孫はこの地に住み、吉見氏を名乗った。 写真中央の橋の右岸橋詰には地蔵、庚申塔、馬頭観音など 8体が祀られている。馬頭観音は天保7年の建立であり、 横見郡吉見領和名村 馬持中とある。馬を使って輸送業を 営む者達が講を形成していたのだろう。写真(5)の解説に 記述した石橋供養塔の存在とも深い関わりがあると思われる。 ここから南西600mにはかんがい用の溜池:和名沼があり、 その余水は横見川へ放流されている。横見川は川幅が約5mと 広くなり、コンクリート護岸も施され、排水路の様相を呈している。 |
(注1)田甲という、ちょっと変わった地名は高負比古根神社に由来するという。
和名抄に記された横見郡高生郷に比定されるのが、この地である。
田甲村は高負村と表記していた時代もあったそうだ。
高負比古根神社は高負彦根神社と表記されることもある。
出雲系の味鋤高彦根命(あじすき)などが祀られている。
味鋤高彦根は近隣では、月輪神社(比企郡滑川町月輪)、高根神社(大里郡江南町小江川)、
八幡神社(境内社の目の神社、行田市行田)などにも祀られている。
目の神社(めのかみ)は、眼病の治癒にご利益があるとされている。
味鋤の鋤は金属の精錬を暗示させるが、それと眼の病との関係が興味深い。
なお、高負比古根神社の裏(ポンポン山)には、寛文十年(1670)、宝暦六年(1756)の
庚申塔が建てられている。寛文十年の塔は三猿、宝暦六年の塔は道標を兼ねていて、
左くまがや、右くわんのん道などと彫られている。施主は田甲村中である。
横見川の周辺には、道標を兼ねた庚申塔(青面金剛)が非常に多い。
ちなみに武蔵国郡村誌には、足立郡高尾村(現在の北本市高尾)の村名も
高負比古根神社に由来するとある。高尾村は田甲村から南東へ9Kmも
離れた荒川の左岸に位置する。遠方の村の名前にまで影響を及ぼすほど、
高負比古根神社は格式が高く、高名だったということだろう。
なお、高尾村は河岸段丘の上に形成されていて、田甲村と似た雰囲気がある。
(注2)新編武蔵風土記稿の上細谷村には、
飯玉氷川明神社(現在は氷川神社)が”是延喜式神明帳に
載る横見の神社”と記され、横見郡の延喜式内社に比定されている。
上細谷の氷川神社は、横見神社から北へ250mの地点に鎮座する。
なお、この付近には熊野神社も多く、小新井、本沢、古名に存在する。
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