古隅田川 (ふるすみだ) (その2) (その1)
撮影地:埼玉県さいたま市岩槻区、春日部市
(1)宮川小学校の付近(上流から) 左岸:さいたま市岩槻区小溝、右岸:春日部市新方袋 宮川とは新方袋の小字。宮川小学校の南側付近から、 古隅田川の川幅は急に広くなり、コンクリート護岸が 施されている。この付近にも両岸に古隅田川の旧堤防が はっきりと残っている。両岸ともに旧河川敷の中 (堤外地)には、民家が建てられているが、 右岸の旧堤防は古隅田公園として整備されている。 宮川小学校の西側では古隅田川の左岸へ上院落(注1)が 合流している。上院落は慈恩寺沼の排水路として 開削されたもので、現在は慈恩寺親水公園(慈恩寺沼の 跡地)の付近から始まり、途中、古隅田川の旧堤防を 樋管で横断して流れて来る。古隅田川の右岸側が 自然堤防が発達した低地なのに対して、左岸側は 侵食され、谷が発達した台地(慈恩寺台地)だ。 |
(2)城殿宮橋〜埼葛火葬場の付近(上流から) 左岸:春日部市内牧、右岸:春日部市新方袋 (1)から700m下流。城殿宮橋(きどのみや)の名は、内牧村に あった城殿明神社に由来するのだろう。左岸橋詰には 古隅田川排水改良事業記念碑、土地改良記念碑などが建てられている。 碑文によると、嘉永元年(1848)には悪水堀 古隅田川 十二ヶ村 組合が結成されている。記念碑の下流では、古隅田川の左岸へ 黒沼用水と豊春用水(共に見沼代用水の支線)の余水(注2)が 排水されている。右岸の旧河川敷は豊春地区市民農園となっている。 なお、古隅田川は昭和20年代まで、写真の中央付近から南(右)へ 向かって大きく蛇行していたが、現在の東(奥)へと流れる流路 (南里掘割)が開削されて直線化された。 旧流路は暗渠となり、上には延長約1Kmの古隅田川緑道が 整備されている。ここから400m南東の満蔵寺には梅若塚と 文政十一年(1828)建立の石橋供養塔が祀られている。 |
(3)栄橋の付近(下流から) 右岸:春日部市南栄町、左岸:春日部市栄町一丁目 (2)から1Km下流。拡幅工事がなされているのだろうか、 川幅(堤防間の幅)は約30mある。栄橋の下流左岸には 梅田落が合流している。右岸の南栄町一帯には 春日部(内牧)工業団地が立地する。工業団地は 古隅田川の旧河川敷の跡地に建設されている。 古隅田川の旧流路は昭和20年代まで、現在の 古隅田川緑道と16号バイパスに沿って蛇行し、 この付近で蛇行が終了していた。春日部高校から 八幡神社(注3)の付近にかけて見られる微高地は おそらく旧流路沿に形成された自然堤防だろう。 なお、古隅田川緑道の付近から栄橋までの約800mの 直線区間(南里堀割)には、右岸だけだが、写真のような 見事な桜並木が続く。栄橋のオレンジ色が川面に映える。 |
(4)東武伊勢崎線の付近(下流から) 右岸:春日部市粕壁、左岸:春日部市梅田二丁目 (3)から600m下流、東武伊勢崎線の古隅田川橋梁の付近。 市街地の喧騒の中に、この一角だけはエアポケットの ように、懐かしい光景が残っている。右岸側には住宅が 林立するが、なぜか左岸側には空き地が残っている。 最下流部だが古隅田川の川幅は狭く、適度な蛇行が心地よい。 古隅田川には堤防が無く(右岸にあった江曾堤の痕跡も 確認不可能)、掘り込み河道のような形態となっているので、 気楽に水辺へ近づける。ただし、水辺に近づくほど、古隅田川の 悪臭が気になる(笑)。ここから200m上流の梅田橋と350m上流の 浜川戸橋には古風な意匠が施されているが、特に浜川戸橋の 欄干には謡曲「都鳥」の場面を表したレリーフが付けられている。 浜川戸橋は明治9年(1876)の時点では、長さが四間半(約8.1m)の 石橋(めがね橋ではなく桁橋)だった。 |
(5)十文橋の付近(下流から) 右岸:春日部市粕壁三丁目、左岸:春日部市梅田一丁目 (4)から600m下流。ここまで古隅田川は、ほぼ東へ 向かって流れてきたが、東武伊勢崎線の下流付近から 流れは急に南へと変わる。この流路は昭和19年から 実施された古隅田川排水改良事業で開削されたもの。 現在はさらに河道の拡幅と護岸工事が実施されている。 なお、十文橋はその前身が賃取りの渡し場であり、 古隅田川の渡河には金十文が必要だったという(注4)。 |
(6)古隅田川の終点(上流から) 左岸:春日部市梅田一丁目、右岸:春日部市粕壁三丁目 十文橋(古隅田川の第一橋)から撮影。古隅田川は 大落古利根川の右岸へ合流して終了する。写真の奥が 大落古利根川と新町橋。かつては、この付近で古隅田川の 右岸へ駒形堀という排水路が合流していた(現在はその形跡は ない)。駒形堀には駒形橋という石橋が架けられていた。 粕壁三丁目の玉蔵院には、駒形橋の建設に関する天保十二年 (1841)再建の石橋供養塔(道標を兼ねる)が残っている。 |
(注1)上院落は古くから存在する排水路であり、明治4年編纂の武蔵国郡村誌(12巻、p71)に、
”上院落:表慈恩寺村・小溝村の地を流れて古隅田川に入る”と記されている。
(注2)黒沼用水と豊春用水に囲まれた約2Kmの細長い土地は、
台地の侵食谷と思われる地形であり、現在は水田となっているが、
かつては黒沼と呼ばれる沼沢地だった。侵食谷は星川の
旧流路(あるいは派川)によって形成されたのだろう。
そして侵食谷の出口が古隅田川の堆積作用によって
閉鎖され、そこに沼が形成されたのだと想像できる。
黒沼は、享保年間に見沼代用水の開削に伴い、干拓されて新田となった。
おそらく、それまでは溜井(ため池)として、周辺地域の農業用水源だったと思われる。
新田への新たな用水路として開発されたのが黒沼用水である。
黒沼用水は菖蒲町菖蒲の中島分水工(見沼代用水)から分水している。
黒沼用水の東側の台地には内牧古墳群があり、内牧という地名は
律令制時代に牧(馬の放牧地)があったことに由来するという説があるなど、
古い時代から人々が住み着いていた地である。
なお、内牧の東側の梅田も、黒沼用水と豊春用水のかんがい区域であり、
百間領に属していた。不思議なのは古隅田川の右岸に位置する新方袋であり、
ここも百間領だった。現在は見当たらないが、往時は古隅田川を横断して
用水を送水する施設(架樋や伏越)が設けられていたのだろう。
(注3)八幡神社周辺の微高地には砂質土が多く分布するようなので、
この地形は古隅田川が形成した河畔砂丘である可能性が高い。
八幡神社は元弘年間(1330年頃)に、春日部氏が鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮を
勧請したのが起源とされる。鳥居には新方荘総鎮守の扁額が掲げられている。
新方(にいがた)とは、現在の古利根川、古隅田川、元荒川に囲まれた地域である。
なお、八幡神社には嘉永六年(1853)建立の都鳥の碑があり、
神社の裏山には富士塚が設けられている。春日部市には富士塚が非常に多い。
(注4)以前の十文橋(十文の渡し)の位置は現在よりも北側、女体神社の
付近だったようである。古隅田川の左岸から200m北の梅田一丁目の
微高地にあるのが、旧梅田村の村社だった女体神社。
延喜元年(901)創立の古社であり、当時、梅田に住んでいた綾部という人物が
伊邪那美(いざなみ)を祀ったのが起源とされる。元和八年(1622)には
二代将軍 徳川秀忠が日光参拝のさいに、この神社に金を寄進したという話も残っている。
新編武蔵風土記稿によれば、梅田村には鎮守(村社)がもう一つあり、
それは雷電社だった。現在の春日部市の市域の大半は下総国だった関係から、
香取神社の分布が多く、かつそれらが鎮守だった事例が多い。
しかし、粕壁宿の近辺に限れば、香取神社はほとんど分布していない。
例えば近隣村の鎮守は、粕壁宿が八幡神社、小渕村が百余尊権現社(現在の鷲神社)、
樋籠村が天神社、牛島村が女体社、樋堀村が白山社である。
なお、梅田の付近の土壌は砂質土で水はけが良いので、ゴボウの生育に適していて、
かつては梅田牛蒡の産地として有名だったそうだ。宮内庁ご用達だったこともあり、
女体神社の鳥居の脇にはその記念碑がある。
梅田は埋田から転じた地名だとされているように、かつては低湿地だった。
低湿地形成の要因は、古利根川から古隅田川が分流する地点の下流に
位置したこと、古利根川から流入した大量の土砂が周辺に堆積したこと、
それによって古隅田川の河道が次第に閉塞されて、水が流れにくくなったこと、
などが挙げられる。つまり、古隅田川は氾濫しやすくなり、周辺に水や土砂を
大量に撒き散らした。土砂で古隅田川の河道が埋め立てられた低湿地が梅田である。
梅田の南側に隣接するのが浜川戸であり、古利根川を挟んだ対岸の
地区名が、小渕である点も興味深い。