越辺川 - 石今橋から樋口橋まで [越辺川のページ一覧]
撮影地:埼玉県比企郡鳩山町、坂戸市
↑石今橋の上流付近(下流から) 右岸:坂戸市北浅羽、左岸:鳩山町石坂 越辺川は河川改修後も適度に蛇行が残されている。 石今橋の上流左岸には上沢樋管、池田樋管、 鳩山樋管が設けられていて、主に鳩山ニュータウンからの 排水が越辺川へ放流されている。左岸の鳩山町側の 地形は丘陵だが、右岸の坂戸市側は低平地である。 そのため鳩山町は排水には有利だが、利水には 不利である。越辺川には多くの堰が設けられているが、 左岸の鳩山町側へ取水しているものは1基もない。 |
↑石今橋(右岸から) 左岸:鳩山町石坂、右岸:坂戸市今西 橋名は石坂の石と今西の今に由来する。現橋は 1993年竣工のRC桁橋(7スパン、全長175m)。 旧橋は木製の冠水橋だったそうだ。石今橋の北(写真の奥) 2.5Kmには物見山(標高135m)が位置し、岩殿観音と 物見山公園がある。ここは昔からの街道であり、右岸橋詰には 道標を兼ねた石橋供養塔が残っている。石今橋から下流へ 400mの左岸には、唐沢川が合流している。合流地点には 地蔵堂と呼ばれる祠があり、回りに5体の石仏が祀られている。 |
↑石今橋の下流付近(上流から) 左岸:鳩山町石坂、右岸:坂戸市善能寺 堤防間の距離は約200mあるのだが、低水路の幅は 30m位なので、高水敷はかなり広めに改修されている。 今では想像もつかないが、明治20年代には堤防改築の 是非を巡って、左岸の今宿村が右岸の入西村を相手に 実に4年間以上もの間、法廷闘争を繰り広げている。 →鳩山町史 第6集、p.118-137 |
↑こはるか池 坂戸市沢木 越辺川の右岸堤防から400m南側に位置する、 外周約600mの池。池の東側(写真手前)には 葛川(高麗川の支川、一級河川)が流れている。 こはるか池は落ち堀(押堀:堤防の破堤による河跡湖)ではなく、 古代の越辺川と高麗川(池から東へ600mの地点を流れる)の 浸食作用で形成されたものだろう。この付近は越辺川に 面して水田が広がっている。 |
↑越辺川橋(関越自動車道)の付近(右岸堤防から) 左岸:東松山市田木、右岸:坂戸市沢木 この付近にはかつて、立野橋が架かっていた。 越辺川橋の下流左岸には、児沢川が合流している。 石坂ゴルフ倶楽部からの排水と周辺の沢の水が 集まった少河川だ。越辺川橋の周辺の広い河川敷は 北入西運動公園として整備されている。 入西(にっさい)とは昭和30年(1955)まで越辺川の 右岸に存在した入間郡入西村に由来する(注)。 越辺川の左岸には堤防はなく、県道248号線が堤防を 兼ねている。右岸の堤防沿いには八幡神社が数多く 分布している。源氏の八幡信仰と関係があるのだろうか。 |
↑赤城堰(下流から) 坂戸市東和田 赤城堰は樋口橋(ひのくち)の上流100mに設けられた、 宮毛田用水(農業用水)の取水堰。宮毛田とは越辺川左岸の 東松山市宮鼻、毛塚、田木地区の略称。 左岸の取水口(赤城樋管)は今はコンクリートで全面的に 改修されているが、以前は煉瓦造りだった。 樋口橋の右岸に位置する東和田地区には、江戸時代に 建立された石橋供養塔が数多く残っている。それらの石橋は 越辺川ではなく、葛川や村内の用排水路に架けられていた。 小規模な桁橋である。なお、樋口橋の親柱には、田木東和田間 新橋架設促進協議会による竣工記念碑(昭和55年)が 付けられている。ここも橋が架かるまでは渡船(樋口の渡)だった。 |
(注)入西村の入西とは、中世の国郡制度のさいに
入間郡を東西に分割管理していた関係から、入間郡の西を
入西郡としていたことに由来する。
旧.入西村の一帯には、今も広大な水田地帯が展開しているが、
この地では古い時代から人々が生産活動を営んできた。
この一帯は入西条里(律令体制化の区画整理された土地)である。
中里、四反田、五反田など、条里制に由来する地名が残っている。