槻川 (大河橋から八高線 槻川橋梁) [槻川のページ一覧]
撮影地:埼玉県比企郡小川町
(1)大河橋の付近(上流から) 左岸:小川町腰越、右岸:小川町下古寺 県道11号線から別れ、ときがわ町方面へと通じるのが 県道273号線。大河橋は273号線が槻川を跨ぐ地点に 架かる。小川町伝統の和紙の生産を支えたのは、 槻川の清流とその水源である比企丘陵の山々だ。 しかし槻川は洪水になると、暴れ川に変貌したようだ。 この付近の上流、腰越地区の左岸には、 築堤記念碑(昭和54年)が建つ。地元有志の発案と 地主の用地無償提供により、堤防の増築が実施された。 |
(2)小瀬田川の合流(上流から) 小川町腰越 写真(1)から300m下流。左岸へ小瀬田川が合流する。 手前が小瀬田川、奥が槻川。小瀬田川は増尾地区と 腰越地区の境界に沿って流れる小河川(渓流)だが、 河床勾配が急であり、流域は砂防指定地となっている。 なお、この付近は昭和30年まで比企郡大河村であった。 槻川と支川の兜川の周辺には、大正末期から 昭和初期にかけて、大河村青年団が建立した道標が 数多く残っている。大典礼に関した記念碑も多く、 大河公民館の前には古い様式の時計台もある。 |
(3)日の出橋の付近(上流から) 左岸:小川町増尾、右岸:小川町青山 写真(2)から400m下流。青山浄水場から北へ200mの 地点に架かるのが日の出橋。右岸には昭和14年建立の 開道架橋記念碑があり、碑文には日の出橋の旧名は 新大河橋であり、昭和9年に建設したが昭和12年に洪水で 流出したことが記されている。最近の槻川は以前よりも 流量変動が激しくなっているそうで、大雨が降ると 急激に増水する反面、その後の減水も急だという。なお、 青山浄水場は槻川および館川から飲用水を取水している。 右岸の県道11号線脇の白山神社には、寛政六年(1794) 建立の道祖神がある。槻川の水害が契機となって 建てられたもので、碑の背面には長文の建立理由あり。 |
(4)栃本堰(左岸下流から) 左岸:小川町大塚、右岸:小川町青山 写真(3)から200m下流。栃本堰は槻川の流路が東へと大きく 蛇行した地点に設けられている。農業用水の取水堰であり、 左岸へ小川用水を分水している。槻川の水は飲み水だけでなく、 農業用水としても使われている。栃本堰はかなり改修されて いるようだが、基本的には本体は練り石積みの堰堤であり、 旧態と思われる痕跡が随所に残っている。 左岸側には鋼製スライドゲート(幅3.0m)が3門、 右岸側には鋼製転倒ゲート(幅8.0m)が1門装備されている。 槻川の河道を完全に塞いでしまう堰だが、意外に洪水吐は小さい。 なお、栃本堰から北西へ600mに位置する穴八幡古墳は 7世紀後半に造られた県内最大級の方墳(埼玉県指定史跡)。 |
(5)馬橋の付近(下流から) 左岸:小川町小川、右岸:小川町青山 写真(4)から500m下流。槻川の左岸側は岸辺にまで 民家が軒を連ねている。左岸側が小川町の中心部で ある(注1)。馬橋は県道30号飯能寄居線の道路橋。 改築されているが、袖柱や親柱には旧橋の面影が残る。 馬橋の左岸には埼玉県製紙工業試験場(旧小川製紙 研究所)がある。なお、馬橋の上流に架かるのは 相生橋で、その橋詰には竣工記念碑(昭和35年建立)が 建てられている。槻川の橋には竣工記念碑が多い。 これは地元が建設費用を捻出して架けた橋が 多いためであろう。 |
(6)JR八高線 槻川橋梁(左岸上流から) 左岸:小川町小川、右岸:小川町青山 写真(5)から300m下流。写真の奥に見えるのは仙元山 (標高299m)。中腹には仙元山見晴らしの丘公園が 設けられている。JR八高線の小川町の区間は、昭和9年(1934) 3月に開通している。槻川橋梁の桁には昭和8年製造を示す銘板が 付いている。八高線が開通した時に建設された橋梁である。 ほとんどその当時の形態のまま現在に至っている(注2)。 なお、槻川橋梁の上流右岸には淡島神社が祀られているが、 これは江戸時代に和歌山市加太の淡島神社から当地に 遷宮したものだという。小川和紙を代表する細川紙は 紀州の細川村(和歌山県高野町)の技術を受け継いだものだ。 |
(注1)馬橋の左岸橋詰から北へ400mの地点、県道11号線(秩父往還)の
本町二丁目交差点には、小川町の道路元標が設置されていた。
これは大正8年(1919)に公布された道路法施行令に基づき、
旧小川町の道路の起点を示すものとして、大正末期から昭和初期の間に
設けられたものだ。道路改修に伴い、道路元標は移築され、
現在は小川町役場の敷地内にある。
なお、小川町は比企丘陵に囲まれた盆地であり、風情が漂う
歴史ある街並みと水辺の景観から小京都と称されている。
槻川は京都の鴨川と同じ役割を果たしていることになる。
町の中心部に造り酒屋が多いのは、やはり、綺麗な水が豊富なためだろう。
小川町の伝統工芸である和紙製造は、太平洋戦争時には国策により
軍需産業へと移行させられた。物資が不足する中、和紙は皮革の代用品として
軍用紙などに使われた。昭和11年(1936)に設立された小川製紙研究所も
和紙製造の軍需産業転化への目的を担った部分が大きかったのだろう。
驚くべきことに、小川町の和紙は風船爆弾の気球用紙としても使われた。
手漉き和紙なので生産量が絶対的に不足するので、後に岐阜、鳥取、
高知なども製造に加わるが、日本で最初に採用されたのは小川町の和紙である。
ふ号と呼ばれた風船爆弾は、直径10mの気球(紙風船)の下に爆弾を
搭載したもので、偏西風に乗せて、アメリカ本土を攻撃するのが狙いだった。
6ケ月間に約9000基を打ち上げ、そのうち米国本土まで到達したものは
わずかに285基だったが、それでも日本が米国本土を攻撃できた唯一の兵器だった。
小川町の和紙の軍需化については、[小川町の歴史 通史編 下巻、p.503-516]に
詳細な記述がある。
(注2)小川町を走っている、もう一つの鉄道が東武鉄道の東上線である。
東武東上線の小川町区間の開通はJR八高線よりも早く、大正12年(1923)である。
小川町の区間には開通当初に建設された古い橋梁が10基近くも残っている。
大正末期は土木材料としてコンクリートが、普及し始めた頃であり、
それを示すかのように、東上線の橋梁は煉瓦造り(橋脚や橋台)と
コンクリート造りが半々の比率で分布していて興味深い。
→小川町の区間の東武東上線の橋梁