荒川 - 荒川水管橋と大芦橋の周辺 [荒川のページ一覧]
撮影地: 埼玉県北足立郡吹上町(ふきあげ)
この付近から荒川の流域は、荒川扇状地の扇端から沖積低地へと移行する。
![]() ↑荒川の左岸堤防(荒川水管橋から上流へ800mの地点) 写真は川裏から。荒川の堤防の高さは2階建ての民家と ほぼ同じ位だ。堤防天端は車も通行できるが、意外に 交通量は多い。中央の小段(こだん)は歩行者専用道兼 サイクリング道路。写真の奥に見えるのはスーパー堤防の 上に建設された荒川パノラマ公園。名前のとおり、 晴れていれば、周辺の山々を360度展望できる(富士山、 秩父連峰、浅間山、赤城山、日光連山、筑波山)。 かつては上流の左岸堤防、久下の長土手が、中山道の 風光明媚な名所として名をはせたが、今は 荒川パノラマ公園がそれに取って代わった。 なお、荒川は桜を贈呈したことから米国のポトマック川と 姉妹提携を計画しているそうだ。 |
![]() ↑大芦橋(荒川の左岸上流から) 左岸:北足立郡吹上町大芦、右岸:大里郡大里町小八林 大芦橋は県道66号行田東松山線の橋で、荒川水管橋の 上流500mに位置する。荒川と和田吉野川を跨いでいる。 全長1016m、昭和54年(1979)竣工。大芦橋ができるまでは 吹上町から大里村へ行くには、荒川の大芦橋(冠水橋)と 和田吉野川の吉見橋を渡っていた。それより以前は 大芦の渡し(注)と呼ばれる渡船だった。大芦橋の周辺には、 名前のとおり芦が群生している。大芦橋の右岸側には 横手堤(横見郡が大里郡内に設けた荒川の控堤、 今もその跡地:大芦橋の右岸取り付け道路は吉見町の 飛び地)の跡が残っている。横手堤の付近には農業用の 石造りの水門、分量樋(大正2年竣工)も残っている。 |
![]() ↑大芦橋の親柱と荒川水管橋(大芦橋から) 荒川水管橋の左岸側の堤防裾(川裏)には、延宝八年 (1680)建立の塞神(さいのかみ)が祀られている。 これは埼玉県北部に顕著な石仏であり、道祖神とほぼ同じで 村へ悪病や災いが入り込むのを防ぐ一種の結界である。 なお、荒川左岸堤防には、荒川パノラマ公園の北側から 水防倉庫の付近(吹上町小谷)まで約3kmに渡って コスモスが咲き乱れる(荒川コスモス街道)。 ここから1Km下流の左岸堤防もスーパー堤防となっていて、 上には吹上町民体育館と総合運動場が設けられている。 かつて左岸堤防の裾には、長淵と呼ばれた延長が2.5Kmにも 及ぶ湖沼が存在していたが、明治19年に周辺の村々に よって、埋め立て工事が実施された。→填長淵記 |
![]() ↑堤防に祀られた石仏群(左岸から) 吹上町三丁免〜小谷 吹上町民体育館から1Km下流。三丁免とは中世の荘園制度に 由来する地名だろうか。吹上町には鎌倉時代の板石塔婆が 多く現存している。荒川の左岸堤防裾(川裏)には 庚申塔(道標兼)、馬頭観音、水神、九頭龍神社など 7基の石造物が祀られている。この付近の河川敷内には 昭和初期まで、五反田の渡しと五反田河岸があった。 水神や九頭龍は水運の安全と洪水の鎮静を祈願したのだろう。 右岸の大里町小八林の河川敷内にも水神宮が祀られている。 なお、この石仏群の脇を、荒川の左岸堤防に沿って流れる 排水路は下流では足立北部排水路となり、鴻巣市糠田で 荒川へ合流する。足立北部排水路の流路の一部は、 荒川の太古の流路跡を改修したもの。 |
![]() ↑和田吉野川の合流(下流から) 右岸:吉見町上砂、左岸:吹上町小谷(こや) 荒川水管橋から1Km下流、河川敷の中。 左岸の河川敷には民間有志が建設した、 埼玉フライングクラブ 吹上飛行場がある。 ゴルフ場の北端では右岸へ和田吉野川が 合流している(写真の左端)。昭和初期まで 和田吉野川は大芦橋の付近で荒川へ合流していた。 なお、旧小谷村では明治期には煉瓦工場が開業している。 大正時代に設置された小谷村の道路元標は今も残っている。 |
![]() ↑荒川の河道(上流から) 左岸:吹上町小谷、右岸:吉見町地頭方(じとうほう) 荒川水管橋から下流へ3kmの地点(標高はAP+20.414)。 なかなか、お目にかかれない荒川の低水路。 護岸が施されていないので、自然河川のように見えるが、 実は昭和初期に大改修(掘削)した人工河川である。 河川敷には思ったよりも砂が多い。この付近には 五反田の渡しがあり、小谷村と北吉見村を結んでいた。 右岸の河川敷は、埼玉県民ゴルフ場となっているが、 五反田の渡しを偲ばせる寛政三年(1791)建立の 道標(道しるべ)が残っている。 |
(注)大芦の渡は、武蔵国郡村誌の足立郡大芦村(3巻、p.244)に、以下のように記されている。
社渡:”松山道に属し村の西南 荒川の中流にあり 渡船二艘 人渡馬渡 私渡”
名前が社渡となっているが、松山道が通っていて場所が大芦橋の付近に相当するので、
これは大芦の渡に間違いないであろう。松山道は古くは日光脇往還(八王子千人同心道)と
呼ばれていた。路線は現在の県道66号行田東松山線よりも南東へ200mに位置し、
荒川の渡河地点は旧大芦橋の跡地付近であった。吹上町大芦地区には
旧街道跡が残り、沿線には道六神(道祖神)の祠や松山道、五反田河岸と
記された江戸時代の道標(塞神)が今も建っている。
大芦の渡しは船二艘(人渡一艘と馬渡一艘)常備だが、
これは当時の渡しとしては、平均的な規模である。
馬渡とは馬が乗れるように改造された大型船を使った渡しのこと。
馬と舟の組み合わせによって、大量の物資の搬送が可能となる。
なお、武蔵国郡村誌は明治9年(1876)の調査を基に編纂されている。
大芦の渡は河岸場も兼ねていたが、大芦橋の下流の右岸河川敷には
河岸業に従事していたと思われる民家の屋敷林と水神宮が残っている。
大芦河岸は江戸時代には、忍藩の年貢(江戸廻米)の積み出し所としても使われたが
明治9年の時点では、かなり規模が小さくなっていたようだ。
武蔵国郡村誌には荷船2艘(六十石積1艘、四十八石積1艘)の記述がある。
六十石積とは大型の荷船(おそらく帆船で高瀬船)であり、米俵が150俵も積める。
対岸の小八ツ林村にも荷船2艘(三十五石積1艘、三十石積1艘)とある。
荒川で筏流しが盛んだった頃、小八ツ林村にはドバ(土場)があり、
上流から運ばれて来た木材(いわゆる西川材)は、荒川の河川敷へ荷揚げされ、
筏の組み替えなどが行なわれた。筏師が泊まるための筏宿もあった。