元荒川  起点と源流  [元荒川のページ一覧

 元荒川(もとあらかわ)は延長61Km、流域面積216Km2の中川水系の一級河川。
 埼玉県熊谷市佐谷田(さやだ)を管理起点とし、おおむね南東へ向かって流れ、
 行田市、吹上町、鴻巣市、川里町、菖蒲町、桶川市、蓮田市、白岡町、岩槻市を経由して、
 最後は越谷市中島で中川の右岸へ合流する。合流地点には水神社が祀られている。
 元荒川は山地水源を持たない河川であり、標高約25mの平地から流れ出す。

 かつての元荒川は荒川扇状地の湧水を水源としていたが、次第に水源は枯渇し、
 現在の源流はポンプで汲み上げた地下水(人工水源)である。
 流域全体の主な水源は生活排水と農業排水だ。流路はおおむね低地にあるが、中流部の菖蒲町から
 蓮田市にかけては台地上を流れる区間もある。元荒川の流域は都市化が進行しているが、
 今なお自然が豊かで農村景観が色濃く残るのが、この中流部の区間である。

 元荒川の主な支川は上流から順に鎌塚落前谷落忍川栢間赤堀赤堀川野通川星川
 日川水路、逆川(葛西用水)があり、赤堀川以外はみな左岸へ合流している。
 鴻巣市の区間では、武蔵水路(利根大堰から取水する都市用水路)が元荒川の派川として
 機能している。洪水時には武蔵水路は元荒川の放水路として利用されている。
 なお、元荒川には用水路との立体交差地点が多く、例えば武蔵水路、見沼代用水、
 葛西用水(逆川)が元荒川の下を伏越(サイフォン)で横断している。武蔵水路と葛西用水の
 伏越は近年に設置されたものだが、見沼代用水の柴山伏越は起源が享保13年(1728)と古い。

 農業用水路としての元荒川:
 治水的観点からは、元荒川は山地水源を持たない内水河川だが、利水的観点からは
 用排水兼用の河川であり、上流から順に榎戸堰(吹上町)、三ツ木堰(鴻巣市)、
 宮地堰(鴻巣市)、末田須賀堰(岩槻市)と4基の取水堰(農業用水)が設けられている。
 昭和初期までは、これらの他にも笠原堰(鴻巣市)と栢間堰(菖蒲町)があり、合計6基の
 取水堰が存在したが、笠原堰と栢間堰(小竹堰)は宮地堰へ合口され廃止された。
 6基の取水堰は全て煉瓦造だった:榎戸堰三ツ木堰宮地堰笠原堰栢間堰末田須賀堰

 元荒川へは支川を経由して、荒川、利根川、福川から取水した農業用水(大里用水、見沼代用水、
 酒巻導水路)の余水や流末が流れ込んでいる。前述の4基の取水堰によって、それらの水を貯留し、
 水位を高めることで農業用水として再利用している。昭和30年代までは瓦曽根溜井(越谷市)までの
 区間が用排水兼用だったが、瓦曽根溜井に中土手(背割堤)が築かれ、用水(葛西用水)と排水が
 分離されたので、現在は末田須賀堰の下流から終点までが、排水専用河川となっている。

 元荒川の誕生:
 寛永6年(1629)の荒川の瀬替え(補足)によって、荒川が熊谷市久下付近で締め切られるまでは、
 名前が示すとおり、元荒川は荒川の本流であった。そして近世以前の荒川は利根川の支川だった。
 荒川と利根川は長い間、埼玉平野を蜘蛛の巣のように乱流して流れていて、洪水などの度に
 自然に流路を変えていたので、利根川が荒川の支川だった時代もあったことだろう。
 特に熊谷市の付近は、荒川扇状地の扇端部であり、荒川の河床勾配は急激に緩やかになるので、
 土砂の堆積作用が顕著となり、近世以前には多くの派川が形成されていたと思われる。
 現在は元荒川の支川である忍川や星川が荒川の派川だった時代や、あるいはそれらが荒川の
 主流だったこともあったと思われる。ちなみに忍川の上流部は旧埼玉群と大里郡の郡界を流れている。
 また現在、荒川から取水している六堰用水も荒川の旧流路跡であり、各用水路の路線は明らかに
 荒川の派川跡を整備し直したものである。六堰用水の流域には、荒川の氾濫原の面影が色濃く残っている。

 いずれにせよ、近世初頭には荒川と利根川は、最後は江戸湾(東京湾)へ流れ込んでいた。
 荒川の瀬替えは大宮台地の東側だった荒川の流路を、新しく西側の和田吉野川市野川
 入間川へと繋ぎ変えたので、利根川の東遷に対して荒川の西遷とも呼ばれる。
 荒川の瀬替え工事を指揮したのは関東郡代 伊奈忠治である。瀬替えの目的は、中山道の整備のため、
 新田開発のため、水害を防ぐため、秩父から江戸への木材輸送路を確保するためなどの諸説がある。
 なお、荒川は昭和初期に近代改修が実施され、大規模な築堤と遊水地(河川敷)の造成に伴い、
 それまでの蛇行流路が直線化された。荒川の河川敷内には旧流路跡が現存し、旧荒川と呼ばれている。
 旧流路跡は鴻巣市から桶川市にかけて顕著である。旧荒川は荒川の瀬替えの名残りの流路といえる。

 郡と寺社分布の境界:
 元荒川は起点付近を除けば、備前堤までの区間は左岸側が旧埼玉郡、右岸側が旧足立郡である。
 元荒川の起点付近は、両岸(旧佐谷田村と旧久下村)が旧大里郡だった(注1)
 なお、備前堤とは桶川市に残る旧堤防で、荒川(現在の元荒川)から綾瀬川を分離するために
 慶長年間(1600年頃)に築かれたとされる。そして備前堤から下流は元荒川ではなく、
 綾瀬川(こちらが荒川の主流だったと思われる)が、郡界を規定している。
 綾瀬川の左岸側が旧埼玉郡、右岸側が旧足立郡である。
 興味深いことに、荒川の主流(元荒川〜備前堤〜綾瀬川)は、神社分布の境界線にもなっている。
 左岸側に久伊豆神社、右岸側には氷川神社が分布している。もっとも上流部には例外もあり、
 行田市野と騎西町下崎は元荒川の左岸だが、氷川神社が存在する。行田市野の氷川神社は
 水防祈願として祀られているようなので、水神社ということになる。また、現在は改称されているが、
 吹上町袋の袋神社(左岸側)は氷川神社、女體神社(女体)、諏訪神社などの6社を合祀したものだ
 さらに古代の荒川の流路変遷と関係が深い福川には、左岸の妻沼町弥藤吾に氷川神社が存在する。
 ちなみに埼玉県域の神社分布の特徴は、氷川神社の西側には白髭神社、久伊豆神社の東側には
 鷲宮神社、さらに東に香取神社が分布することである。一般的に氷川神社、香取神社は歴史が古いので、
 律令国家との結び付きが強かったのに対して、久伊豆神社、鷲宮神社は新興勢力であり、
 比較的歴史が浅いとされている。なお、久伊豆神社の本社は騎西町騎西の玉敷神社、
 氷川神社の本社は、さいたま市高鼻町四丁目の氷川神社(武蔵国一の宮)である。

 舟運と取水堰:
 元荒川は綾瀬川と同様に、頻繁に蛇行を繰り返して流れる河川だったが、綾瀬川が
 その特性を生かして舟運に利用されたのに対して、元荒川は農業用水の取水に使われた。
 慶長年間(1600年頃)には、末田須賀溜井(岩槻市)や瓦曽根溜井(越谷市)が既に開発されて
 
いたようである。綾瀬川に比べて元荒川には河岸場が少なかったが、取水堰の数は多かった。
 これは逆に見れば、取水堰が多く設置されていたので通船の邪魔になり、
 舟運が発達しなかったともいえる。ともかく元荒川は農業用水源として位置付けられ、
 取水堰が数多く設けられたので、流域では近世初頭から新田開発が進行した。
 農業用水の取水方式は、元荒川に溜井(貯水池の一種)を配置し、その下流端に取水堰を
 設け、河道を完全に堰き止めて、元荒川の水位を堰上げて分水する方式だった。
 元荒川は流頭を締め切られた水源を持たない河川であるため、
水量は不足しがちだったのだろう、
 用水は高度に反復利用されていて、水の還元率が高いのが特徴である。
 つまり、元荒川から取水した水は元荒川に戻された。ただし、これは末田須賀堰(岩槻市)の
 上流までであり、末田須賀堰および瓦曽根溜井から取水された水は元荒川へは戻らない。

 元荒川の近代化遺産:
 元荒川の蛇行を解消して、直線流路とする工事は江戸時代から行われていた。
 これらは水害を防ぐために、主に村を単位とした規模で実施されたもので、流域全体を
 捉えた一貫した工事ではない。元荒川を排水幹線水路として位置づけ、本格的な改修工事が
 実施されたのは、大正末期から昭和初期にかけて埼玉県が実施した
元荒川支派川改修事業
 最初である。この事業では元荒川の河道の拡幅・浚渫、蛇行の解消が実施された。
 排水改良だけでなく、
平水時の水量増加の対策も施され、福川から取水する酒巻導水路
 新設され、忍川と星川を経由して元荒川へ水が補給されている。
 
元荒川の上流部には、明治時代に建設された煉瓦水門の遺構が数多く存在する。
 また、元荒川支派川改修事業によって、昭和初期に建設された
古い橋梁や水門も
 数多く残っている。これらの河川構造物には現代では目にすることができない、
 秀逸な意匠が施されている。まさに近代化遺産と呼ぶにふさわしい。


(追補) 元荒川の橋梁群は、土木学会の[日本の近代土木遺産]に選定された。
  →
 日本の近代土木遺産のオンライン改訂版、書籍版は日本の近代土木遺産(土木学会、丸善、2005)。
 なかでも、鉄道の古レールを使ったアーチ橋群は、国の重要文化財に匹敵する価値を持つ、
 一級品の土木構造物であるとして、最高位のAランクに評価されている。→
 古レールのアーチ橋

 元荒川の管理起点
(1)元荒川の管理起点 (上流から撮影)
 埼玉県熊谷市佐谷田(さやだ)3951付近

 県道257号冑山熊谷線と元荒川通が交差する地点から
 北へ70m、257号線の脇に一級河川の管理起点が
 設けられている(写真の右上)。起点の標高は約24m。
 この薄暗く汚れた流れは、ここから200m西側の
 大雷神社の付近から始まっていて、それが佐谷田と
 久下の境界となっている。大雷神社の鳥居の脇には
 
大字 基標と刻まれた古い様式の水準点が残っている。
 かつては大雷神社の敷地内に湧水があり、それが
 元荒川の源流の一つだったが、現在は水源は完全に
 枯渇している。この流れは見ての通りの生活排水路で
 あり、ゴミが浮遊しているうえに、水は濁っていて悪臭が
 酷い。この流れから60m南側には、元荒川の源流と
 される、もう一つの流れがあって(この生活雑廃水路の
 存在は、表に出したくないのだろう)、2つの流れは
 帰帆橋(元荒川通)の下流で合流している。
   元荒川の源流
  (2)元荒川の源流 埼玉県農林総合研究センター
   埼玉県熊谷市佐谷田(さやだ)

   農林総合研究センターは、荒川の左岸堤防に隣接して
   建てられている。敷地内に設けられた水槽では、淡水魚の
   原種の保存をおこなっている。この施設の敷地内に
   現在の元荒川の源流がある。源流からの流れは写真(3)や
   (4)の水路となるが、大半の区間jはコンクリートで蓋がなされ、
   暗渠(地下水路)となっている。数年前までは、元荒川の源流は
   荒川の湧水(複数箇所)だったが、すっかり枯渇してしまったので、
   現在はここから地下水を、ポンプで汲み上げて元荒川へ
   送水しているそうだ。この付近は荒川が形成した扇状地の
   扇端部であり、かつてはあちこちで湧水が見られたという。
   荒川の湧水は水量が豊かで水質も良好だったので、
   それを利用した飲料水用の井戸もかなりあったそうだ。
   なお、元荒川が準用河川だった頃の管理起点は、
   ここから5Km下流の吹上町榎戸に設けられていた。
   旧中山道の傍らに、今もその
標石が残っている。   

 研究センターの東側
(3)研究センターの東側 (上流から撮影)
 源流から100m下流の地点。川幅は1.5mくらいで、
 流路は適度に蛇行している。写真(1)とはまったく違う、
 明るく美しい流れである。あちこちにムサシトミヨ
 (トゲウオ科の魚、天然記念物)の説明板や立て札が
 建てられている。ムサシトミヨは絶滅危惧種、世界で
 熊谷市にしか棲息していない(とされている)。
 まさに元荒川を象徴する魚であり、佐谷田地区には
 その名を冠したムサシトミヨ西橋と東橋という橋まで
 架けられている。さすがにムサシトミヨ通というのは
 存在しないようだ。

   元荒川の様子
  (4)元荒川の様子 熊谷市久下(くげ)
   まだ写真(1)の流れが合流していないため、元荒川は清流だ。
   水道水と同等の水が送水されているので、透明度が高い。
   元荒川の中には水草(ヨシ、キショウブ、コカナダモ)が
   繁茂しているのが見える。葉や茎が水中でゆらゆらと
   揺れている。これらの水草は、隠れ家や産卵の場所になるので、
   ムサシトミヨが好む環境になっている。もっとも、透明な水や
   豊かな水草は自然本来の姿ではなく、(ムサシトミヨを保護
   するために?)人工的に維持管理された河川環境なわけだが。
   しかし、ムサシトミヨの魚影は見えない。
   本当に棲息しているのだろうか。

 熊久橋(ゆうきゅう)の付近
(5)熊久橋(ゆうきゅう)の付近(右岸から)
 左岸:熊谷市佐谷田、右岸:熊谷市久下

 起点から700m下流の地点。元荒川の右岸へは、写真の
 手前から流れてくる細流が合流している。細流に架かる
 熊久橋は旧中山道の橋である。細流の上流(水源)には
 養魚場が数多く分布しているが、それらは荒川の
 旧流路跡だという(注2)。左岸に見える雑木林は
 ムサシトミヨふるさとの森。クヌギやケヤキなどの落葉樹が
 繁茂している。旧街道と雑木林、そして元荒川によって
 形成された懐かしい景観が今も残っている。
 この地点から南側400mには荒川が流れ、木造の
 冠水橋(沈下橋)である
久下橋が架けられている。
 またここから北へ400mに位置する長福寺の門前には、
 弘化三年(1846)建立の
石橋供養塔がある。かつて
 元荒川の上流には数多くの石橋が架けられていた(注3)

   

  (6)起点から1Km下流 (上流から撮影)
   左岸:熊谷市佐谷田、右岸:熊谷市久下

   この付近では、元荒川は住宅地の間を縫うように流れて
   いるので、元荒川の流路を見つけるのは容易ではない。
   元荒川の岸辺には、地元の人々が育てた見事なカラー(植物)が
   繁茂している。元荒川が地元で愛され、大事にされている証だ。
   なお、左岸の熊谷市佐谷田には、帰帆という古風な地名が
   残っている。江戸時代以前、旧荒川(瀬替えされる前の
   元荒川)の舟運が盛んだった頃の名残であろうか。

   この付近には写真のような古い堰(コンクリート製)が
   距離を置かずに2基設けられている。農業用水の取水堰だと
   思われるが、付近には取水口が見当たらないので、
   もう使われていないのだろう。でもなかなか味わいがある。
   なお、元荒川の両岸には大正時代末期に設置された、
   佐谷田村と久下村の
道路元標が今も残っている(注4)

(注1)ここでの郡は明治22年(1889)以前の区分を指している。現在の郡の区分は
 同年に施行された郡区町村編制法によってほぼ確定している。例えば埼玉郡は北埼玉郡と
 南埼玉郡に分かれている。ちなみに郡役所は以下の町に置かれていた。大里郡が熊谷町、
 北埼玉郡が忍町(現在の行田市)、南埼玉郡が岩槻町、北足立郡が浦和町である。
 なお、近世初頭には荒川は、大里郡内を流れていたが、それ以前には荒川扇状地を
 乱流していた時代もあり、例えば幡羅郡(明治29年に大里郡へ編入)と埼玉郡の
 境界(現在の
福川の流路に相当)、埼玉群と大里郡の境界(現在の星川
 
忍川の流路に相当)を流れていたこともあった。
 参考:荒川中下流流路変遷図、荒川上流改修六十年史、荒川上流工事事務所、1979など

(注2)新編武蔵風土記稿(江戸時代末期の編纂)の大里郡之一(11巻、p.83)には
 ”此流の外にも久下村のあたりに、元荒川跡と號するもの十四箇所あり、皆池沼なり”と
 記されている。此流とは元荒川の流路のこと。14箇所の池沼は今は養魚場へ変貌している。
 なお、同書には旧荒川が一旦流れを変えたさいの跡が古川として残り、江川村と
 下久下村の北界にあって、水の流れもあるとも記されているが、この流れは
 現在は消滅している。久下村の付近は、旧荒川の河床勾配が急激に緩やかに
 なる変曲点であり、地理学的には扇状地河川から三角州河川への移化帯である。
 したがって土砂の堆積が多く、流路の変流や乱流を生じやすかった。
 旧荒川が多くの派川を形成して流れていても不思議ではなかった。
 なお、江川村(現在は熊谷市久下)とは、吹上町荊原との境界付近を指す。

(注3)武蔵国郡村誌によれば、明治9年(1876)の時点で、元荒川の上流部には
 熊久橋、分出橋、保全橋(以上、久下村)、磬打橋(佐谷田村)などの石橋が
 架けられていた。熊久橋は旧中山道の橋だが、それ以外は村道の橋である。
 元荒川の川幅は場所によって大きく変化していたようで、最も大きかった橋は保全橋で
 長さが五間(9.1m)、最も小さかったのは磬打橋で長さが一間(1.8m)である。
 平地に設けた小さな石橋なので橋の形式は桁橋だろう。
  石の桁橋

(注4)久下村の道路元標は、久下神社の脇にあるが、
 久下神社の境内には金毘羅宮、九頭龍大神、弁財天の祠がある。
 これらは全て水の神様である。場所柄から水難祈願のために祀られたものだと
 推測される。なお、久下地区には八幡神社(吹上町北新宿と荊原の境界付近)に
 九頭龍大権現と安政三年(1856)建立の水神宮も祀られている。
 こちらは新川河岸(荒川にあった河岸場)との関連が高いと思われる。
 元荒川の沿岸には今もなどの水に関する神様が数多く祀られている。
  元荒川の水神


(補足) 荒川の瀬替え

 伊奈氏は荒川の瀬替えを実施する30年以上前から、様々な河川工事を進めていた。
 まず最初に綾瀬川が締め切られている。かつて綾瀬川は荒川(現.元荒川)の派川(幹線?)だったが、
 慶長年間(1600年頃)に治水と流域開発を目的として、荒川からは完全に切り離されている。
 現在も綾瀬川の管理起点付近に残るのが、その締め切り堤防だった備前堤だ。
 備前堤は綾瀬川の締め切り後には、村囲堤(現在の伊奈町、蓮田市、岩槻市方面を
 洪水から守る)として使われた。ただし、備前堤の高さや規模をめぐって上流と下流の村々で
 紛争が絶えなかったようで、備前堤の上には御定杭(堤防の基準高を示した杭)が2基残っている。
 なお、備前堤の備前とは、綾瀬川の締め切りを行なった伊奈備前守忠次(忠治の父に由来する。
 ちなみに伊奈氏の土木技術は伊奈流と称せられた。荒川の幹線ともいえる綾瀬川を、
 伊奈流がいかに優れていたとはいえ、近世初頭の人力主体の土木技術で締め切れたことから、
 慶長年間には綾瀬川の分流付近では、荒川の水量は既にかなり少なくなっていたことが予想される。

 伊奈忠次は綾瀬川の締め切り後、慶長年間(1610年前後)に川島領(現在の比企郡川島町)の
 囲堤(かこみてい)を増築した。さらに元和年間(1620年前後)には関東郡代 伊奈忠治が吉見領
 (現在の比企郡吉見町)に囲堤を築いている。これらは川島領と吉見領を水害から守るためである。
 この時、築かれた川島領囲堤吉見領囲堤は、ほぼ現在の市野川と荒川の右岸堤防に相当する
 さらに伊奈忠治は元和7年(1621)には、和田吉野川の右岸に相上堤築いている。
 これは大里郡域(現在の大里郡大里町)を、和田吉野川の洪水から守るためだと思われる。
 以上のように、荒川の瀬替え地点よりも下流にあり、荒川の流れとは直接関係がない川島領と
 吉見領(共に現在は
荒川流路の右岸側)において、相次いで堤防の増築および新築がなされている。
 
また、相上堤は荒川の瀬替え地点から南へ約3Kmの地点に位置するが、その形態は村囲み堤を
 兼ねた水除堤であり、これは当時の和田吉野川が頻繁に氾濫していたことを示している。

 一方、荒川(現在の元荒川)には榎戸堰(吹上町)、三ツ木堰、宮地堰、笠原堰(以上3基は鴻巣市)、
 小竹堰(菖蒲町)と5基もの取水堰が、荒川の瀬替え以前の慶長年間に設けられていたとされる。
 これらの堰の形式は河道を完全に塞いでしまう関枠ではなく、洪水時には緊急に撤去が可能な草堰や
 石堰(蛇籠)だったようである。形式はともかく河川に堰を設けることは、一種の締め切りであり、
 河道が狭められるので洪水の流下を著しく阻害する。にもかかわらず、堰が設けられたのは、
 流域の開発が進行して用水不足が顕著になっていたこと、当時の荒川の水量はかなり少なくなって
 いたので堰の建設が可能だったこと、堰上げしてまで取水する必要性に迫られていたことの傍証となる。
 なお、元荒川にあった6つの堰(上述の5基と岩槻市の末田須賀堰)は明治期には、
 当時の最先端の形式だった煉瓦造で改築されている。→埼玉県の煉瓦水門

 以上述べた土木工事は、荒川の瀬替えよりも10年から20年前に実施されている。
 これら一連の事例から推測すると、瀬替え当時の荒川は既に熊谷市久下付近で分流していて、
 水量の大半は元荒川の方ではなく、和田吉野川(あるいは通殿川)へ向かって流れていたと考えられる。
 もし、通殿川へ荒川の水が流れていたのなら(人の手が加わったのか、自然にそうなったのかに関わらず)、
 瀬替えに向けて非常に好都合であり、仮廻し水路的な役割を果たしていたことになる。
 現在の通殿川は和田吉野川の支川だが、そうなった原因の一つは荒川の洪水だといえる。

 地理学的に現在の荒川を見ても明らかなのだが、荒川の河況は瀬替え地点(久下橋の付近)で、
 扇状地河川から移化帯河川へと移行している。久下橋から2km上流の荒川大橋の付近では、
 流れには扇状地河川に特有な網状流が顕著である。つまり、この付近の荒川は自然に任せておけば、
 すぐに乱流して派川を形成するのである。例として、(注2)で述べたように、江戸時代末期でさえ、
 久下村の付近には元荒川跡と称された湖沼が、十四箇所も存在していた。また古川と呼ばれる変流跡には
 水の流れがあった。荒川大橋よりも上流の左岸側には、荒川の流路変動とそれに伴う土砂堆積を
 偲ばせる地名が数多く分布している。熊谷市広瀬、小島、久保島、新島、原島、石原である。
 島が付くものが多いが、それは乱流河道の中に取り残された微高地を指すのだろう。
 一方、扇状地河川の荒川の規模に比べて、熊谷市久下から吹上町にかけての元荒川は、あまりに
 規模が小さい。旧荒川の全水量が流下していたとは考えにくいので、現在の元荒川は派川跡だろう。
 なお、通殿川と和田吉野川は、往古に荒川が乱流していた頃の流路跡だともいわれている。
 古代から中世のある時期には、荒川の水は既に和田吉野川へ流れ込んでいたのである。
 現在、通殿川の水源となっているのは、吉見堰用水(荒川の六堰頭首工から取水する農業用水)の
 流末である。荒川は現在も通殿川を経由して、和田吉野川と繋がっている。

 以上から寛永6年の荒川の瀬替えとは、荒川から和田吉野川へ向かって新川を開削したのではなく、
 既に水量が少なくなっていた荒川の流頭部に締切堤防を築き、荒川への流入を締め切って、
 水流を和田吉野川の方へと導いた工事だったと考えられる。
 同時に和田吉野川の改良工事(河道の拡幅等)も実施されたのだろう。
 荒川の締切堤防は、後に久下の長土手と呼ばれ、堤防上を中山道が通ることになる。
 そしてそこは、昭和22年(1947)のカスリーン台風による洪水で、荒川が決壊した地でもある。


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関連項目:[和田吉野川][通殿川][綾瀬川]  [元荒川の古い橋