通殿川 (その1) (その2

 撮影地:埼玉県熊谷市

 通殿川(づうどの)延長3.7Km、流域面積 7.9Km2の荒川水系の一級河川。
 河川管理上の起点は
熊谷市中曽根〜小泉に設けられていて、起点から県道257号線に
 沿って南下し、熊谷市津田で和田吉野川の左岸へ合流する。
 流路は荒川と和田吉野川の間の沖積低地に位置し、旧大里町内の中央部を流れている。
 通殿川の源流(最上流部)は吉見堰用水と御正堰用水(荒川の六堰頭首工から取水する)の
 流末ある。通殿川は旧大里町の主要排水河川であるが、管理区間には2ケ所に
 農業用水の取水堰が設けられている。

 なお、地元の人々は通殿川を[づうどの]ではなく、[つうどの]や[づどの]と呼んでいる。
 [づどの]とは頭殿の読みであり、通殿と同じく中世の地頭領を意味する言葉である。
 近世には官位名として使われた。例えば掃部頭殿(かもんのかみとの)や頭殿(かうのとの)である。
 通殿川の周辺地域には、頭殿や通殿といった地名や神社が意外に多く分布している(補足)

 現在の流路や周辺の地形から推測すると、通殿川は近世以前は荒川の派川だったと思われる。
 荒川が氾濫したさいの洪水流が、村岡付近から流れ込むことによって、次第に通殿川の流路が
 形成されたのだろう。村岡よりも上流の荒川右岸には、近世になるまで堤防は無かった。
 近世になって吉見堰用水(六堰用水の一つ、江南町樋春で荒川の右岸から取水)が
 開かれると、その流末は通殿川へ落とされた。
 荒川は寛永年間(1630年頃)の瀬替えによって、熊谷市久下から大里町玉作の方へ向かって
 新水路が開削され(開削ではないとする説もある)、和田吉野川へ繋ぎ替えられたわけだが、
 それ以前から荒川と和田吉野川は、通殿川を経由して繋がっていたといえる。

 通殿川の源流の一つ
(1)通殿川の源流の一つ(上流から) 熊谷市村岡
 この水路は吉見堰用水の支線であり、
村岡樋管
 (荒川大橋の右岸橋詰、堤防に敷設)を経由して、
 江南町から流れてくる。村岡地区の周辺は都市化が
 進行しているので都市排水も流入している。
 本来は農業排水路だと思われるが、所々に取水堰が
 設けられているので、現在は用排水兼用だろう。
 写真の左端は吉見堰用水路土地改良区の6号井戸。
 水路の上に渡されたパイプは一種の水路橋である。
   通殿川の源流の一つ
  (2)通殿川の源流の一つ(上流から) 熊谷市小泉
   こちらは写真(1)の西側、上恩田から中恩田地区を流れてくる水路。
   これも吉見堰用水の支線だと思われる。吉見堰用水の吉見とは
   比企郡吉見町のことではなく、旧大里郡吉見村(現.熊谷市相上、
   冑山、箕輪、玉作、津田、向谷、小八林)を指す。
   この水路は高本バス停の地点で、写真(1)の水路の右岸へ合流する。
   写真左上に見える市田村外二ケ村土地改良記念碑には、
   ”昭和28年から昭和30年にかけて、この地区の幹線排水路タル
   通殿川ノ大改修ヲ断行シ”と記されている。

 市田小学校の西側付近
(3)市田小学校の西側付近(上流から) 熊谷市中恩田
 写真(2)から300m下流。約700mに渡って懐かしい
 風景が残っている。護岸は玉石であり、所々に水制の
 木杭が見られる。下流には石造りの川店(川棚)も
 残っていて、生活と川が密接な関係があった時代を
 偲ばせる。通殿川の幅は約2.5mと狭いのだが、
 それでも水量は意外なくらいに少ない。
 しかし、流れる水は透明度が高い。
 橋は架かっていないが、その気になれば対岸へ渡れる。 

   
通殿川の管理起点付近
  (4)通殿川の管理起点付近(上流から)
   左岸:熊谷市小泉、右岸:熊谷市中曽根
   (3)から400m下流。市田農協の脇に架かる中曽根橋が、
   一級河川の管理起点。左岸橋詰に標石(昭和46年3月の銘)が
   設置されている。右岸橋詰には寛政十年(1798)建立の
   馬頭観音(
石橋供養)が残っている。中曽根橋は昭和20年代まで
   石橋だったそうで、当時の橋を記憶している人も多い。
   なお、ここから南へ100m、南市田神社の付近には大正時代末期に
   設置された
市田村の道路元標が今も残っている。南市田神社には
   水の女神である瀬織津姫(せおりつ)が祀られている(注)

 あいの田橋の付近
(5)あいの田橋の付近(上流から)
 左岸:熊谷市小泉、右岸:熊谷市中曽根
 写真(4)から400m下流。典型的な落し(農業排水路)の
 外観が残っている。水鳥も多く棲息するそうで、セキレイが
 飛来することもあるという。この地点は左岸へ
切れ所沼
 からの水路が合流するので、河床には大きな州が
 形成されている。切れ所沼とはここから600m北、
 荒川の右岸堤防裾に位置する河跡湖(決壊跡の沼地)。

   
堰上橋の付近
  (6)堰上橋の付近(下流から)
   右岸:熊谷市中曽根、左岸:熊谷市津田新田
   写真(5)から1Km下流。通殿川にはコンクリート護岸が施され、
   狭かった川幅は約5mと広くなる。写真の右上に見えるのは、
   荒川の右岸堤防と
新久下橋(県道257号線)。
   堰上橋の下流には農業用水の取水堰(ラバーダム)が
   設けられていて、左岸へ向谷用水を分水している。
   堰の脇には一本橋堰記念碑(昭和30年建立)がある。

(注)南市田神社はその名のとうり、市田村(明治22年に誕生)の
 南半分の村々にあった神社を合祀した神社であろう。
 南市田神社に祀られている瀬織津姫も、その時に遷座されたのだと思われる。
 武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の大里郡沼黒村(9巻、p.104)と
 吉所敷村(9巻、p.106)に記された滝祭社は、共に村社であり、祭神が瀬織津姫である。
 近隣では大里郡寄居町にも、瀬織津姫を祀った神社が2社ある。
 波羅伊門神社(寄居町保田原)と波羅比門神社(寄居町西ノ入)だ。

 一方、中曽根村の村社だった五社神社には、久々能知命、火御産需命、埴山比古命、
 金山比古命、弥都波売命という、五行の神(木・火・土・金・水を司る神々)が祀られていた。
 五行とは陰陽道での宇宙を構成する要素である。なお、下恩田の諏訪神社には
 末社として金山大権現(明治23年に秋葉山神社と合祀して建立、再興か?)が
 祀られているが、その祭神は金属を司る金山比古命である。
 さらに小泉村の村社だった八尾明神社の祭神は、
 八ツ尾の大蛇だとの伝承があった(新編武蔵風土記稿
 11巻、p.111)。
 大蛇とは竜であり、水を司る神であろう。


(補足)通殿、蔵殿、頭殿、重殿、十殿、尉殿、上殿、水殿、近殿、井殿  改定6版:2009/04/19

 これらの地名や神社名は、北葛飾郡を除き、おおむね埼玉県の全域に分布する。
 その数は80にも及び、とりわけ河川(荒川水系)の近傍、特に熊谷市と坂戸市の周辺に顕著である。
 川の近くにこれらの名を関した神社が鎮座する場合、それは生産神として水を司ったり、
 川の氾濫を鎮める神(女神)、あるいは舟運の安全祈願として祀られているのだろうか。
 一方でこれらの地名の周辺には、古代の製鉄遺跡や金属の精錬を生業とする人々が信仰した神社も
 多く分布している。通殿地名は鍛冶、鋳物師などとの関連性もありそうである。
 なお、地名と神社名の分布比率はほぼ同じだが、神社は小社が多かったようで、
 現在は大きな神社へ合祀されていて、既に社や祠は存在していない事例が多い。
 明治時代後期に国策として神社の合併・合祀が推進されたさいに、由緒が不明瞭な神社や祠殿は
 真っ先に整理統合の対象となったのだが、通殿系の神社はまさにそういった社だったのかもしれない。
 文献と実地調査を基に、これらの地名・神社名を辿ってみよう。
 以下、武蔵国郡村誌を郡村誌、新編 武蔵風土記稿を風土記稿と略す。

通殿地名の一覧

区分 所在地 水系(近傍の河川) 寺社 小字名 その他 周辺の特徴
荒川 中川 利根川
通殿 熊谷市樋春 荒川、和田吉野川         鍛冶屋舗、赤城神社
羽生市上村君     利根川     村君古墳群
加須市岡古井   南方用水、
会の川
      祭神は市杵島姫命
騎西町下崎   備前堀大英寺落、
古笊田落
       
鴻巣市北中野 荒川         源経基の館
熊谷市小江川 和田川       橋名(1) 出雲乃伊波比神社、塩古墳群
鴻巣市前砂   元荒川       条里制、三島神社古墳
ソウトノ 鴻巣市下忍   忍川     橋名(1) 角戸という小字
坂戸市厚川 高麗川           地元の表記はズウ殿、浅羽城
杣殿 熊谷市上之   忍川     堰名(2)  
蔵殿 川島町長楽 都幾川         金山、九頭龍大権現
岡部町岡部     福川     熊野神社、中宿古代倉庫群跡
岡部町今泉     藤治川     沼(1)  
熊谷市台     利根川     曽登神社(祭神は小彦名命)
熊谷市日向     福川、利根川、
北河原用水
    白龍弁財天
熊谷市久保島 荒川       広瀬古墳群
行田市中里   忍川       条里制、剣神社
騎西町下崎   騎西領用水の中用水       橋名(1)  
皆野町大淵 荒川         長楽寺(本尊は十一面観音)
ぞうどの 秩父市別所 荒川         河川名(1) 近戸という小字
増殿 騎西町鴻茎   備前堀川       橋名(1)  
ズウドン 坂戸市赤尾 越辺川         九頭龍権現、一目連、金山彦神社
坂戸市四日市場 高麗川          
づうの下 坂戸市横沼 越辺川         中世の横沼郷、勝呂古墳群
頭殿 熊谷市川原明戸 荒川         天手長男神社、十一面観自在尊
鹿島古墳群
熊谷市小八ッ林 荒川、和田吉野川         大芦河岸
古墳時代の玉作りの工房跡
吉見町江綱 市野川         修験道が活躍した地
対岸に比企郡の郡家郷
吉見町地頭方 荒川         祭神は速秋津比古命
加須市串作   会の川、古川        
羽生市下川崎   午の堀川、
南方用水、会の川
      熊野神社
伊奈町小室 原市沼川         平安中期の製鉄遺跡
川越市福田 入間川         祭神は多力雄命、金山という小字と金山社
吉見町大串 市野川         金田(かなだ)、輝羅(じら)という小字
吉見町荒子 荒川          
川越市北田島 新河岸川、伊佐沼         根賀羅美(ねがらみ)という小字
頭戸 新座市大和田三丁目 柳瀬川          
重殿 熊谷市須賀広 和田川         稲荷社(個人の氏神)、野原古墳群
小川町能増 市野川         鎌倉街道の上道
毛呂山町前久保 越辺川       淵名(1) 出雲伊波比神社の流鏑馬の禊
宮代町山崎   姫宮落川       祭神は金山彦命
さいたま市中野田   天久保用水、
綾瀬川
      祭神は日本武尊
さいたま市染谷   見沼代用水の東縁        
さいたま市宮原二丁目 芝川、鴨川         足立郡の郡衙
戸田市美女木 荒川         十一面観音、道満河岸
朝霞市上内間木 荒川、新河岸川          
所沢市林 不老川       祭神は瓊々杵尊(ニニギ)
入間市新久 霞川、入間川         山名(1) 金山という地名、金山権現社
十殿 志木市館〜本町 新河岸川         祭神は罔象女命(ミツハ)、引又河岸
所沢市西新井町 東川         祭神は天津彦々火瓊々杵尊
所沢市宮本町一丁目 東川         かつては十殿権現
毛呂山町岩井 毛呂川、大谷木川          
十度 川口市芝   見沼代用水の西縁       明神社
住殿 深谷市石塚     小山川、利根川      
錠殿 さいたま市御蔵 見沼代用水の西縁
芝川
         
尉殿 鴻巣市下谷   赤堀川       生出塚埴輪焼成窯跡
坂戸市中里 高麗川          
上殿向 坂戸市萱方 高麗川         鍛冶屋という小字
上殿 毛呂山町下川原 高麗川         星宮神社(古くは妙見社)
都幾川村大附 上殿川の水源地          
越生町上谷 上殿川         河川名(1)  
皆野町大淵 荒川         蔵殿権現の伝説
城戸野 神川町新宿     神流川       城戸野古墳群
神殿 坂戸市森戸 高麗川         鎌倉街道、国渭地祗神社(延喜式内社)
行田市野   元荒川       鴻巣市屈巣には宮殿
宮殿 鴻巣市屈巣   元荒川       白鳥大明神と八剣大明神が合祀
城殿宮 春日部市内牧   古隅田川       橋名(1) 内牧塚古墳群、鷲香取神社
水殿 美里町沼上     小山川     窯跡(1) 条里制
川島町山ヶ谷戸 荒川         昭和初期まで渡し(渡船)
近殿 熊谷市飯塚     備前渠用水     祭神は奇稲田姫命
熊谷市下増田     福川      
近戸 越生町堂山 越辺川         田原藤太秀郷の霊を祀るという
秩父市近戸町 荒川         別所という小字
井殿 熊谷市西野     福川     市杵島姫命、下照姫命、猿田彦命
熊谷市玉井 奈良堰用水         祭神は倉稲魂神
合計   45 18 10 35 32 13  


1.通殿

(1)大里郡春野原村(熊谷市樋春、風土記稿 11巻、p.104)
 通殿社(づうどの):真光寺持ちと記されている。地元では通殿稲荷社と呼ばれている。
 樋春(ひはる)は荒川の右岸と和田吉野川の左岸に挟まれた低地。樋口村と春野原村(しゅんのはら)
 合併してできた村で、樋口村の南側に春野原村は位置していた。春野原村には
 鍛冶屋舗という小字もあったので、古い時代には金属の精錬を営む人々が住んでいたのだろう。
 なお、通殿稲荷社から南西へ1Km、成沢地区には赤城神社が鎮座する。この付近では赤城神社の
 存在は珍しい。赤城神社の眷属はムカデである。赤城神社の南側の丘陵部には行人塚古墳群が存在する。

(2)埼玉郡上村君村(羽生市上村君、風土記稿 11巻、p.9)
 通殿社:総徳院の持ち。現在は避来矢神社(ひらいし)に合祀されている。
 避来矢神社には藤原秀郷(俵藤太)にまつわる伝承があるという。
 上村君村は利根川の右岸に隣接した低地だが、利根川の周辺は自然堤防の
 微高地となっていて、村君古墳群が分布している。

(3)加須市岡古井
 通殿社(ずうどの):旧岡古井村の村社、祭神は市杵島姫命。通殿社は南方用水の北側に位置する。
 古くは蔵王権現と呼ばれていたが、いつのまにか蔵王殿が転訛し、通殿となったという(埼玉の神社、p.882)。
 そういう理由ならば、通殿よりも蔵殿の方が説得力があると思うのだが、いかがなものだろう。
 蔵王権現とは山岳信仰に基づいた修験道による社であり、神仏習合であった。岡古井の通殿社は
 地元では権現さまと呼ばれているそうだが、元々は蔵王権現ではなく、蔵殿権現だったのではないか。
 加須市岡古井は、会の川の左岸に位置し、湖沼が分布する後背湿地だった。
 一方、会の川の右岸側には、広範囲に内陸砂丘が分布している。通殿社から南西へ700m,には
 志多見砂丘がある。砂丘付近の小字は別所という。

(4)埼玉郡下崎村上分(北埼玉郡騎西町下崎、風土記稿 10巻、p.236)
 通殿社:正福寺持ちの記載があるが、現在は社殿は見当たらない。
 もっとも、正福寺自体が本堂は既に無く、墓地が残るのみである。
 正福寺は五智如来を勧請し、古くは五智堂と称していたという。
 蔵殿(10)の蔵殿橋(騎西町下崎)の名前は、この通殿社に由来するのだろう。
 下崎は北縁を備前堀大英寺落、南縁を古笊田落という排水路で囲まれ、
 中央を騎西領用水の中用水が流れる低平地である。

(5)足立郡中野村(鴻巣市北中野、風土記稿 8巻、p.43)
 通殿社(つうでん):村の鎮守なりの記載があるが、現在は見当たらない。
 郡村誌 3巻、p.221に記された津門社(村社、村の北方にあり)は通殿社のことだろう。
 津門(つど)とは中野村の小字だが、名前の由来は[づうど]の可能性が高い。
 北中野は河川改修によって、村の半分以上が荒川の河川敷内となってしまった。
 東へ700mに位置する城山は、源経基(清和源氏の祖)が、天慶元年(938)に築いた館の跡だという。
 城山の南側には逆川という川が流れていたのだが、現在は痕跡すら明らかでない。
 (追補)埼玉の神社(p.332)によれば、津門社は大野神社(大間二丁目)に合祀されたという。
 大野神社の参道に掲げられた大野神社古記には、津門社は明治40年(1907)に浅間社、諏訪社、
 須賀社などと一緒に大野神社へ合祀されたとある。なお、大野神社は元来は氷川神社だったが、
 合祀のさいに間と中から一文字づつ採り、大野神社へと改称した。

小字:
(1)熊谷市小江川(おえがわ)
 通殿:和田川の左岸の小字。小江川地区の西端、塩、板井地区との境界付近を指す。
 和田川は通殿川と同じく、和田吉野川の支川である。
 郡村誌の男衾郡塩村(9巻、p.175)には”通殿橋:小川道に属す 村の東方 和田川の下流に架す
 長一間巾九尺 石造”とある。現在の県道11号線付近に架かっていた小規模な石橋にも、
 小字名の通殿が冠されていた。
 西方の板井地区には延喜式内社の出雲乃伊波比神社(いずものいわい)が鎮座する。
 出雲乃伊波比神社の祭神は武甕槌命(たけみかつち)で、春日社や鹿島社と同じである。
 この付近は古い時代から人々が定住しており、出雲乃伊波比神社から南へ700mの丘陵中には
 塩古墳群がある。塩古墳群は4世紀に造られたものだとされ、埼玉県の古墳では初期の部類に属する。
 一方、出雲乃伊波比神社から北へ1.5Km、千代地区には寺内廃寺跡がある(ゴルフ場内)。
 なお、小江川に隣接した須賀広では、嘉禄三年(1227)銘のある日本最古と
 される板碑(青石塔婆)が出土している。

(2)足立郡前砂村(鴻巣市前砂、風土記稿 8巻、p.37)
 通殿:前砂村は元荒川と荒川に囲まれた村だった。通殿は吹上高校の南側付近である。
 ただし地元では頭殿と表記し、[づうでん]と呼んでいるようだ。風土記稿の表記が誤りでないなら、
 時間の経過と共に通殿が頭殿へと変化したことになる。発音が近隣(南東へ3.3Km)に存在した、
 足立郡中野村(鴻巣市北中野)の通殿社と、ほぼ同じである点が興味深い。
 前砂地区の西端は明用地区と、南端は三町免地区、小谷地区と接していて、その境界となっているのが
 足立北部排水路である。足立北部排水路は荒川の故道跡を流れている。この付近には中世の歴史を
 感じさせる地名が多く残っている。三町免とは、おそらく中世の土地制度に由来する地名だろう。
 明用には大地頭、小谷には八丁免という小字もある。明用の一帯には条里(律令制下の
 土地区画制度)がしかれていた。なお、明用の三島神社は古墳の上に祀られている。
 前砂の周辺には吹上(ふきあげ)、大芦(おおあし、大足か)、荒句(あらく)、糠田(ぬかた、額田か)と
 いった興味深い地名が分布している。大芦には2箇所に一目連大神と九頭龍権現が祀られている。

(3)鴻巣市下忍〜行田市下忍
 ソウトノ:風土記稿 11巻、p.86には[ぞう殿]とある。北埼玉郡下忍村は忍川(おしかわ)の
 右岸に隣接した大きな村だった。大村ゆえに便宜上、上分(北側)と下分(南側)に区分されていた。
 ソウトノは上分と下分の境界付近を指す。境界を流れる清水落(農業排水路)には、
 そうとの橋(1940年竣工)が架かっている。清水落やその西側の前谷落の周辺には微高地が見られるが、
 それらは忍川の旧流路によって形成された自然堤防であろう。忍川は近世以前には荒川の派川だった。
 ちなみに何らかの理由で、2つの神社を合祀する場合、それを合殿や相殿(あいどの)と呼ぶが、
 相殿はソウトノとも読める。下忍村のソウトノは、合祀した祠が置かれていた土地なので、ソウトノと
 呼ばれるようになった可能性もある。なお、下忍には鎌倉時代に源頼朝の配下の鎌倉武士である、
 津之戸三郎が居住し、館があったとされる。下忍地区の南部には角戸という小字が残っている。

(4)入間郡厚川村(坂戸市厚川、郡村誌 4巻、p.511)
 津宇殿(つうどの):風土記稿(8巻、p.353)にソウトノと記された小字のことだと思われる。
 ソウトノとは風土記稿に特有な表記だが、音的には[ぞうどの]に近い。
 若宮橋(高麗川)の右岸、大家神社から北東へ200mの付近の地区を指す。地元での表記は
 ズウ殿であり、[づうどの]と呼んでいるそうだ。表記・発音に多様な”ゆれ”が発生している。
 なお、大家神社は旧称が白髭神社であり、諏訪神社などが合祀されている。
 津宇殿の東側にある鶴舞団地は、戦国時代の浅羽城(菅方城)の跡地に建っている。

(5)熊谷市上之〜行田市持田
 杣殿(そまどの、そまどん):忍川に隣接した低地。杣とは漢字ではなく国字。
 きこり、材木を採る山を意味する。これは通殿とは関係ないが、杣と殿の組み合わせが
 奇妙な感じがするので、あえてここに掲載しておく。杣殿は昔から忍川に用水堰が設けられていた、
 場所であり、現在も明治時代に建設された杣殿樋管(煉瓦造)が残っている。

2.蔵殿

 蔵殿という地名は通殿に比べて多いのだが、意外なことに、蔵殿社の数は少ない。

(1)比企郡川島町長楽
 蔵殿(づうどの、ぞうどの): 都幾川の左岸堤防の付近、長楽落合橋(冠水橋)の北側。
 都幾川の左岸堤防上には、長楽村中による2体の九頭龍大権現が祀られている。
 九頭龍(くずりゅう)が、九頭龍殿、頭殿、蔵殿と転訛したのだろうか。
 なお、蔵殿の西側に隣接した、早俣橋の下流左岸の小字は金山。金山とは金属を精錬したさいの
 残りカスを捨てた場所を指すことが多いので、この付近では金属精錬が行われていた可能性がある。

(2)坂戸市赤尾
 ズウドン: 越辺川の河川敷内、赤尾落合橋(冠水橋)の付近。ここでは都幾川が越辺川に
 合流していて、(1)の長楽落合橋(都幾川)と赤尾落合橋(越辺川)は、合流地点に架かる2連の
 冠水橋の形態となっている。越辺川の右岸堤防の裾に鎮座する白山神社には、
 九頭龍権現と一目連の石祠が祀られている。それらは水防祈願だと思われるが、
 白山神社から南へ700mには、金山彦神社が鎮座している。したがって、この地には過去に
 金属の精錬や加工に従事した人々が居住していて、金山彦命や一目連を信仰した可能性が高い。
 一目連の祭神、天目一箇神は文字通り、一つ目の神であり、風雨を司さどる雷神である。
 金属の精錬には強い風と大量の水が必要であり、その精錬過程が雷という自然現象に
 通じる形態であること、また金属精錬に従事する人々にまつわる片目の伝承などもあって、
 鍛冶職などが一目連を信仰した事例は多い。

(3)坂戸市四日市場
 ズウドン、ジュウドン: 高麗川橋梁(東武越生線)の右岸。北へ向かっていた高麗川の流れが
 東へと大きく蛇行する地点であり、付近の小字は後河原。左岸は高麗川の浸食作用によって
 形成された崖だが、右岸側には川原が形成されている。以前は川原に小さな祠があったという。
 この付近の高麗川には淵が多く分布している。対岸の毛呂山町下川原には上殿という小字が
 あり、川角駅(東武越生線)の東側付近は船原という。高麗川で筏流し(西川材の運搬)が
 盛んだった頃に筏の係留地があった名残りだろうか

(4)入間郡横沼村(坂戸市横沼、風土記稿 8巻、p.332)
 づうの下:横沼は越辺川の右岸に隣接した地域。西側は台地で東側は越辺川に面した低地。
 づうの下の所在地は不明だが、台地の崖下あるいは越辺川の淵を指すのだろうか。
 横沼村は古くから人々が居住していたようで、中世の横沼郷に比定されている。
 また、横沼地区の西側に位置する塚越地区には、天徳三年(959)創建とされる大宮住吉神社がある。
 祭神の住吉三神は水神・海神だという。大宮住吉神社の西には勝呂古墳群があり、古墳群の
 北端には勝呂廃寺(奈良時代に創建)があった。
 横沼地区の付近の越辺川の右岸には、白髭神社が多く分布している。
 対照的に少し上流には八幡神社が分布する。

(5)榛沢郡岡部村(岡部町岡部、郡村誌 9巻、p.282)
 蔵殿(ぞうどの):福川右岸の低地である。地形的には中山道が通る櫛引台地の周縁部が
 福川周辺の低地へと連なっている箇所だ。郡村誌には、蔵殿は菱川(村の北方)と島の内(菱川の東)に
 隣接し、島の内の南だとあるので、岡部神社の北東付近を指すと思われる。
 なお、菱川とは河川名でもあり、福川の源流部を指す。島の内が示すように、この付近は
 かつては小山川の乱流域であり、岡部の北には大塚島、内ヶ島、矢島といった、氾濫微高地に
 由来すると思われる大字が分布している。隣接する岡には島護産泰神社(しまもりさんたい、
 榛沢郡の総鎮守)があるが、名前の由来は島状に分布する各大字の守護神として信仰を
 集めたからだという。また、岡には熊野という小字があり、熊野神社が鎮座するが、岡部の付近には
 沓掛と内ヶ島にも熊野神社がある。岡林寺(金蓮山観音院)の本尊は十一面観音である。
 蔵殿から2Km北西は櫛引台地の突端であり、中宿古代倉庫群跡が位置する。
 これは榛沢郡の郡衙(ぐんが、役所)だったとされている。
 蔵殿は錠殿(じょうどの)が転訛した可能性もある。

(5a)榛沢郡今泉村(岡部町今泉、郡村誌 10巻、p.87)
 蔵殿谷池:”田一町二畝二十歩の用水に供す”とあるように、谷地に設けられた農業用水の
 ため池である。浅間神社の西600mに位置する。現在は象殿沼と表記され、[ぞうでん]と発音されている。
 田のかんがい面積は1ha弱と小さいのだが、それでも用水量は不足しがちだったのだろう。
 雨乞いの祈願として、沼の畔で獅子舞を催す風習があったそうである。

(6)幡羅郡台村(熊谷市台、郡村誌 10巻、p.247)
 蔵殿(ぞうどの):台中島の男沼小学校付近を指す。台は利根川の右岸から直角に南北へと
 連なる微高地であり、西側の男沼地区(台に比べると低地)との境界をなすのが男沼門樋悪水路
 台中島は男沼のさらに西に位置するが、行政区は台と一緒である。
 郡村誌によれば、台村の地味は砂礫が多く稲には適さず、水利の便も悪いことから、土地利用の
 形態は畑作が中心である。税地79町のうち荒地が27町、畑が47町、田はわずかに1町である。
 台の白山神社には、台中島にあった蔵王権現社が合祀されているという。
 蔵王権現社は明治期には、曽登神社と改称している(埼玉の神社、p.386)。
 曽登の発音は不明だが、[そど]であるなら、蔵王は[そうどの]へと転訛する傾向が
 あることになる。ただし、その原因が単に発音上(地域的な方言も含む)のことなのか、
 祭祀に関する意味が付加されているからなのかは不明だ。
 郡村誌によれば、曽登神社の祭神は小彦名命である。

(7)幡羅郡日向村(熊谷市日向、郡村誌 10巻、p.296)
 蔵殿(ぞうどの):北河原用水元圦の西側付近を指す。農業用水の取り入れ口の近傍である。
 付近には白龍弁財天の祠があり、元禄十四年(1701)銘の己待弁天が祀られている。
 日向村は福川(旧流路)と利根川に囲まれた低地であり、中条堤の上流に位置する。
 中条堤は遊水池の囲撓堤として機能していたため、中条堤が廃止される明治時代末まで
 日向村は堤外地だった。水害常襲地だったことは郡村誌からも明らかで、村の戸数は90戸、
 税地は107町だが、内訳は畑地が99町であり、水田は記録されていない
 日向村の村社だった長井神社(旧称.八幡神社)は、天喜五年(1057)に源頼義によって
 勧請されたとされる。この地に住んでいた大蛇(竜か?)を、島田道竿(みちたけ)に
 命じて退治させたのを吉事としてのことだという。
 大蛇退治のさいに利根川まで掘った排水路が、道閑堀の起源だとされている。

(8)熊谷市久保島
 蔵殿(ぞうどの):荒川の左岸、JR高崎線の熊谷貨物ターミナルの東側付近の地名。
 風土記稿に幡羅郡久保島村には、蔵殿社があったと記されている。
 これは現在、久保島大神社に合祀されている。
 久保島地区の島とは微高地を意味する。往古の荒川が氾濫を繰り返したさいに
 土砂の堆積によって形成された自然堤防である。隣接した小島、新島という大字の
 語源も久保島と同様だろう。久保島の微高地には、玉井堰用水(六堰頭首工から
 取水する農業用水)が荒川の氾濫流路跡に沿って流れている。
 久保島の南、荒川の左岸には広瀬古墳群が存在する。
 熊谷市の荒川流域には、殿が付いた地名や神社が多い。例えば頭殿(1)、近殿(2)、井殿(3)など。

(9)行田市中里
 蔵殿(ずどん):忍川の左岸から北へ500m、八幡神社の付近を指す。
 八幡神社は蔵王権現の塚があった地に鎮座するという(埼玉の神社、p.808)。
 蔵殿は郡村誌には[ぞうどの]、風土記稿には[ぞう殿]と記されている。
 中里地区の周辺は荒川扇状地の扇端に位置し、かつては湧水が豊富だったという。
 西側に隣接した小敷田地区には、弥生時代中期(紀元前一世紀頃)の方形周溝墓
 (埼玉県現存最古)の遺跡があり、小敷田から中里にかけては
 条里制(律令体制化の区画整理された土地)がしかれていたとされる。
 なお、八幡神社から南へ700mに位置する剣神社には、日本武尊にまつわる伝承がある。

(10)埼玉郡下崎村(北埼玉郡騎西町下崎、郡村誌 12巻、p.312)
 ”蔵殿橋:村道に属し村の西南 中用水の中流に架す 長一間巾四尺 石造”
 騎西領用水の中用水に架かっていた石橋である。
 架橋地点は正福寺から南東へ400mの付近だったと思われる。
 蔵殿橋という名称は、通殿(4)の通殿社があったことに由来するのだろう。

(11)埼玉郡鴻茎村(北埼玉郡騎西町鴻茎、郡村誌 12巻、p.334)
 ”増殿橋:菖蒲道に属し村の北端 悪水小溝に架す 長一間巾八尺 石造”
 鴻茎地区の北端には備前堀川が流れている。
 増殿は[ぞうどの]あるいは[ずうどの]と発音していたのでないだろうか。

(12)秩父郡別所村(秩父市別所、風土記稿 12巻、p.205)
 ”ぞうどの沢:村の北にて芝窪の奥入より湧出し、巽に向て注ぎ荒川に入る”
 別所村は荒川の左岸に隣接している。ぞうどの沢とは浦山渓谷の付近を
 流れる沢(渓流)であろう。なお別所村の対岸には近戸という小字があるが、
 これは近殿が転訛した可能性がある。

(13)秩父郡皆野町大淵
 蔵殿権現:地元の伝説の社である。皆野町誌 資料編五、p.922によれば、
 ある時、武甲山の山頂から光が飛び立ち、荒川の畔へ落ちたという。その話を村人から
 聞いた旅の僧は、ここは竜神の住む霊地なので、以後、大淵と呼び、竜神を祀って蔵殿権現と
 名付けるよう勧めた。そうすれば洪水は治まり、豊作となるだろうとも言ったそうである。
 村人は大淵の上の林の中に祠を作り、蔵殿権現を祀ったそうだ。
 この伝説では竜神信仰が蔵殿に結びつき、蔵殿は水神ということになる。
 旅の僧はおそらく修験だと思われる。
 なお、風土記稿によれば、大淵村には蔵王社、羽黒社、水神社、諏訪社、金山社など
 19もの社が存在していた。長楽寺(山号は大淵山)の本尊は十一面観音である。
 武甲山には蔵王権現が祀られていたから、伝説にある山頂からの光は、
 蔵王権現の大淵村への分祠を意味するのかもしれない。
 そうだとすれば、蔵殿権現は蔵王権現ということになる。
 現在、大淵の上には熊野神社が鎮座している。上殿という地名もある。

3.頭殿

 通殿や蔵殿は[づうどの]や[ぞうどの]と発音されることが多いが、それと似た発音の頭殿もある。
 頭殿は[ずどの]や[ずうどの]と発音する例が多い。

(1)熊谷市川原明戸
 頭殿神社:諏訪神社の境内社(稲荷、八幡、宇賀、天神、御嶽)に合祀されている。
 社殿には頭殿神社の扁額(明治十三年奉納)が掲げられている。
 諏訪神社の祭神は建御名方命、倉稲魂神、誉日別。境内社には天手長男神社もある。
 諏訪神社は荒川の左岸堤防に隣接し、現在はすぐ側を六堰用水の幹線水路が流れている。
 昭和初期まで付近には、大麻生堰用水(六堰用水の1つ)の元圦(取水口)があった。
 元圦付近の路傍(諏訪神社から西へ500m)には、十一面観自在尊が祀られている。
 一般的には十一面観音と呼ばれる。自在尊とは変化観音を称したのだろう。
 なお、諏訪神社の対岸、荒川の右岸一帯には鹿島古墳群があり、さらに南には百済木と
 いう地名がある。また、諏訪神社から1Km北東、熊谷市三ヶ尻に鎮座する田中神社は
 延喜式内社であり、武甕槌命、少彦名命、天穂日命が祭神である。

(2)大里郡小八ッ林村(熊谷市小八ッ林、風土記稿 11巻、p.115)
 頭殿社:十林寺持ちと記録されている。これは現在、春日神社に合祀されている。
 現地の社歴によれば、春日神社の祭神は天児屋命である。境内社(祠)には白山大権現、
 金刀比羅神社、三嶋神社、八坂神社などがある。
 小八ッ林村は、荒川の右岸に隣接する。村の北側では和田吉野川が荒川へ合流していた。
 荒川の堤外には河岸場があった。村内には下吉見領(現在の吉見町)の飛び地があり、
 それは横手堤と呼ばれる控堤となっている。この堤防は荒川、和田吉野川の洪水から下吉見領を
 守るために、江戸時代初期に建設された。一方、小八ッ林村の南西部は比企丘陵の端部であり、
 地形は崖状の台地となっている。春日神社は村で最も標高の高い台地の上に鎮座する。
 西側に位置する船木台地区の舟木遺跡(現在は埋蔵文化財調査センター)からは、
 古墳時代の玉作りの工房跡と想定される遺構が発掘されたという(大里村史 通史編、p.110)。
 村社である船木神社には、末社として白山神社、諏訪神社天神宮、八幡神社などが祀られている。

(3)比企郡江綱村(吉見町江綱、郡村誌 6巻、p.467)
 頭殿社:村の西方にあり、祭神不詳
 現在は元巣神社(江綱神社)に境内社として祀られている。頭殿大神社と刻まれた石祠には
 明治五年(1872)建立の銘があり、台座に横見郡江綱村氏子中とある。
 吉見町江綱は市野川の左岸に隣接する低地。村の西部を吉見領大囲堤が南北に横断し、
 頭殿社があった西部は、いわゆる堤外地であった。市野川の右岸は東松山市古凍。
 古凍を律令制時代の比企郡の郡家郷(ぐうけ)だったとする説もある。
 なお、吉見町史 下巻、p.902によれば、江綱は中世から修験道が活躍した地であり、
 字浅間には万蔵院という修験堂があったという。宝性寺の北には十一面観音堂がある。

(4)比企郡地頭方村(吉見町地頭方、郡村誌 6巻、p.527)
 頭殿社:村の北方にあり、祭神は速秋津比古命。現在は天神社の中に遷座されているが、
 五反田地区から移したのだという。石祠には元禄三年(1690)六月の銘が記されている。
 地頭方村(じとうほう)は荒川(この付近の荒川はかつては和田吉野川)の右岸に位置し、
 堤外の五反田地区には河岸場があった。→ 五反田河岸の道標
 明治14年測量の迅速測図には、地頭方新田(荒川の堤外地)の五反田河岸の付近に
 頭殿祠が記録されている。この付近には水防の守護神として、荒川の堤防付近に多くの九頭龍
 祀られているので、頭殿とは九頭龍権現だった可能性が大きい。頭殿社の御神燈には
 天明八年九月 武州横見郡五反田川岸総氏子中とある。
 なお、地頭方の南に位置する今泉、北下砂地区には、大工町、塩田町、宮の町、大根町と
 いった小字がある。それらは条里制(中世の土地区画制度)の名残りなのだろうか。

(5)埼玉郡串作村(加須市串作、郡村誌 12巻、p.327)
 頭殿社:村の東方にあり、祭神不明。
 これは現在、見当たらない。諏訪神社に合祀されたという(埼玉の神社より)。
 諏訪神社には蔵王権現の祠が祀られているが、それと混同しているのだろうか。
 串作村は北東が会の川(利根川の旧流路)、西が古川落(会の川の派川、日川)に
 隣接した低地(会の川の後背湿地)。民家は西側の微高地に分布している。
 川面や堤内という川に関する小字が残っている。

(6)羽生市下川崎
 頭殿社(ずうどの):字北にあったが、現在は田中神社に合祀されているという
 (埼玉の神社、p.979)。田中神社には境内社はないが、祭神不明の石祠がある。
 延享四年(1747)銘の弁財天もある。
 下川崎は会の川を挟んで、加須市串作の対岸に位置する。
 地区全体が低地であり、北から順に午の堀川、南方用水、会の川が流れている。
 民家は南方用水沿いの微高地に分布している。田中神社から北へ400mの地点には
 浄林寺があるが、その境内には寛文二年(1662)銘の十一面観音菩薩が祀られている。
 なお、下川崎の東側に隣接した神戸地区には、南方用水の脇に熊野神社が鎮座している。

(7)足立郡丸山村(伊奈町小室、風土記稿 7巻、p.320)
 頭殿権現社:祭神不詳、陣屋の内にあり、村民持ち。陣屋とはこの地に居を構えた、
 関東郡代 伊奈備前守の屋敷のこと。頭殿権現社は原市沼川の左岸、小室字丸山、丸ノ内に現存する。
 オドーサマ(雄堂様)と呼ばれ、丸山沼(原市沼)対岸に鎮座するメドーサマ(雌堂様)との間を
 蛇が行き来したとの伝承があるという(伊奈町史 民俗編、p.441)。
 蛇(水神の象徴)と関連がある沼の畔の祠なので、水神とみなされていたのだろう。
 これは見沼の対岸に鎮座した大宮氷川神社(男体宮)と氷川女体神社(女体宮)との間を
 水神が往来したという伝説とよく似ている。いわゆる、竜神の渡りである。

(8)伊奈町小室
 頭殿様:伊奈町史 民俗編、p.430によれば、小室本区に頭殿様(八雲神社)があったが、
 明治時代末に氷川神社に合祀されたという。八雲神社を頭殿と呼んでいたという希少な例である。
 おそらく本区の頭殿様は丸山の頭殿権現社から北東へ2Kmの付近にあったと思われる。
 綾瀬川の右岸だろうか。本区に隣接する小字は別所である。
 伊奈町小室は古くから人々が居住していた地であり、平安中期の製鉄遺跡である大山遺跡、
 10世紀後半の鍛冶遺跡である丸山遺跡が存在する。

(9)入間郡福田村(川越市福田、郡村誌 4巻、p.460)
 頭殿神社:村の北方にあり、祭神は多力雄命。風土記稿(8巻、p.331)では通殿権現社と
 なっている。これは頭殿と通殿が発音上は可換であり、表記上は当て字が発生することを
 示している。表記の違いには特に意味はなく、使い分けもされていないようである。
 この頭殿神社は現在、見当たらない。赤城神社に合祀されているのかもしれない。
 福田は入間川の右岸に隣接した地区である。この付近では入間川は大きく蛇行し、
 なおかつ小畔川、越辺川が入間川へ合流しているので河川の氾濫が多かった地である。
 郡村誌には、金山という小字と金山社(祭神は金山彦命)の存在が記されているので、
 ここでは入間川から砂鉄を採取して、金属精錬が行われていた可能性が高い。
 なお、頭殿神社の祭神、多力雄命は手力雄命のことだと思われる。この男神は天照大神が
 天岩戸に籠もったときに、天岩戸をこじ開けようとした神様だ。力が強すぎて、天岩戸は下界に
 落ちてしまい、落下先にできたのが戸隠山であり、落下音に呼び起こされたのが九頭龍神である。
 福田の北方、越辺川の対岸の川島町下伊草には2体の九頭龍大権現が祀られている。

小字:
(1)比企郡大串村(吉見町大串、郡村誌 6巻、p.481)
 頭殿(つうどの):台山の南東、市の川の堤外(河川敷内)を指すようだ。
 吉見排水機場の南側であり、今もそうだが吉見領の悪水の排水地点である。
 なおかつ、この一帯は市の川の洪水常襲地だった。対岸の堤防裾(川島町松永)には、
 文化十五年(1818)銘の水神宮が祀られている。
 なお、大串村には金属精錬を思わせる、金田(かなだ)、輝羅(じら)という小字もある。

(2)比企郡吉見町荒子
 頭殿(ずうどの):大串の頭殿の東側を指すようだ(吉見の地名と方言、p.19)。
 中堀(吉見排水機場の堤外水路)を挟んで、大串と荒子の頭殿が対峙していることになる。
 ここは吉見領大囲堤の外であり、荒川の堤外地であった。

(3)入間郡北田島村(川越市北田島、郡村誌 4巻、p.410)
 頭殿(づうどの):川越市北田島は新河岸川と伊佐沼の間に位置し、南端を旧赤間川が
 流れる平地である。村社は厳島神社だった。頭殿は北田島の北部、石田本郷との境界付近であり、
 具体的には根賀羅美(ねがらみ)の中の小名である。現在は地元の人にも忘れさられた
 地名となっている。なお、カラミとは金属を精錬したさいの残りカスを指すこともある。
 古い時代に、この付近には鋳物師が居住していたのだろうか。

(4)新座市大和田三丁目
 頭戸(ずど):柳瀬川右岸の台地。西は東京都清瀬市下宿三丁目と接している。
 頭殿が訛って頭戸と変化したのかは不明だが、殿が戸や渡野と転訛する可能性は大きい。

4.重殿、十殿

 通殿や頭殿は蔵王殿に由来するとの説もあるが、重殿(じゅうどの)や十殿が転訛したとも考えられる。

(1)熊谷市須賀広
 重殿稲荷(じゅうどん):この付近の小字は重殿である。重殿稲荷は江戸時代に、
 この地の領主だった稲垣若狭守の陣屋に設けられた氏神だという(江南町史 資料編5、p.578)。
 祭祀された経緯が、頭殿(7):足立郡丸山村(伊奈町小室)の頭殿権現社と似ている。
 熊谷市須賀広は江南台地の縁、和田川の左岸に隣接する水田地帯である。
 重殿稲荷の周辺は沼地となっている。重殿稲荷から東へ350mの地点に鎮座する釈迦寺は
 延喜17年(917)創建の古刹であり、本尊は釈迦如来、堂内には子の権現などが安置されている。
 風土記稿によれば、須賀広には釈迦寺持の稲荷社が存在したが、それが重殿稲荷と同一なのか
 不明である。なお、釈迦寺の東側、野原地区には野原古墳群もある。
 さらに興味深いのは重殿稲荷から南へ800m、和田川の対岸、熊谷市小江川には高根神社があり、
 その祭神が出雲系の味鋤高彦根命(あじすき)であることだ。近隣では目の神社(八幡神社の境内社、行田市)、
 高負彦根神社(比企郡吉見町)、月輪神社(比企郡滑川町)にも祀られている(→参考)。
 小江川には通殿という地名がある。→通殿(1)

(2)南埼玉郡宮代町山崎
 重殿神社(じゅうどの):祭神は金山彦命。鍛冶、鋳物師など金属精錬を生業とする人々の
 信仰を集めた神である。重殿神社は姫宮落川の右岸、川沿いの低地ではなく、
 高台に祀られていて、周辺には広範に雑木林が分布している。
 ここは、さいたま緑のトラスト基金による保全第5号地に指定されている。
 付近には縄文時代の山崎遺跡がある。
 一方で、姫宮落川に沿った低地は、かつては笠原沼などが存在した沼沢地であり、
 享保年間に堀上田方式によって干拓されている。

(3)さいたま市中野田
 重殿神社(じゅうどの):祭神は日本武尊。天久保用水(見沼代用水の東縁から分水)の
 右岸に鎮座する。ここも台地だが、天久保用水の左岸側は綾瀬川が形成した沖積地である。
 風土記稿によれば、重殿神社は古くからこの地にあり、重殿山と号していた。
 隣接する明照寺には観応三年(1352)の文書が残るが、その明照寺よりも重殿神社の方が
 古いようである。埼玉の神社、p.106では、この地にあった蔵王権現が蔵王殿と呼ばれ、
 それが重殿へ転訛した、つまり重殿は修験道との関係が深いとしている。
 [埼玉の神社]は加須市岡古井の通殿社の名称の由来でも同じことを述べている。
 一方で、綾瀬川の洪水を鎮める神として祀られた可能性もあり、
 重殿は水殿(すうどの)から派生したとも記されている(根拠は示されていないが)。

(4)足立郡染谷村(さいたま市染谷、風土記稿 7巻、p.306)
 重殿権現社:祭神、所在は不明。染谷は見沼代用水の東縁の右岸に隣接する地区。
 岩槻台地の周縁部が低地(見沼田んぼ)へ移行する区間に相当する。
 地形的には崖下(ハケなど)からの湧水が豊富であったと思われる。

(5)足立郡芝村(川口市芝、風土記稿 7巻、p.253)
 十度明神社:氷室社の末社。もとは文蔵村(さいたま市文蔵)にあったが、洪水の時に
 この地に流れ着いたのだという。洪水の度に十度も漂流したことに、名前は由来するとの
 言い伝えもあるとのこと。埼玉県には水系を問わず、神社や獅子頭の漂着伝承が多い。
 元来は重殿社だったのを誤って、十度社と称してしまった可能性もある。
 その場合、漂流の伝承は後から付けられたことになる。
 芝村は見沼代用水の西縁の左岸に隣接する。芝川の名前の由来となった村である。

(6)足立郡内野村枝郷大野村(戸田市美女木、風土記稿 8巻、p.139)
 重殿権現社:十一面観音を安ずと記録されているが、現在は一帯は彩湖であり、
 所在は不明である。観音が祀られているなど、神仏混交で密教系の色彩が強い。
 十一面観音は数ある観音像の中では歴史が最も古く、その起源は奈良時代頃だとされる。
 大野村には御殿野という小名があったので、重殿権現社はそこに鎮座していたのだろうか。
 なお、この付近には江戸時代には道満河岸と渡しがあり、舟運と物資輸送の要所だった。

(7)新座郡上内間木村(朝霞市上内間木、風土記稿 7巻、p.79)
 重殿権現社:村内西の方にあり、村持ち。重殿系の神社は、権現と称していたものが多い。
 蔵王権現や熊野権現などの修験道とのかかわりが大きいのだろうか。
 上内間木は荒川の右岸と新河岸川の左岸に囲まれた低地。
 新河岸川は大正時代末期まで、上内間木から南東の下内間木で、荒川に合流していた。
 風土記稿の伝える重殿権現社の鎮座地は村の西の方なので、現在、JR武蔵野線が
 新河岸川を横断している付近だろうか。新河岸川の対岸、宮戸地区には浜崎河岸があった。

(8)入間郡林村(所沢市林〜和ヶ原、風土記稿 8巻、p.169)
 重殿社:村の鎮守なり、重殿権現と称す。瓊々杵尊を祀ると云う、此社恐くは尉殿なるべし
 瓊々杵尊(ニニギ)は五穀豊穣の守護神である。木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ、浅間神社の
 祭神とされることが多い)を妻とした。
 重殿社の付近には[ずうとはら]という小字が存在すると記述されているが、これは
 [ずうとのはら]の転訛だろうか。この重殿社は明治元年(1868)に十代神社と改称し、
 現在は林神社(所沢市林一丁目)となっている(所沢市史 社寺、p.396)。
 林神社は不老川(新河岸川の支川)の右岸に鎮座している。
 また、[ずうとはら]は林神社の鎮座する地であり、現在は重殿原と表記されている。

(9)新座郡館村(志木市館〜本町、風土記稿 7巻、p.77)
 十殿権現社:”引又河岸にあり、これも小祠なり、祭神は罔象別命なり。
 これ河岸船の出入多き故に鎮護のため勧請せしと云う。”とある。
 引又河岸は柳瀬川が新河岸川へ合流する地点、現在のいろは橋の下流にあった河岸場である。
 郡村誌には十殿権現社の記述はないが、罔象女命を祀った水神社が記されている。
 水神社は現在、敷島神社(志木市柏町三丁目、いろは橋から下流へ300m)に合祀されている。
 風土記稿の罔象別命は罔象女命の表記を誤ったのだろう。
 罔象女命(ミツハ)は水の蛇を意味し水神であり、ミヌマと同一神だという(続日本の地名、谷川健一、p.87)。
 ちなみに越谷市大松の大落古利根川の右岸堤防には、罔象女命と記された水神宮が祀られている。
 罔象女命とは水速女命(ミズハヤメ)と同じなのだろうか。

(10)所沢市西新井町
 十殿神社:上原にあったが、現在は熊野神社に合祀されている。
 付近には東川(柳瀬川の支川)が流れている。所沢市史 社寺、p.62によれば、
 十殿神社の祭神は天津彦々火瓊々杵尊、木花開耶姫、天兒屋根命、大玉命の四座であり、
 天長元年(824)の創建だという。熊野神社には金山日子神社(祭神は金山彦命)も合祀されている。

(11)所沢市宮本町一丁目
 蔵殿神社(ぞうどの):神明社の境内末社。かつては十殿権現と称していたようである。
 祭神は崇神天皇(埼玉の神社、p.234)。

小字:
(1)比企郡小川町能増
 重殿(ぞうどの):地元では[じゅうでん]と呼んでいるようだ。森下橋(市野川)
 右岸下流付近を指す。右岸上流の地名は南殿という。
 ここは近くを鎌倉街道の上道が貫通していて、沿線には中世の城址が多い。
 比企郡能増村(風土記稿 10巻、p.16)によれば、重殿に鎮座する八宮明神社(現在は八宮大神神社)の
 祭神は日本武尊であり、本地仏は十一面観音だ。神仏習合からも明らかなように、八宮明神社は
 古社である。さらに、この付近では修験の勢力が大きかったようである。
 風土記稿によれば、能増村には本山派修験の南光院、経智院などがあった。

(2)さいたま市宮原二丁目
 重殿:原殿公園(はらどの)の付近を指し、芝川の右岸と鴨川の左岸に挟まれた台地である。
 足立郡加茂宮村(郡村誌 2巻、p.404)には”原殿の内の小字。昔郷土の古跡なりと云”と記されている。
 付近には領家(荘園の領主を指す)という小字があるのが興味深い。
 なお、宮原四丁目には鍛冶公園があるが、明治8年(1877)まで、その付近は
 足立郡鍛冶村であった。村名は往古に鍛冶職人が居住していたことに由来するという。
 この地域は蔵殿(5)榛沢郡岡部村と同じく、足立郡の郡衙(ぐんが、役所)があったとされている。

(3)入間郡新久村(入間市新久、風土記稿 8巻、p.207)
 重殿山: 新久村は入間川の右岸と霞川の左岸に挟まれた丘陵地帯。
 新久村には金山という地名があり、金山権現社も祀られていたので、金属の精錬が
 行われていた可能性が高い。重殿という地名は金属精錬との関係も深そうである。

(4)入間郡馬場村(毛呂山町岩井、風土記稿 9巻、p.18)
 十殿: 馬場村は北を毛呂川、南を大谷木川(共に越辺川の支川)に囲まれた区域。
 十殿は前久保地区との境界付近だが、現在は十殿という表記ではなく、重殿となっている。
 大谷木川の左岸には延喜式内社(延喜式神名帳に記載された古社)である出雲伊波比神社
 (いずものいわい)がある。伊波比神社には毛呂の流鏑馬と呼ばれる神事が伝わるが、
 そのさいに禊を行う地が、越辺川の重殿淵(じゅうどの)である。重殿淵は岡本団地(前久保)の
 北側、箕和田との境である。なお、伊波比神社の流鏑馬は平安時代の後期、源頼義・義家が
 奥州平定のさいに伊波比神社で戦勝を祈願し、凱旋したことに由来するという。
 風土記稿の前久保村に記された八幡社が伊波比神社である。”社地を臥龍山と號す。飛來明神社、
 八幡宮と並たてり、或は毛呂明神とも唱へり”で、飛来明神社の祭神は大己貴命だ。

(5)深谷市石塚
 住殿(じゅうどの): 小山川の右岸に隣接した地区。石塚稲荷神社の付近。
 昭和初期に河川改修がなされるまで、小山川はこの付近で利根川へ合流していた。
 この付近の利根川は扇状地河川の特徴が顕著であり、河床には島状の中洲が数多く形成されている。
 かつての利根川の流路形態は今よりも網状流であり、乱流して流路変動が激しかったので、
 古来から上野国(群馬県)との間で国境争いが頻発した地である。

5.尉殿、上殿

(1)足立郡御倉村(さいたま市御蔵、風土記稿 7巻、p.296)
 錠殿社(じょうどの):村民持ち。御蔵地区は概ね台地であり、西側には見沼代用水の西縁
 南側には芝川が流れる。隣接した中川地区の中山神社は同じく、さいたま市に鎮座する
 氷川神社(高鼻町)、氷川女体神社(宮本)と共に、見沼の周辺に祭られた三位一体神だと
 する説もある(見沼その歴史と文化、p.73)。
 御蔵に鎮座する錠殿社は、地名に律令制の面影が刻み込まれているともいえる。

(2)足立郡下上谷村(鴻巣市下谷、風土記稿 8巻、p.9)
 尉殿(いどそ):常光小の東側、赤堀川の左岸。水田が広がる低地。
 隣接するのは八十ヶ谷戸という、カイト(低湿地のことだろう)が付いた地名。
 尉殿から2.3Km北西の生出塚地区には埴輪を焼成した窯跡がある。

(3)入間郡中里村(坂戸市中里、郡村誌 5巻、p.53)
 尉殿(じょうどの):高麗川大橋(高麗川)の左岸橋詰付近。
 この付近の高麗川は、今でこそ連続堤防となっているが、2000年頃までは
 霞堤(所々に開口部がある不連続な堤防)だった。

(4)入間郡萱方村(坂戸市萱方、郡村誌 4巻、p.514)
 上殿向(じょうどのむかふ):万年橋(高麗川)の上流右岸、森戸との境界付近。
 東側に隣接した森戸の小字は鍛冶屋である。
 坂戸市の高麗川の右岸には、下流から順に厚川、萱方、森戸、四日市場に
 [ずうどの]系の地名が分布している。同様に金属精錬が行われていたことを
 連想させる鍛冶屋などの地名も残っている。

(5)入間郡森戸村(坂戸市森戸、郡村誌 4巻、p.517)
 神殿(かみどの):神殿とは上殿の発音と表記が転化した可能性がある。
 なぜなら、北に隣接した萱方村には、上殿向があるのに上殿はないからである。
 上殿向の南側(向こう側)が森戸村の上殿であり、いつの間にか上殿が神殿と
 なったのかもしれない。もっともこれは、上殿を[じょうどの]ではなく、[かみどの]と
 発音していた場合に限られるが。なお、森戸地区は西南を鎌倉街道の上道が横断していて、
 付近には延喜式内社である国渭地祗神社(くにいちき)が鎮座する。
 古くは、国一熊野大権現と称していて、創建には別当三宮山大徳院が関与したようである。
 ちなみに神殿は行田市野(元荒川の左岸)にもある。発音は[かみどの]である。
 神殿の東側には氷川神社が鎮座するが、元荒川の左岸では珍しい。
 行田市野の神殿から東へ1.5Km、鴻巣市屈巣には宮殿(きゅうでん)という小字があり、
 宮殿大権現には白鳥大明神と八剣大明神が祀られている。

(6)入間郡毛呂山町下川原
 上殿(じょうどの): 多和目橋(高麗川)の左岸から北へ400m、坂戸市けやき台との境界付近。
 地区の北には葛川(高麗川の支川)が流れる。地区の南側には薬師堂、東側には
 星宮神社(古くは妙見社)が鎮座する。地形は高麗川が形成した段丘崖であり、標高は約60mと
 多和目橋の付近よりも約10m高い。多和目橋の下流付近は地頭淵と呼ばれている。

(7)入間郡越生町上谷〜古池
 上殿川(かみどの): 越辺川の支川、比企郡ときがわ町大附と西平の境界付近から
 流れ出す渓流であり、越生梅林の北方200mの地点で、越辺川の左岸へ合流している。
 延長は3Km程度と小さいが、一級河川に指定されている。
 現在の管理起点は入間郡越生町上谷の雨請松。雨請とは雨乞いのことだろう。
 入間郡上谷村(風土記稿 9巻、p.70)によれば、上殿とは比企郡大附村の小字だという。

(8)秩父郡大淵村(皆野町大淵、風土記稿 12巻、p.145)
 上殿:大淵地区は荒川の左岸に隣接する。ほとんどが丘陵であり、平地は県道37号線の
 東側にわずかに広がるのみ。地区の北側では日野沢川、南側では赤平川がそれぞれ
 荒川へ合流している。西側に隣接した野巻地区は秩父牧の所在地に比定されている。
 大淵には蔵殿権現の伝説が残る(蔵殿の(13))。蔵殿が上殿へと転訛したのだろうか。

(9)児玉郡神川町新宿
 城戸野(じょうどの):神流川の右岸に隣接した地区。城戸野古墳群があり、
 地区の名前は古墳群の中心に位置していた城戸野廃寺に由来するという。
 神流川は古くから農業用水が取水されてきた。その起源は近世以前だと
 思われ、おそらく児玉党の武士団が開発したのだろう。南方2Kmに鎮座する金鑚神社
 (神川町二ノ宮)が取水安定の守護神とされた。
 現在は九郷用水として整備され、その元圦(取水口)が神川町新宿にある。

(10)春日部市内牧〜春日部市新方袋
 城殿宮橋(きどのみや):埼葛火葬場の付近、古隅田川に架かる橋の名前。
 埼玉郡内牧村(風土記稿 10巻、p.198)に記された城殿明神社に由来するのだろう。
 付近の小字は宮川耕地だが、その中の小名が城殿なのかは不明。
 春日部市内牧には内牧塚古墳群、鷲香取神社があり、中世には牧があったとされる。

6.水殿、近殿、井殿

 これらの読みは[ずどの]や[ぞうどの]とは異なるが、殿が表記されている。
 水殿(すうどの)は[ずうどの]、[ずどの]、[ぞうどの]、[じゅうどの]へと転訛しやすいのだが、
 意外に分布数が少ない。逆に見れば水殿が基本形であり、長い年月をかけて、そのほとんどが
 別の発音・表記へと転訛してしまったともいえる。
 一方、近殿社や井殿社は祭神からも明らかなように、水に関する信仰である。
 なお、上述した尉殿は[いどの]とも読めるので井殿へつながる。

(1)水殿
 水殿(すいでん):通殿川からはちょっと遠いが、児玉郡美里町沼上の小山川の右岸に隣接して、
 水殿瓦窯跡遺跡(国指定史跡)がある。鎌倉時代の瓦窯の跡だ。沼上の北方には南十条、
 北十条という大字があるが、それらの名は条里制(中世の土地制度)に由来するという。
 小山川の十条淵には、坂上田村麻呂による大蛇退治と北向神社勧請の伝説がある。
 なお、瓦窯跡から南へ1.5Kmの広木地区に鎮座するミカ神社は、那珂郡(なか)の延喜式内社である。
 ミカとは酒を造るための大きなカメのことだそうだ。この付近は古い時代からカメや瓦の
 製造職人が定住していたので、ミカ神社はおそらく土師部が信仰を寄せたのだろう。
 広木地区には広木大町古墳群、万葉集にも詠われた井戸、曝井(さらしい)の旧跡もある。

 水殿:比企郡川島町山ヶ谷戸。太郎右衛門橋(荒川)の右岸下流付近の河川敷が
 水殿(すうどのか?)と呼ばれているという(荒川 人文3、p.531)。洪水によってできた所との
 補足があるが、同書に掲載された位置図では、表記は水頭となっている。
 水頭と水殿の表記の異なる部分を並べると、頭殿となるのは偶然だろうか。
 太郎右衛門橋の付近には、昭和初期まで渡し(渡船)があり、河川敷(旧荒川の畔)には
 江戸時代から延命地蔵(石橋供養)が祀られている。

(2)近殿
 近殿社:旛羅郡飯塚村(熊谷市飯塚、郡村誌 10巻、p.228)に、近殿社(祭神は奇稲田姫命)の
 記録がある。現在、近殿社は太田神社に合祀されているようだ。

 近殿神社(ちかどの):熊谷市下増田。旧熊谷市の市域の最北端、深谷市と妻沼町との境界付近。
 福川の右岸に近殿神社(祭神は奇稲田姫命)が鎮座する。うらぶれた小社である。

 近戸権現社:入間郡堂山村(越生町堂山、風土記稿 9巻、p.71)
 村の鎮守なり。田原藤太秀郷の霊を祀るというが、その確証はない。
 何故、近戸権現と称するのかも不明とある。近戸とは近殿が転訛した可能性が高い。
 現在、近戸権現社は梅園神社(越生町小杉)に合祀されている。
 なお、近戸という地名は秩父市にもある。蔵殿(12)に記述した別所村の対岸の小字が
 近戸だった。現在は秩父市近戸町と名称が変更されている。

(3)井殿
 井殿権現:福川の右岸堤防に隣接する長井神社(熊谷市西野)は
 旧称が井殿権現だった。市杵島姫命、下照姫命、猿田彦命などが
 祀られている(風土記稿 11巻、p.204、西野村に詳しい沿革あり)。

 井殿明神:玉井神社(熊谷市玉井)は、古くは井殿明神と呼ばれていたという(風土記稿 11巻、p.179)。
 祭神は倉稲魂神である。また、井殿明神の別当である吉祥院の山号は、本山修験 井殿山井殿寺だった。
 玉井という地名は村内に古い井戸があったことに由来するという。玉井神社の北側を
 流れる奈良堰用水(六堰用水の1つ)が、玉井地区と別府地区の境界となっている。

 この付近には西別府、奈良新田、四方寺などに湯殿神社(祭神は大山祇命)が存在するが、
 近殿と井殿は明らかに水に関する信仰であり、湯殿とは別系列なようだ。
 ただし、西別府の湯殿神社は別府沼(かつては福川の水源)の水源地とされ、
 境内はずれには水神(寛文十一年建立)が祀られている。


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