大落古利根川 (古利根橋から終点まで)  [大落古利根川のページ一覧

 撮影地:埼玉県春日部市、北葛飾郡松伏町、越谷市

 古利根橋の付近
(1)古利根橋の付近 (上流から)
 左岸:春日部市赤沼、右岸:越谷市平方
 古利根橋は県道80号野田岩槻線の道路橋。
 所々に繋留された小舟は渡船場(戸崎の渡し)や河岸場
 (増林河岸など)の名残だろうか。古利根川では、ありふれた
 光景だ。越谷市平方の南に隣接した地区は船渡(江戸時代
 は船渡村)であり、交通手段が村名となっている。
 このように、かつて古利根川では水運が盛んだった(注1)
 明治から大正期には水運の便と古利根川流域の豊富な
 氾濫土という利点から、河畔の増林村(現.越谷市増林、
 増森、中島など)には、数多くの
煉瓦工場が設立されている。
 写真の奥に見えるのは民家の屋敷林。古利根川の
 両岸に形成された自然堤防上には民家が密集している。
   新旧の堤防
  (2)新旧の堤防 (左岸上流から)
   左岸:松伏町大川戸、右岸:越谷市船渡
   写真(1)から1Km下流。左岸の光源寺の周辺には約600mに
   渡って古い堤防が残っている。武蔵国郡村誌(明治9年に編纂)に
   記された
古利根川堤の名残りだと思われる。新旧の堤防は
   並行している。このように配置したのは、治水目的があったのか
   不明だが、結果的には二線堤となっている。旧堤防の上には
   
八大龍王と水神宮が祀られている。八大龍王とは中川水系に
   顕著な水神だが、荒川水系や利根川水系では九頭龍が多い。
   大杉の渡し(大川戸と大杉を結んでいた)の安全祈願や堤防の
   守護神として祀られたのだろう。なお、この付近の左岸には
   宿通用水路と宮寺前用水(共に農業用水)の取水樋管が設けられている。

 堂面橋の付近
(3)堂面橋の付近 (下流から)
 右岸:越谷市向畑、左岸:松伏町松伏
 写真(2)から1.5Km下流。古利根川はここまで南東へ
 向かって流れてきたが、堂面橋の上流で大きく蛇行し、
 一時的に南西へと流れを変える。堂面橋もその前身は
 堂面の渡し(注2)と呼ばれる渡船だった。
 堂面橋の左岸下流100mには、本田用水樋管改築碑(明治
 32年建立)が建てられている。写真下部の本田樋管は
 コンクリート製だが、その様式から昭和初期の竣工だと
 思われる。それ以前の樋管は煉瓦造であり、明治32年
 (1899)に竣工している。本田とは二合半領の本田を指す。

   松伏溜井
  (4)松伏溜井 (下流から)
   右岸:越谷市大吉、左岸:松伏町田中三丁目
   古利根堰の上流側は古利根川の河道を利用した貯水池となって
   いて、川幅は広い。ここは松伏溜井(ためい)と呼ばれる(注3)
   葛西用水はこの溜井へ送水するために、古利根川を利用して
   いるとも言える。溜井の原形は江戸時代に造られたものだが、
   現在でも利水(農業用水の貯水池)と治水(洪水の遊水池)の
   両機能を持つ。松伏溜井の周囲には親水護岸(階段護岸)と
   桜並木が整備されていて、市民の憩いの場となっている。
   なお、右岸上流の越谷市向畑地区には、江戸時代建立の
   
石橋供養塔が残っているが、この石橋とは古利根川ではなく、
   村の用水路に架けられていた橋に関するもの。

 古利根堰
(5)古利根堰 (上流から)
 左岸:松伏町田中三丁目、右岸:越谷市大吉
 古利根堰は、かつては増林堰枠と呼ばれた。
 その起源は江戸時代初期に建設された石洗堰(固定堰)。
 大正10年にそれまでの木製の堰枠(埼玉県写真帖、p.40)
 からコンクリート製へ改築され、名前が古利根堰となった。
 現在は鋼製ローラーゲート(幅20m)3門の巨大な施設に
 変貌している。右岸から逆川へ分水する。逆川の下流は
 再び
葛西用水となり、元荒川の瓦曽根溜井へと送水されて
 いる。このように葛西用水は、瀬替えで残った利根川と
 荒川の旧河道を整備し直して、溜井同士を連絡した形態と
 なっている(いわゆる関東流)。なお、逆川の名は
 開削当初、非かんがい期や増水時には、水が
元荒川から
 古利根川の方向へ逆流したことに由来するのだという。
 そのため、大吉村と増林村の境界(現在の大吉調整池
 付近)では水害も多かったようだ。なお、この付近の
 古利根川の右岸には、大正後期に建てられた、
 南埼玉郡新方村と増林村の
道路元標が今も残っている。

   
大落古利根川の終点
  (6)大落古利根川の終点 (下流から)
   右岸:越谷市増森、左岸:松伏町下赤岩
   
中川(写真右)に合流して、大落古利根川は終了する。
   合流地点に架かるのは、県道67号吉川松伏線の弥生橋。
   弥生橋の下流では左岸に
八間堀(農業排水)が合流している。
   大正期までは、ここから下流の流路も古利根川と呼ばれていた。
   弥生橋の下流右岸には、古利根川の蛇行した旧流路跡が
   約2Kmに渡り、残っている(一部は
新方川の流路となっている)。
   ここも弥生橋が架かるまでは、下赤岩の渡しと呼ばれる渡船だった(注4)
   かつて中川(庄内古川)は、ここから上流の松伏町金杉付近で
   江戸川に合流していた。金杉付近から元荒川が合流する地点までの
   現在の中川は、昭和初期に古利根川へ繋げるために開削された
   人工水路である。中川は埼玉県東部の農業用水の最終的な
   落ち口であり、利根川から取水し、田んぼに使われた後の水が
   集められて、最後は東京湾へと流れ込む。なお、大落古利根川の
   周辺は、広域地盤沈下が進行したため、埼玉県による対策事業が
   おこなわれた。都市化の進行によって、水田が減少し地下水の
   涵養量が減ったこと、地下水の過剰な汲み上げなどが原因である。

(注1)戸崎の渡しは、新編武蔵風土記稿の埼玉郡平方村に
 記述がある。私渡しであり、平方村と葛飾郡赤沼村を結んでいた。
 戸崎とは平方の小字であり、古利根橋の付近を指す。
 下流にあった大杉の渡しは、武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の
 葛飾郡大川戸村(14巻、p.240)に記述がある。
 ”耕作渡:里道に属し
 村の南方 古利根川の下流にあり 渡船一艘 私渡”
 大杉村と大川戸村を結んでいた。

(注2)武蔵国郡村誌の埼玉郡向畑村(11巻、p.174)に
 ”耕作渡:村道に属し村の東方
 古利根川の下流にあり 渡船一艘 私渡”とある。
 これは堂面の渡しのことだろう。堂面とは松伏町松伏の小字である。
 なお、耕作渡とは川の対岸にある農地へ行くために
 設けられた渡船場のことで、一般的に規模は小さい。

(注3)松伏溜井には河岸場(廻船問屋が立ち並び、荷物の積み下ろしが
 行われた場所)が設けられていた。新編武蔵風土記稿の葛飾郡松伏村(2巻、p.167)に
 ”河岸場:村の南
 古利根川の内にて、近郷より年貢津出しの河岸なり、
  名主民部が進退する所ゆへ、民部河岸と唱ふ、江戸まで水路凡そ十二里”とある。
 民部とはこの付近の名主の石川民部であり、代々民部を名乗っていたようだ。
 江戸川の棒出しを強化させた人物としても著名である。
 石川家は元々は関西の武家であり、江戸時代初頭に松伏に定住したとされている。
 なお、津出しとは年貢米を舟へ積み出すこと。

 余談だが松伏溜井の周辺は、かつては桃の名所だったようである。
 武蔵国郡村誌の葛飾郡松伏村(14巻、p.206)には、地味として
 ”色赤黒或は砂を交ゆ稲に宜しく桃に適す”とあり、物産には鯉、鰻、鯰、鮒などの
 川魚と共に、桃千四十九籠が記されている。明治初年の時点では
 松伏溜井の岸辺には、数多くの桃の木が植えられ、近隣には桃の里として
 名を馳せていたと思われる。おそらく桃源郷(見たこと無いけど)の
 ような光景だったのだろう。現在は桃林の面影はないが、
 変わりに見事な桜並木が整備されている。

(注4)下赤岩の渡しの前身は、江戸時からの孫七渡だったと思われる。
 新編武蔵風土記稿の葛飾郡下赤岩村(2巻、p.171)の古利根川の項に
 その記述がある。”作場渡あり、対岸増森村へ達す、名付て孫七渡と云う”
 作場渡とは対岸に農地がある場合、農作業のために特別に許された渡しのこと。
 当時の古利根川は下赤岩村の付近では、川幅が六十間(108m)あったというから、
 現在と、さほど変わりがない。


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