綾瀬川 (源流と起点)  [綾瀬川のページ一覧

 撮影地:埼玉県桶川市、蓮田市

 綾瀬川は延長約48km、流域面積148Km2の利根川水系の一級河川。
 埼玉県桶川市小針領家を起点とし、埼玉県内を概ね南東へと流れ、東京都葛飾区東四っ木で
 中川に合流する。埼玉県内では綾瀬川が北足立郡と南埼玉郡の郡界を規定している。
 河川延長が割合長く、下流部では川幅も広がり、大河の様相を呈するのだが、意外なことに
 綾瀬川には高水敷(俗に言う河川敷)が、ほとんど存在しない。
 綾瀬川は山地水源を持たない河川であり、主な水源は農業排水である(下流部では都市排水)。
 ただし完全な排水河川ではなく、中流部までは用排水兼用であり、岩槻市加倉三丁目〜
 さいたま市宮ヶ谷塔には、農業用水の取水堰:大橋井堰が設けられている。
 これは綾瀬川に残る唯一の取水堰である。
 綾瀬川の主な支川には、原市沼川、深作川、新堀排水路、黒谷落、五才川(御菜川)、伝右川、毛長川がある。

 荒川だった綾瀬川:
 元来、綾瀬川は荒川(現在の元荒川)の主流だった。郡界が設定された古代から中世には、
 綾瀬川(旧流路を含む)は大河であり、北足立郡と南埼玉郡(当時は足立郡と埼玉郡)の境とされた。
 しかし、綾瀬川の流域には元荒川に比べると、ほとんど自然堤防が発達していない。
 この理由として、綾瀬川は中世以降に何らかの理由で水量が減少し、土砂の運搬・堆積が
 少なかったこと、そのため荒川の本流だった期間が意外に短かったこと、あやしの川と呼ばれるくらい、
 流路の変動が激しかったために、土砂の堆積が拡散したことなどが挙げられる。
 そして時代を経て、荒川の主流は現在の元荒川へと移行し、綾瀬川は荒川の派川と化していった。
 これは自然な流路変遷ではなく、人の手が加えられた結果だと思われる。例えば綾瀬川を荒川へ
 繋いだ河道(放水路だろう)が開削された可能性が高い。荒川の派川となり、水量が減った綾瀬川だが、
 元来、低い地域を流れる川なので、洪水時には水量の大半が綾瀬川へと流れ込み、周辺地域に
 頻繁に湛水被害を及ぼしていたと思われる。綾瀬川は蛇行が激しいので、洪水流下能力は低かった。
 江戸時代初頭には、流域の水害防止と新田開発のために、綾瀬川は荒川の流れから切り離された。
 その締め切り地点に設けられた堤防が備前堤(桶川市)であり、奇しくも現在は備前堤が綾瀬川の
 一級河川の管理起点となっている。ちなみに芝川(荒川の支川)の源流も、綾瀬川と同様に桶川市内にある。

 綾瀬川の締め切りによって、元来は綾瀬川へ流れ込んでいた水は荒川(元荒川)へと導水された。
 荒川の下流には末田須賀溜井瓦曽根溜井が設けられていたが、
 それらの溜井(農業用水の貯水池)では、水量が増強されたことになる。
 締め切り後の綾瀬川は農業用水路として使われていたが、延宝8年(1680)には幕府によって
 綾瀬川への用水堰設置禁止令が発布され、岩槻領よりも下流は悪水(排水)専用の河川とされている。
 流頭(水源)が絶たれたことで水量が減り、堰止め禁止によって滞留もなくなったので、
 綾瀬川の水位は以前よりもかなり低くなったと思われる。流域の水害が減少したこと、
 排水環境が向上したことなどから、綾瀬川流域では新田開発が進行したと推測される。
 なお、綾瀬川は江戸時代初期までは、埼玉郡垳村(現在の八潮市垳)で古利根川(現在の中川)へ
 合流していた。草加市内を南流する現在の流路は元禄年間(1690年頃)に開削されたもので、
 新綾瀬川と呼ばれた。綾瀬川の旧流路跡は草加市内が古綾瀬川、八潮市内ががけ川と呼ばれている。

 綾瀬川の舟運:
 綾瀬川の流域は大宮台地の東縁部の低平地であり、地形的に起伏の変化が少ないので、
 綾瀬川の河床勾配は約1/5000と非常に緩やかである。そのため、かつては頻繁に蛇行を
 繰り返して流れる河川だったが、埼玉県が実施した近代改修によって、ほとんどの屈曲は
 昭和初期までに取り除かれた。上流部(起点から原市沼川の合流まで)の区間は、
 昭和7年(1932)から昭和10年(1935)にかけて、中下流部(原市沼川の合流から終点まで)は
 大正9年(1920)から昭和5年(1930)にかけて改修が行なわれた(埼玉県の13河川改修)。

 綾瀬川は江戸時代から舟運が盛んだった。これは蛇行区間が多いため、年間を通して河川水位が
 安定していたこと、延宝8年(1680)に幕府が綾瀬川用水堰禁止令が発布し、綾瀬川に取水堰を
 設置することを禁じたこと、などにより舟運に有利な河川環境だったためである。
 しかし、上述の河川改修によって、昭和初期に舟運には事実上、終止符が打たれた。
 綾瀬川の舟運の特徴は、他の河川の舟運に比べて、扱う荷に東京からの肥料(人糞)が
 多かったことであり、肥船と呼ばれる運搬船が往来していた。
 舟運の中継基地となったのが河岸場(川岸場)である。最上流の河岸場(船着き場)は
 南埼玉郡綾瀬村(現在の蓮田市蓮田)の原市沼川の合流地点付近にあった。
 綾瀬川には河岸場の跡が今も数箇所に残っている。綾瀬川の主な河岸は、
 風間河岸(さいたま市深作五丁目)、加倉河岸(岩槻市加倉三丁目)、妙見河岸(岩槻市横根)、
 藤助河岸(越谷市蒲生愛宕町)、札場河岸(草加市神明2丁目)などだった。

 綾瀬川の水質:
 かつての綾瀬川は一級河川の汚染度では1980年から15年連続で全国のワースト1だった。
 綾瀬川は長い間、日本一汚い川の悪名を被せられてきたが、汚染された川(BOD 28.2:平成4年)も、
 最近では割合きれいな川(BOD 7:平成12年)へと変貌している。
 これは、荒川の水を浄化用水として導水する等の対策がなされたからである。
 埼玉高速鉄道の赤羽岩淵駅〜浦和美園駅間の下には、荒川から綾瀬川に向かう導水パイプが
 埋設されている。この浄化用水は途中で芝川、綾瀬川の支川(毛長川、伝右川)にも送水される。
 浄化用水の導水は、平成15年(2003)から本格的に稼動する予定である。
 しかし、浄化用水の導水というのは、綾瀬川の水量を増やして希釈しているだけの
 見かけだけの対策であり、本質的な浄化ではない。導水されているのも他水系からの水である。 

 備前堤と綾瀬川の起点標石    綾瀬川の起点
  ↑もう一つの起点標石
   管理起点の道路脇には、こんな大袈裟な標石も
   設けられている。なんと綾瀬川の起点を示す管理標は
   2つあるのだ。もっとも綾瀬川の源流も2つあり、
   西側(舎人新田地区)と南側(小針領家地区)から
   流れてくる2つの悪水路(農業排水路)の合流地点が、
   綾瀬川の管理起点となっている。なお、舎人新田は
   元和年間(1620年頃)に拓かれた新田である。
↑備前堤と綾瀬川の起点標石(桶川市小針領家)
 赤堀川に架かる鍋蔓橋(なべつる)の南側200m、桶川市清掃センターとJR上越新幹線の
 高架橋の中間に位置する。写真上部の道路は備前堤の跡で、その法面に綾瀬川の
 管理起点の標石があり、[一級河川 綾瀬川起点]と刻まれている。

 備前堤(注1)とは伊奈忠治によって、慶長年間(1600年頃)に築かれたと
 される綾瀬川の締切り堤防。現在でも約500mが残っている。近世初頭には
 綾瀬川は旧荒川(現在の
元荒川)の派川(旧荒川から分岐する川)だった。
 旧荒川が高台を流れるのに対して綾瀬川は低地を流れていたので、旧荒川が増水すると
 洪水の大半は綾瀬川の方へ流下し、下流側の伊奈、蓮田地域に水害をもたらしていた。
 そのため、下流側の洪水被害を防ぐ目的で、綾瀬川の分岐地点に備前堤が
 築造され、綾瀬川への流入量が調整された。備前堤は締切り堤防だけでなく、
 控堤(村囲み堤)の役目もあったので、備前堤の上流側は遊水地の一種となったのである。
 現在も小針領家地区には、備前堤の上流側(西側)には堤外、下流側には堤内という
 小字が残っている。控堤が存在することで、水害を避けられるのが堤内である。

 横手堤
↑横手堤(桶川市五丁台)
 綾瀬川の管理起点の西側には
赤堀川が流れている。
 赤堀川の右岸側にも古い堤防が残っている。
 こちらも備前堤と同時期の築造であり、赤堀川を
 旧荒川(現.元荒川)へ落とす目的で
 築かれた(高さ約3mの導流堤である)。
 横手堤の南側の裾(写真右端)には、横手堀(中堀)が
 流れている。横手堀(農業排水路)は現在は
 綾瀬川の源流のひとつである。
 埼玉県の中川周辺には、備前堤のような
 江戸時代に造られた
控堤や横堤が数多く残る。

  備前堤の御定め杭
 ←備前堤の御定め杭
 上:桶川市小針領家
 綾瀬川の管理起点の脇に残る。
 24cm角、地上高46cm、刻字は三面。
 正面には御定杭、馬踏面、側面には
 第貮番杭、背面に明治四十四年改と
 記されている。鍋蔓橋の右岸から
 南北方向に延びる道路が備前堤。

 下:桶川市小針領家〜蓮田市高虫
 綾瀬川の管理起点の北側400m、
 赤堀川が元荒川に合流する付近の
 赤堀川右岸堤防に残る。こちらは
 復刻だろうか、石材は花崗岩である。

 備前堤のような控堤が存在すると、
 堤防を挟んで上流側と下流側では
 利害が対立する。堤防の管理を巡って
 論争(時には出入りと呼ばれる武力行使)が
 繰り返される堤防は論所堤とも
 呼ばれた。これらの杭は備前堤の
 高さが、勝手に変更されないように
 設けられた。上下流の村の同意のもとに、 
 堤防の基準高を規定したもので、
 無駄な争いを抑止するのが
 目的であった(注2)
  備前堤の御定め杭

綾瀬川の締め切り:
 埼玉県史
 資料編13の口絵8(備前堤絵図)によれば、綾瀬川の
 締切り地点は、非常に複雑な水利形態となっていた。
 備前堤に沿って
赤堀川が流れ、旧荒川(元荒川)へ合流していた。
 つまり、備前堤は赤堀川の導流堤であり、赤堀川の水を元荒川へ
 排水する目的も兼ねていた。同時に、備前堤は赤堀川を綾瀬川から
 締め切るための堤防でもあった。赤堀川の西側(綾瀬川の上流側)には、
 小行川(小新川)という名の水路が存在していた。元荒川には堰が
 設けられていて、そこから小行川へ導水し、赤堀川の上を掛樋(水路橋)で
 横断し、赤堀川にいったん水を落としてから、備前堤に伏せ込まれた、
 竜圦樋(形式は伏越だったようだ)を経由して、綾瀬川へ通水していた。
 この水は小針領家村外15村の用水となっていた。
 つまり鴻巣領の悪水が、赤堀川(南から北へ流れる)によって
 元荒川へ落とされる地点に、元荒川から取水する小行川(北から南へ
 流れる)という、赤堀川とは逆方向に流れる用水路が存在していたのである。

 備前堤が築かれても、このように綾瀬川は元荒川から水利的に
 完全に切り離されたのではなかった。竜圦樋によって綾瀬川への
 流入量を制御していたのである。赤堀川は元来は綾瀬川の支川だったと
 思われるのだが、疑問なのは何故、赤堀川から綾瀬川へと直接
 通水しなかったのかである。悪水路から取水すると水論(水争い)の
 原因となるので、あえて赤堀川は悪水落し専用と位置付けたのだろうか。
 しかし、文化八年(1811)には竜圦樋の普請をめぐって、上流側と下流側との間で
 出入が起こり、訴訟問題にまで発展している(埼玉県史 資料編13、p.744)。
 その後、天保十年(1839)には竜圦樋は撤去され、用水は新たに見沼代用水から
 取り入れるようにと、評定所から裁定が下されたようである(前掲書、p.877)。
 ともあれ、備前堤の築造によって元荒川を流下する水量は増加した。
 時を同じくして、元荒川の下流部(越谷市)には
瓦曽根溜井が造成されている。
 これは農業用水の取水を目的とした、ため池なので、瓦曽根溜井の
 貯水量は結果的(計画的に?)に増加したことになる。

綾瀬川と備前堤:
 綾瀬川の管理起点である備前堤には、いまだに樋管が残っていて、
 綾瀬川の締め切り当時の歴史的な面影がわずかだが残っている。
 この樋管、
護摩堂樋管は明治45年(1912)竣工であり、コンクリート製の
 樋管としては埼玉県では現存最古級である。土管をコンクリートで
 巻き立てた構造で、門柱(銘版を兼用)は石造りである。
 翼壁は無筋コンクリートだと思われる。護摩堂樋管は綾瀬川の締め切り
 当初の目的とは異なり、この付近にかつて存在した護摩堂沼の水を抜き、
 干拓するために建設されたものであろう。
 護摩堂樋管は横手堀(悪水路、赤堀川の右岸に沿って流れる)と繋がっている。
 横手堀にも護摩堂樋管と同型式・同年竣工の樋管(横手樋管)が設けられている。
 通常は横手樋管を経由して悪水を赤堀川へ排除するようだが、
 赤堀川へ排水しきれない場合には、護摩堂樋管を通して綾瀬川へ
 排水する仕組みだと思われる。

綾瀬川の源流:
 現在の綾瀬川は、元荒川からは水利的に完全に分離されているので、
 はっきりとした水源はない。平地から始まる河川なので、主な水源は
 周辺地域の悪水(雨水や田んぼからの排水)である。
 綾瀬川の源流となっているのは、赤堀川、横手堀、小針領家からの
 農業排水路である。
 ちなみに桶川市には綾瀬川の他にも一級河川の源流が2つある。
 ここから南西へ約3Kmの圏内にあるのが
芝川鴨川の源流。
 共に荒川水系の河川だが、綾瀬川と同様にはっきりとした源流ではなく、
 管理起点は桶川市内には設けられていない。
 この付近はJR高崎線沿いが大宮台地の最高位部であり、
 そこが荒川水系と中川水系の分水界となっている。


(注1)備前堤は武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の埼玉郡高虫村(11巻、p.418)に、
 ”村の西方にあり
 字正御地耕地より起り小針領家村界に至る
  長百間余 堤敷四間馬踏九尺 修繕費用は民に属す”と記されている。
 高虫村の区間(元荒川の右岸側)だけでも、長さが200m近くあったことがわかる。
 さらに、備前堤は堤防の敷幅が四間(7.3m)、天端幅が九尺(2.7m)だが、
 それに対して、元荒川の堤防は堤敷三間、馬踏六尺であった。元荒川の本堤よりも
 備前堤(綾瀬川の締め切り堤防、兼.村囲堤)の方が規模が大きかったのだ。

 なお、備前堤は固有名詞というよりは、伊奈家が築いた堤防の総称名であり、
 日本各地に存在する。紛らわしさを排除するために、綾瀬川の備前堤を
 加納備前堤と呼ぶこともある。埼玉県には鴨川の左岸(さいたま市三橋四丁目)にも
 備前堤の跡がある。これは古荒川(入間川)から鴨川が分岐する地点に
 設けられた締め切り堤防であり、締切地点の鴨川の河道は溜井(かんがい用の
 ため池)として利用された。この溜井跡は現在も関沼と呼ばれている。
 武蔵国郡村誌の足立郡植田谷本村(2巻、p.259)には、この備前堤について
 ”悪水除堤:関沼溜井に沿ひ村の東方にあり
 長百九十五間
  馬踏九尺
 堤敷一丈四五尺修繕費用は民に属す”と記されている。
 天端幅2.7m、長さ約355mの大きな堤防である。

(注2)取り決めを交わし、御定杭が設置されていても、大水などで
 自分の村が危うくなると、それらを破って行動してしまうのが人間の常である。
 例えば、明和三年(1766)には、大雨のさいに上流の村々が備前堤を
 切り崩すという事件が起こっている(埼玉県史
 資料編13、p.743)。
 また、文政七年(1824)には再び、上流の村々が警戒中の下流の村々と
 争いながら、備前堤を切り崩している(前掲書、p.746)。
 上流の村々は舟で備前堤に乗り付けて来たと記されているので、
 洪水流は備前堤によって遮られ、かなりの湛水深があったことがわかる。
 このように上流の村々は、自村を水害から守るために、執拗に備前堤を
 切り崩している。上流側が頻繁に湛水被害に遭う原因は、備前堤の存在のみでなく、
 赤堀川の洪水流下能力が絶対的に不足していたことが考えられる。
 それは赤堀川単独の問題ではなく、赤堀川の排水先である元荒川にも起因している。
 おそらく洪水時には、元荒川の水位が高くなりすぎて、赤堀川から元荒川へは排水が
 不可能となり、さらには元荒川から赤堀川へ洪水流が逆流入していたのだろう。


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