元荒川支派川改修事業

 元荒川・支派川改修事業とは、大正末期から昭和初期にかけて埼玉県が実施した[13河川の改修]
 うちの事業である。[13河川]とは大落古利根川、青毛堀川、備前堀川、姫宮落川、隼人堀川、
 元荒川、星川、忍川、野通川、綾瀬川、福川、芝川、新河岸川である。
 これらを水系別に見ると、中川水系が10河川、利根川水系が1河川、荒川水系が2河川となっていて、
 中川水系の比率が高いが、大落古利根川には4支川、元荒川には3支川が含まれているので、
 実質的には中川水系は大落古利根川、元荒川、綾瀬川の3河川である。

 [13河川の改修]は同時期に進行していた、内務省による庄内古川(中川)、利根川、荒川の改修に
 併せて計画されたもので、埼玉県の排水幹線の改良事業として位置づけられる。
 埼玉県内の河川は最終的に上記河川へ排水されているので、埼玉県が単独で支川の
 河川改修(排水改良)を実行しても、さほど効果は上がらない。もっとも埼玉県が河川改修を実施すると、
 下流に位置する東京府への排水量が増大することになるので、利害が対立して改修計画は
 実行に移せないというのが実状だった。ともかく、[13河川の改修]は東京府との利害を調整しながら
 長年の懸案だった排水幹線の整備改修が展開されたことになる(注)

 当時、埼玉県では耕地整理事業の拡大等によって、河川への排水量が増大しており、
 治水上の観点からも、旧態化した上記河川の抜本的な改修の必要性が叫ばれていた。
 一方で、食糧増産が国是だった時代であり、農商務省は大正4年(1915)に各県知事に対して、
 食糧増産のための悪水路(排水河川)の改修促進を通達を出している。
 なお、[13河川改修]の当所の計画案には”堰や水門の存在によって阻害されていた舟運の便を
 復活させる”(埼玉県行政文書 大971)が盛り込まれていたが、綾瀬川と新河岸川を除き、
 舟運に主眼を置いた河川整備は実施されていない。

 元荒川・支派川の改修は、大正8年(1919)に起工し、大正13年からは国庫補助を受け、
 昭和12年(1937)に18年の歳月をかけて完了した。国庫補助は内務省からではなく、
 農商務省から用排水改修事業費補助を受けている。500ha以上の受益地を持つ用排水改修事業に
 ついては、事業費の50%の国庫補助が公布されたからである。これは現代の組織に当てはめると、
 国土交通省ではなく、農林水産省から土地改良事業費としての補助を得たことになる。
 農林水産省が主導となり、河川改修(幹線排水路の改良)が実施された点が興味深い。
 元荒川・支派川の改修は排水改良と同時に、農業用水の不足を解消する事業でもあった。

 改修事業の内訳は元荒川の河川改修は、埼玉県内務部水利課(13河川の改修のために大正7年に
 新設された。大正10年4月には河川改良課と改称)、支派川の改修は埼玉県耕地課が担当したと思われる。
 支派川の改修とは、農業用排水路の改良と水利施設の改造を主とした事業だったようである。
 なお、当時の元荒川は現在のように一級河川ではなく、準用河川(旧河川法の下)であった。
 準用河川とは、現在の河川法にも引き継がれた河川の等級の一つで、一級河川のように全面的に
 河川法が適用されるわけではなく、一部の規定が準用される河川のことである。
 元荒川改修事業
の工事起点を示したと思われる標石が、吹上町の元荒川右岸に残っていて、
 それには[準用河川 元荒川 起点]と記されている。

 元荒川支派川改修事業では河川や水路の改修に付随して、数多くの構造物(道路橋、水路橋、
 取水堰、伏越)が建設されている。現在も現役の構造物として使われているものもあり、
 どれも造形や装飾性に優れている。貴重な土木遺産であるとして、土木学会の
 [日本の近代土木遺産]に選定されたものも多い。
 →
 日本の近代土木遺産のオンライン改訂版、書籍版は日本の近代土木遺産(土木学会、丸善、2005)。

 → 元荒川支派川改修事業で建設された構造物(所在地と特徴の一覧)
 →
 橋の欄干の特徴(元荒川支派川改修事業での橋と同時代の他の事業での橋の意匠比較)

(注)[13河川の改修]は大正時代後半に突然、実施されたわけではなく、
 その萌芽は明治時代後半に既にあった。例えば明治35年の埼玉県議会では
 大落古利根川の改修実施に関する建議が、県会議員22名によって
 提出されている(埼玉県議会史
 第二巻、p.1098)。
 そして埼玉県の土木予算に明治35年度に大落古利根川の河川改良測量費、
 明治36年度には元荒川、綾瀬川、庄内古川(現在の中川)の測量費が計上されている
 (埼玉県議会史
 第二巻、p.1070、1158)。しかしその後、これらの河川については
 排水改良や舟運の便を目的として浚渫が行われたのみであり、
 結局、明治時代には流路の変更を伴う抜本的な河川改修は実施されなかった。

 元荒川支派川の改修記念碑  ←元荒川支派川の改修記念碑 昭和12年(1937)建立
 現在は元荒川上流土地改良区の敷地内(行田市若小玉)にある。
 もとは、忍川の勝鬨橋(かちどき)付近(行田市桜町一丁目)に
 建てられていたそうである。
 題額は元埼玉県知事で13河川改修計画の立案者、岡田忠彦。
 碑文に記された工事摘録は以下のとおり。

 酒巻導水路新設 6019m
 上星川改修    8672m
 新忍川新設    9475m
 玉野用水路新設 6494m
 野通川改修   14136m
 長野落改修    2737m
 関根落改修     529m
 構造物 導水路元圦その他 145箇所
 関係面積 8061町歩
(ha)
 改修工事費 98万9218円

 関係市町村:忍町、成田村、中條村、南河原村、北河原村、星河村、星宮村、
 持田村、下忍村、長野村、荒木村、太田村、埼玉村、廣田村、共和村、屈巣村、
 笠原村、新郷村、志多見村、種足村、菖蒲町、小林村
 以上、22町村によって大正9年に、元荒川支派川普通水利組合が結成されている。
 菖蒲町、小林村(共に南埼玉郡)以外は、全て旧北埼玉郡である。→
北埼玉郡の道路元標

 柳堀改修之碑
 ←柳堀改修之碑 昭和10年10月建立
  沼尻神明宮(行田市中里15付近、忍川の沼尻橋左岸)

  写真の左端が改修之碑、中央が塞神(寛政十二年建立、三猿の像)、
  ひとつおいて、隣が道しるべ(めぬま くまがや道)。
  柳堀改修之碑の題字は、埼玉県耕地課長 前川純三。
  この碑は柳堀の改修(旧星宮村の有志が協議し実行した)を
  記念したもの。柳堀は忍川の左岸へ合流する農業排水路で、
  改修前は高田川と呼ばれていた。高田川は忍沼(行田市内に
  あった沼。跡地は
水城公園)に排水していたが、この事業によって
  忍川へ排水するように改修された。
  柳堀の改修は元荒川支派川改修事業とは、直接関係はないが
  新たに忍川が開削されたことによって、事業が必要になった。
  この例のように、元荒川支派川改修事業の進展に伴い、
  周辺地域では排水改良や土地改良に関する小規模な工事が
  展開されたことがわかる。

 耕地整理記念碑
 ←耕地整理記念碑 昭和10年建立?
  高源寺の北側(行田市向町10付近、忍沼川の左岸)

  忍町第二耕地整理組合が建立したもの。
  題字は埼玉県知事 川西実三。
  施行面積 24町1反、設立認可 昭和8年11月22日
  工事着手 昭和9年1月19日 工事竣工 昭和9年3月20日
  設計工事監督は農林技手 高山亀男。

  これも元荒川支派川改修事業の進展に伴い、
  周辺地域で行なわれた小規模な耕地整理事業の一例。
  忍沼の東側の向町から佐間にかけての地区で、
  耕地整理が実施されたと思われるが、現在、この一帯は
  宅地化が進んでいて、農地はほとんどない。
  なお、こから東へ3Km離れた小針地区でも、同時期に
  耕地整理が実施され、小針沼の干拓、
中堤の増築が行われた。    

 赤堀改修碑
↑赤堀改修碑(菖蒲町下栢間字上在家)
 昭和9年5月建立。栢間赤堀の改修を記念した碑。
 
栢間赤堀は元荒川と野通川の間にある悪水路。
 この碑の西側には、神明神社の社叢林が広がる。

  
 石碑の題字
  ↑石碑の題字 嘉福成基と篆刻されている。
   題字は埼玉県耕地課長 前川純三
   この事業は埼玉県耕地課によるもので、
   関係村は北埼玉郡笠原村、南埼玉郡小林村、
   栢間村などである。栢間赤堀の改修も
   元荒川支派川改修の一環として、実施されたと思われる。
   なお、元荒川の改修事業に触発されて(機に乗じて)、
   周辺の地域では河川改修事業(事実上の土地改良事業)が
   展開されている。
会の川(羽生市〜加須市)の改修事業も
   その一つである。

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