瓦葺伏越 (かわらぶき ふせこし)

 上流側:蓮田市蓮田(入口)、下流側:上尾市瓦葺(出口)

 この地点では、見沼代用水は綾瀬川と交差する。見沼代用水の開削当初(1728年)は、
 掛樋(かけとい:掛渡井、木製の樋による水路橋、長さ約50m、幅約7m、深さ1.8m)によって、
 綾瀬川の上に水路を渡した。元荒川の横断(上流部の柴山伏越)には伏越と掛樋を
 併用したが、綾瀬川は掛樋のみであった。この理由については以下が挙げられる。
 (1)路線の縦断形状から、この地点で伏越を採用すると、損失水頭が大きすぎて
   水が流れない恐れと、伏越自体が水の内圧で破壊される可能性があった。
 (2)付近は原市沼や瓦葺沼が広がる湿地帯であり、軟弱地盤なので伏越だと工事の難航が予想された
 (3)伏せ越しだと内部へ土砂が堆積する可能性があり、維持・管理・補修にも手間がかかる
 (4)見沼通船の邪魔になるので、可能ならば伏せ越しではなく掛樋としたかった 
 (5)元荒川に比べて綾瀬川は川幅が狭かったので、掛樋が可能であった

 地形について補足すれば、この付近は綾瀬川の右岸に大宮台地、左岸には蓮田台地が迫り、
 瓦葺伏越の上流付近は狭窄部のようになっている。現在はあまり感じられないが、瓦葺伏越の
 建設当時、周辺部は湿地帯(台地の侵食谷の上に腐植土や泥炭が堆積した谷地)だったそうだ。
 標高12m程度の低地なので見沼代用水開削ではなく盛土をして作られた。今もその面影は残っていて、
 見沼代用水の路線が周辺の土地に比べて、明らかに高いことが見てとれる。

 見沼通船堀と瓦葺掛樋:
 見沼通船とは見沼代用水路を利用した運河(内陸水路)のことで、江戸と見沼代用水沿線の
 地域を結ぶ[川の道]であった。見沼代用水路では開削時から舟運が計画されていて、
 代用水路の3年後に完成した見沼通船堀によって、本格的な水運が確立した。
 見沼通船の主な目的は、周辺地域からの年貢米を江戸へ輸送することだった。
 江戸からの帰りの舟には、生活物資や肥料などが積み込まれ、周辺地域へ運ばれた。
 綾瀬川の横断地点に、伏越ではなく掛樋が建設されたのは、見沼通船にとって好都合だった。
 瓦葺掛樋の下流には、瓦葺河岸と呼ばれる荷の積み降しのための船着場が設けられていた。
 綾瀬川は舟運が盛んだったので、瓦葺河岸では綾瀬川から上って来た舟との間で
 荷の交換や積み換えなどが行われたと思われる。
 瓦葺河岸は見沼通船堀が衰退する明治時代末期まで存在した。

 安全装置が設けられた瓦葺掛樋:
 見沼代用水の開削当初の木製の掛樋の様子は、明治時代の絵図(埼玉県立博物館蔵)に
 残っているが、それには掛樋の上流左岸に逃樋(にげひ)が描写されている。
 逃樋とは洪水などで見沼代用水が増水した時に、通水しきれない水を綾瀬川へ
 放流するための施設(余水吐、放流工)である。瓦葺掛樋の補修や修復工事のさいには、
 仮廻し水路として使われ、見沼代用水の水を綾瀬川へ放流していたと思われる。
 見沼代用水の上流部に設けられた十六間堰も、機能的には逃樋の一種であり、余水を星川へ放流する。
 江戸時代の土木技術は現代に比べると、はるかに未熟だったので、利水(農業用水の取水)は
 常に水害の危険性と隣り合わせであった。そのため、見沼代用水の取水施設には建設当初から、
 治水(水を制し水害を防ぐ)を考慮した安全装置が設けられていたのである。

 瓦葺掛樋の変遷:
 瓦葺掛樋は構造的には木の橋なので、洪水で綾瀬川が増水すると橋脚が破壊されたり、
 最悪の場合は押し流されてしまうことが多かった。通水時に掛樋に作用する水の重量は
 630tにもなるが、これを支えていたのは木製の橋脚なので、構造的にも脆弱だった。
 事実、瓦葺掛樋は竣工からわずか2年後の享保15年(1730)には、洪水によって崩壊している。
 この時の復旧工事で掛樋の水路幅は、それまでの8間から4間(約7.2m)に縮小された。
 また木製の樋や橋脚は通常、十数年で老朽化してしまうので、掛樋は建設後には頻繁に
 架け替えがおこなわれた。ただし施設の状態の把握は、伏せ越しが川底に埋め込まれているので、
 困難なのに比べると、掛樋は露出しているので、確認が容易なのが利点でもあった。
 この点では伏せ越しよりも掛樋の方が、施設の保守管理上は都合がよかったといえる。
 掛樋の補修・改築工事は幕府の普請役が監督し、建材(木材、石材、金物など)は江戸から
 見沼通船で現地へ運ばれた。工事のさいの人足には地元の農民が動員された。

 見沼通船の航路として、瓦葺掛樋は重要な施設だったので、江戸時代の間は、その形式が
 改められることはなかった。ただし、掛樋は洪水の度に頻繁に破壊されていたので、
 修復費用の負担が大きいことから、幕府は天保十年(1839)には遂に掛樋方式を止め、
 伏越へとする計画案を出している。だが、この案は周辺村々(主に瓦葺掛樋よりも上流側)の
 反対によって、取り消しとなっている(埼玉県史 資料編13、p.876)。
 村々の願書には反対理由として、綾瀬川の水害増加や悪水の流下が阻害されることを
 懸念する記述が多く見られる。伏越ならば橋脚がないので、綾瀬川の水流を妨げないにも
 かかわらず、村々は水害の増加を理由に反対しているので、伏越への改築と共に
 綾瀬川の川幅を縮小する計画だったようである。

 瓦葺掛樋は初めて架けられてから約180年間もの間、木造だったが、明治41年(1908)に、
 やっと近代的な建築材料(鉄製の樋とレンガ造りの橋脚・橋台)を使って改築された。
 このレンガ造りの掛樋の遺構は、瓦葺伏越の下流に部分的だが今も残っている。
 遺構の周辺は上尾市によって、掛樋史跡公園という名の小公園に整備されている。
 なお、瓦葺掛樋の付近は狭窄部であり、水が集まりやすい地形なので、綾瀬川が増水すると、
 瓦葺掛樋の橋脚には流木や大量のゴミが付着し、綾瀬川の流れをせき止めてしまうことも多く、
 上流側には湛水被害をもたらしていた。レンガ造りの掛樋も竣工から、わずか2年後の
 明治43年に洪水(明治時代最大規模の洪水だった)によって、橋台の一部が倒壊してしまった。
 掛樋に通水するのは危険なので、逃樋から綾瀬川へ洪水流を放流しようとしたが、
 掛樋を挟んで上流と下流の村々との間で、その操作を巡って紛争が生じた。
 掛樋の下流の村々は、見沼代用水の水が大量に綾瀬川へ流れ込んで来るのを恐れたのである。

 現在の施設は水資源開発公団による利根導水路計画の合口一期事業(昭和43年(1968)完了)と
 合口ニ期事業(1995年完了)によって建設・改築されたものである。
 掛樋だった送水形態は240年ぶりに変更され、樋管(コンクリート製のパイプ)で川の下を潜る方式
 (伏越、サイフォン)となり、名称も瓦葺伏越(蓮田市側には瓦葺伏越水門を併設)となった。
 瓦葺伏越の出口から約50m下流で、見沼代用水は西縁用水路、東縁用水路の2つの水路に分かれる。
 
これは見沼代用水の開削当初からの水路形態である。西縁と東縁に挟まれた区域がかつての
 見沼溜井であり、それを干拓して開いた見沼新田へ西縁と東縁が用水を送っている。

 瓦葺伏越
↑瓦葺伏越(下流から撮影)
 この付近の標高は約15m。
 写真の手前が綾瀬川(左から右へと
 流れている)。見沼代用水は矢印のように
 綾瀬川の下に潜って流れている。
 見沼代用水は、綾瀬川と比べると、
 かなり高い所を流れているのがわかる。

 綾瀬川の堤防間の内法幅は約37m(歩測)
 なので、伏越長は55m位だと思われる。
 この付近の綾瀬川は上流部なので
 川幅は狭く、形態は農業排水路である。
 水量は多くないが、かんがい期に
 なると、農業排水が流れ込んで水位が
 高くなるのだろう。異臭がするわけでは
 ないので、水質は酷評されているほど、
 ひどくはないようだ(今でも汚染度は
 日本一なのかな?)。
 なお、この地点から上流200mでは、
 綾瀬川の右岸に
原市沼川が合流している。
 原市沼川は原市沼の落しが起源である。
    瓦葺伏越の入口
   ↑瓦葺伏越の入口(下流から撮影)
    写真上部の施設は、瓦葺伏越水門(分水工兼調節堰である)。
    水門には除塵機が設置されている。見沼代用水は、綾瀬川を
    横断する前に、蓮田市側で既に西縁と東縁に分水されている。
    写真の左が西縁用水路、右が東縁用水路。
    東縁用水路の方が20cmだけ水路幅が大きい。
    江戸時代当初からの余水の放流工は、現施設にも
    踏襲されていて、東縁用水路の側に設けられている(蓮田逃樋)。
    なお、瓦葺伏越から300m東には延享四年(1747)建立の
    
石橋供養塔(兼.道しるべ)が残っている。
    これは見沼代用水に架けられていた石橋に関するものであろう。

    
瓦葺伏越の出口
   ↑瓦葺伏越の出口(下流から撮影)
    出口の側には、ゲートは設置されていない。

    中央の仕切を挟んで奥が西縁用水路、手前が東縁用水路。
    おじさんが仕切に座って、魚釣りをしている(@_@;)

補足:瓦葺伏越の周辺では、たたら製鉄が行われていた!
 時代的には、見沼代用水が開削される遙か以前の中世(あるいは古代)だが、
 瓦葺伏越の周辺では、金属の精錬(たたら製鉄)が広範囲で行われていたようである。
 例えば、瓦葺伏越から北北東(見沼代用水の左岸側)へ700mに金山、1kmには
 金塚という小字があるという。これらの地名は金属を精錬したさいの残りカスを
 捨てた場所を指し、実際に付近の田んぼからは鉄カスが掘り出されたそうである。
 また瓦葺伏越から北西へ2.4Km、原市沼川の左岸、県立がんセンターの付近からは、
 平安時代のものと思われる製鉄炉が発掘されたという。
 たたら製鉄に必要なのは原材料である鉄、燃料の供給地となる森林、鉄の冷却や
 洗浄に必要な大量の水、そして鍛冶職人の存在である。原材料を得るために綾瀬川や
 原市沼川から砂鉄を採取していたようである。
 以上の話については、スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語というブログの
 [地名 瓦葺 その2]に詳しい解説がある。http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/16521284.html


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