彦八郎用水と阿良川堤
彦八郎用水は見沼代用水の道地圦樋から取水して、加須市阿良川、平永地区の約400haの
水田へ用水を供給している。彦八郎用水の流路は会の川の旧派川に相当するが、この流域は
恒常的な水不足に悩まされてきた。昭和初期には、用水の不足分を星川(見沼代用水)へ
落としている排水路からの逆流(堰上げ)で補うという、不安定な取水形態も行なわれていた。
つまり、排水施設である関根門樋(関根落)や落合門樋(古川落)のゲートを閉じたままにして、
星川へ排水されるべき悪水を水路へ貯留し、用水として再利用していたのである。
本来、関根門樋や落合門樋は星川からの逆流防止水門であった。
この地域の治水を語る上では、阿良川堤の存在も見のがせない。
阿良川堤とは、行田市(忍領)と加須市(羽生領)・騎西町(騎西領)の間に築かれていた控堤。
元和年間(1620年頃)に、羽生領の代官 大河内金兵衛によって建設されたという。
会の川の右岸と星川の左岸を結ぶかのように南北に連なっていた。
会の川の派川が形成した自然堤防に盛土して築堤したもので、数百年間に渡り、
星川(見沼代用水)や会の川からの洪水流が羽生・騎西領へ流入するのを防いでいた。
昭和40年代まで存在していたが、現在は除去され跡地は水田へと変貌している。
新編武蔵風土記稿の埼玉郡之十五 阿良川村(10巻、p.297)に、阿良川堤の記述がある。
”堤:村の西南にあり、利根川本囲堤なり、高一丈、騎西・幸手二ケ領水溢の為に設く。
寛保二年洪水の時 押破られしを同時に京極佐渡守命を蒙りて修理せしと云。
此堤は串作・道地の二村に続けり”と記されている。堤防の高さは約3mもあったことがわかる。
利根川本囲堤の利根川とは旧利根川である会の川ではなく、現在の利根川を指していると思われる。
会の川は文禄3年(1594)には利根川からは切り離されているので、洪水の危険性は減少していただろう。
なお、寛保二年(1742)の洪水とは、江戸時代最大級の被害をもたらした利根川の大洪水のことであり、
幕府はその復旧工事(御手伝普請と称した無償奉仕)を萩藩に命じた。鷲宮町の鷲宮神社内には
萩藩が工事竣工を記念して奉納した寛保治水碑が残っている。
また、武蔵国郡村誌の阿良川村(12巻、p.324)に記された請堤とは阿良川堤のことであろう。
要約すると、”利根川荒川の両水氾濫を防ぐために設けたもので、村の西北串作村界から始まり
東は道地村界に至る。長さ13町30間(約1470m)、幅平均6間(約11m)、修繕費用は民に属す”である。
荒川の氾濫を防ぐためとは、下忍川(現.旧忍川)のことを指しているのだろうか。
下忍川は阿良川堤から西へ1Kmの付近で、星川の右岸へ合流している。
荒川や元荒川の洪水は、阿良川堤の上流に存在する石田堤(行田市〜吹上町)によって、
流れが妨げられ、星川や元荒川へと流下していた。なお、下忍川の上流部には
六堰用水の灌漑流末が落とされているので、間接的だが荒川の水が流下していた。
↑彦八郎用水記念碑と道地圦樋の記念碑(騎西町外田ケ谷) 行田市関根と加須市阿良川(あらかわ)の境界付近に 建てられている2つの記念碑。左の彦八郎用水記念碑は、 昭和48年 志多見土地改良区による建立。彦八郎用水の 元圦(用水の取水口)を会の川から見沼代用水に求める までの経緯が記されている。なお、彦八郎とは地域の 農業振興に貢献した松本彦八郎のこと。志多見小学校の 脇に顕彰碑(昭和49年)が建てられている。 |
↑道地圦樋 阿良川樋の記念碑 昭和36年5月 道地圦樋用水路土地改良区による建立。 見沼代用水からの取入水路の竣工を記念したもの。 それまで会の川からのかんがい流末や行田市方面からの 悪水に依存していた水利形態は一新された。 道地圦樋は騎西町道地と加須市平永地区、 阿良川樋は加須市阿良川地区をかんがいする。 道地圦樋と阿良川樋の水路は、古川落を改修したようである。 |
↑道地圦樋関連の碑 (加須市阿良川) 彦八郎用水の三国橋の袂に建てられている。 三国橋は行田市関根、騎西町外田ケ谷、 加須市阿良川(あらかわ)の境界付近にある。 手前が道地圦樋用水路普通水利組合創立記念碑、 (昭和27年11月)、奥が道地圦樋復旧紀念碑。 |
↑お定め杭(騎西町外田ケ谷) 高さ約60cm、幅28cm、奥行き14cm。 表に、定杭台石上場ヨリ貮尺高と記されている。 おそらく阿良川堤の高さを規定したものだろう。 加須市阿良川の天神社には明治43年の大洪水で 破堤した阿良川堤の復旧記念碑が残っている。 |