会の川の周辺

 利根川の幹線だった頃の形跡が、会の川の周辺には数多く見られる。

 会の川の自然堤防
↑会の川の自然堤防 (羽生市下岩瀬)
 稲荷神社から100m西、下岩瀬南バス停の付近。
 会の川の左岸から200m離れているが、高さ約2.5mの
 比較的大規模な自然堤防が形成されている。天端は
 市道であり、上岩瀬から下岩瀬にかけて約1Km続く。
 この地点は小山のような外観となっていて、山頂には
 小さな祠が建てられている。堆積しているのは砂よりも
 粒度が細かく、シルトに近い。
   島山寺の付近
  ↑島山寺の付近 (羽生市砂山)
   会の川の左岸(写真の上部)から300m東側、
   愛宕神社の脇に位置するのが島山寺。
   境内には砂山村出身の剣豪
 岡田十松が建てた墓碑、
   女人講中による三面六地蔵など珍しいものがある。
   かつては砂山地区にも大規模な自然堤防と河畔砂丘(砂山と
   いう名称はこれに由来するのだろう)があったのだが、
   自動車学校や福祉施設の建設によって、今は消滅している。 

 会の川の自然堤防
↑会の川の自然堤防 (加須市串作〜志多見:しだみ)
 写真左から右へ連なるのが、会の川の自然堤防の跡。
 現在は国道125号線である。
 会の川は国道の北側(写真左)を流れている。
 この付近は自然堤防の形跡が大規模に残っていて、
 比高(最大標高と最低標高の差)は5mにも及ぶ。
 また125号線に沿って、河畔砂丘も残存している。
 河畔砂丘上の植生は、志多見十文字(国道125号と
 122号の交差点)の西側が落葉樹林、東が松林である。
 写真の右、国道125号の南側に位置する阿良川や
 平永地区は、いわゆる会の川の後背湿地だが、
 土地改良事業の結果、広大な水田地帯に変貌している。
 会の川の自然堤防は、羽生市桑崎から上岩瀬に
 かけても顕著である

   河畔砂丘に分布するアカマツ林
  ↑河畔砂丘に分布するアカマツ林 (加須市志多見)
   会の川の流路に沿っては、自然堤防が発達しているが、
   その上には赤城おろし(冬の季節風)によって運ばれた砂が
   堆積し、砂丘を形成している。日本では珍しい内陸の河畔砂丘である。
   その中でも最も大きいのが、幅最大300m、延長3Kmの志多見砂丘。
   一部が埼玉県の自然環境保全地域に指定されている。
   砂丘に現在分布するアカマツは、江戸時代頃に防風林と
   薪炭林を兼ねて、植林されたものだという。かつては広範囲に
   存在した砂丘や松原は、今では消えかかっているが、
   不動岡誠和高校の付近(国道125号の南側)と加須西中学校の
   敷地内には、広大なアカマツ林が残る。[むさしの村]は
   砂丘の中にある遊園地だ。ちなみに、志多見砂丘
   (通称.志多見っ原)は、太平洋戦争後しばらく、
   戦車の保管所に使われ、異様な光景であったという。

 洪水記念碑
↑洪水記念碑 (加須市阿良川)
 行田市と騎西町に隣接した加須市阿良川(あらかわ)の
 天神社。その鳥居の脇には明治43年の大洪水の
 記念碑が建てられている。これは明治44年に阿良川
 組合によって建立されたもの。大洪水で破堤した
 
阿良川堤の復旧の顛末が記されている。
 阿良川堤とは、会の川や星川の洪水を防御するための
 控堤(村囲み堤)であり、会の川の派川が形成した
 自然堤防の上に盛土をして築かれた。
 現在は土地改良事業などにより、完全に消滅している。
 会の川は羽生市砂山で3派に分流していたが、
 そのうちの1つは行田市真名板と加須市阿良川の
 境を流れ、白岡町付近まで達していた。
 この旧流路は
古川落として現在も残り、
 騎西町外田ケ谷で
星川(見沼代用水)に合流している。
 なお、天神社には
2基の道祖神、庚申塔(道標)、弁財天
 など多彩な石仏が祀られている。阿良川から志多見に
 かけての会の川周辺には
道標を兼ねた石仏が多く分布

   利根川旧堰堤跡
  ↑利根川旧堰堤跡 (きゅうえんてい:加須市外野)
   埼玉県指定史跡。加須未来館(利根川右岸のスーパー堤防上)の
   東端に石碑があるが、堰堤(堤防)の跡はスーパー堤防に
   建造によって、ほぼ消失している。かつて、この付近は
   浅間川(東利根)の流頭部であり、浅間川は利根川から
   分岐して南へ向かって流れていた。
   元和7年(1621)、関東郡代伊奈忠治は浅間川の流頭部分を
   締切って廃川とした。写真の奥(利根川の右岸堤防、
   浅間川の締切堤防)へ向かって、現在も
浅間川の旧堤防
   残っている。写真中央の石碑は大越村(現.加須市)の有志に
   よって、昭和3年に建立されたもの。利根川東遷の沿革史が
   わりと正確に記されている。なお、利根川の旧堤防の跡は
   大利根町の
稲荷木排水路の周辺にも残っている。
   浅間川の締切りは、会の川(南利根)の締切りから、27年後に
   行なわれた。この付近から下流の現在の利根川は、元和7年以降に
   開削されたもので、かつては新川と呼ばれた。新川の出現によって
   利根川の流れは、旧浅間川から渡良瀬川に向かって流れるように
   なった。隣接する大利根町には
新川通という地区がある。

参考文献:大熊孝「近世初頭の河川改修と浅間山噴火の影響」、アーバンクボタ19(特集利根川)、久保田鉄工株式会社、1981
      中川水系 人文 総合調査報告書2、埼玉県、1993
      砂山・その周辺覚え書、関口啓助、1996
      利根川の歴史、金井忠夫、日本図書刊行会、1997


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