中川 - 幸手放水路、宇和田公園の付近 [中川のページ一覧]
撮影地:埼玉県幸手市(さって)上宇和田
権現堂川の旧堤防(注1)は、みゆき水門(幸手市権現堂)から4Km下流の宇和田公園付近にも
約600mが残っている。宇和田公園は権現堂川の旧堤防を改修して公園として整備したもので、
設計者は埼玉県菖蒲町出身の本多静六(1866-1952年)。同氏は日本の公園設計の父とも呼ばれ、
日比谷公園(東京都)、偕楽園(茨城県水戸市)、大濠公園(福岡県福岡市)等、数多くの
近代公園を設計している。なお、地元・埼玉では大宮公園の設計を手がけている。
また、埼玉県比企郡嵐山町の名前の由来となった嵐山渓谷(槻川)を命名したのも、本多静六である。
宇和田公園内には、河川の改修や水害に関する数多くの古い石碑が移築されている。
例えば、江戸川新堤碑(明治27年建立、題字は埼玉県知事 千家尊福)、
重修権現堂大堤碑(明治27年建立、題字は板垣退助)、庄内古川改修記念碑(昭和3年建立)など。
江戸川新堤碑には、現在の吉川市付近にあった古川(庄内古川だと思われる)へ江戸川から
洪水が逆流するのを防ぐために、江戸川の西側に930間(約1670m)の堤防を築き、610間(約1110m)の
新川を開削したことが記されている。県税7220円、醵金2600円を費やし、工事は埼玉県が実施し、
明治25年11月に起工し、明治26年8月に竣工している。
重修権現堂大堤碑には、権現堂堤が二度の決壊にみまわれ、それを修復したことが記されている。
天明六年(1786)には木立地区の堤防が決壊し、72名の命が奪われている。天明三年に
起こった浅間山の噴火の影響で、権現堂川に溶岩流や土砂が大量に流れ込み、河床が高くなって
しまったことが大洪水を引き起こした原因であろう。この年には権現堂堤は松石、内国府間など
計6箇所で決壊している。木立の堤防は安政二年(1855)の大地震でも崩れている。
庄内古川改修記念碑は巨大な碑であり、その造形も含め、塔と言っても過言ではない。
庄内古川の改修は、内務省の中川改修工事の付帯工事として国営で実施された。
事業名は庄内古川外三悪水路改修事業であった。三悪水路とは島川、権現堂川、五霞落である。
西から東へと流れてきた中川は、宇和田公園の付近から流路を大きく南へと変える。
この流路は人工的なもので、流路を変える地点では権現堂川の旧右岸堤防を貫いて流れる。
宇和田公園から杉戸町椿までの現在の中川の流路は、かつては吉田村新水路と呼ばれ、
昭和初期の中川改修事業(内務省直轄)で新規に開削されたものである。
吉田村とは北葛飾郡吉田村のことで、現在の幸手市吉羽、宇和田、惣新田地区に相当する。
吉田村新水路の流路は、かつて一度も水が流れたことがない地域というわけではなく、
中世以前のある時期には利根川や渡良瀬川の派川が流れていたのである(注2)。
両岸には自然堤防的な微高地が広範囲に分布する。
一方、杉戸町椿から下流の中川はかつては庄内古川だったが、中川改修事業によって
吉田村新水路が掘られ、上流の島川や権現堂川と結ばれた。
権現堂川は内務省による利根川改修事業によって、大正15年(1926)に流頭が利根川から
締め切られ、昭和3年(1928)には江戸川への合流口(幸手市西関宿)も閉じられて
完全に廃川となった。これに伴い、江戸川への洪水の流入を阻止する目的で設置されていた、
棒出しは撤去され、江戸川の狭窄部も改められた。
↑幸手放水路の起点(幸手市上宇和田、中川右岸から) 五霞落川の合流から100m下流。上流右岸には工業団地と 幸手総合公園が位置する。写真の手前が中川、奥が 幸手放水路(古浅間橋)。中川の洪水を中川(埼玉県 幸手市)から江戸川(千葉県関宿町)へと放水する延長 約1Kmの水路(県管理)。洪水流を分流することによって、 中川のピーク洪水量を減少させている。なお幸手放水路の 路線は権現堂川のかつての流路とほぼ同じである。 |
↑幸手放水路の終点(幸手市西関宿、江戸川右岸から) 江戸川の起点から3Km下流、関宿橋の上流右岸へ 幸手放水路は合流する。左岸は千葉県東葛飾郡関宿町。 合流地点に設けられているのは幸手樋管。 中川の流域は低地でしかも盆状の地形なので、洪水の流出時間は 早く、雨水の滞水時間も長い。このため中流部には洪水を安全に 流下させるために、権現堂調節池や幸手放水路が整備されて いるのである。共に旧権現堂川の流路を改修したものだ。 |
↑権現堂堰(宇和田堰、上流右岸から) 写真左上に見えるのが宇和田公園(権現堂川の旧堤防) この堰(閘門)は昭和初期の中川改修事業のさいに 建設された。権現堂川の旧右岸堤防を分断した地点に 設けられている。旧権現堂川から旧庄内古川へ 流れ込む流量を調節する目的で設けられたと思われる。 庄内領や松伏領の村々にすれば、ここは旧島川を 経由して、新たに羽生領などの悪水が導水される、 水防重要地点だった。権現堂堰のゲートは鋼製の 巻き上げ式だが、腐食していて今はもう使われていない。 その後、権現堂堰の上下流の中川の河道が 拡幅されたので、この地点の形態は狭窄部となっている。 |
↑権現堂橋と宇和田公園(下流右岸から) 権現堂堰のすぐ下流に架けられているのが、権現堂橋。 親柱には昭和3年(1928)建設の銘板が残されている。 権現堂川が完全に締め切られた年の竣工である。 権現堂堰には下流側に、管理橋(歩行者専用)が併設されて いるのだが、あえて道路橋である権現堂橋が建設された点は 注目に値する。権現堂橋から下流には、中川改修事業で 建設されたと思われる古い橋梁が、群として残っている。 それらの形式は単純支承の桁橋(竣工当時の形式は 橋台・橋脚のみコンクリートで、桁は木製のものが多かった)だが、 権現堂橋だけは、全てがコンクリート製のラーメン橋である。 |
↑庄内古川改修記念碑 宇和田公園内(昭和3年建立) 題字は内閣総理大臣 田中義一、 撰文は内務省東京土木出張所長 中川吉造。碑文には大正6年、 中川改修工事着工とある。 改修延長34,300m、使役人員85万人 この改修によって庄内古川は 中川へ注がれるようになった。 背面に記された工事有功主要者は 沖野忠雄、中原貞三郎、大岡大三、 中川吉造、筧武治 |
↑庄内古川門樋碑 明治29年(1896)建立の碑を再建。 題字は侍従長兼内大臣 徳大寺実則 庄内古川門樋とは庄内古川の 江戸川への合流地点(吉川市)に 明治24年(1891)に建設された、 煉瓦造りの水門。江戸川から 庄内古川へ洪水流が逆流するのを 防ぐために設けられた。 使用煉瓦数40万個は当時としては 破格の巨大な構造物であった。 →埼玉県の煉瓦水門 |
↑災害復旧記念碑 昭和24年(1949)建立 葛飾郡吉田村。カスリーン台風(1947年)による 洪水で、新川地先(現在の大利根町)の利根川の 右岸堤防が400mに渡って決壊し、中川の堤防も 上宇和田で両岸が270m決壊したと記されている。 中川からの洪水流は古利根川(葛西用水)沿いの 旧堤防をも決壊させた。2基の復旧記念碑が 加須市に残っている。なお、カスリーン台風では 荒川の堤防も左岸側の熊谷市久下と鴻巣市 大間付近で決壊している。 利根川の決壊地跡はカスリーン公園として整備され、 荒川の決壊地には記念碑(久下と大間)が建っている。 |
(注1)明治9年(1876)の調査を基に編纂された、武蔵国郡村誌の
葛飾郡上宇和田村(14巻、p.364)には、”権現堂川堤:権現堂川に沿ひ
村の西方 木立村界より東方 惣新田村界に至る 長二百三十五間
馬踏五間堤敷二十間乃至二十五間 修繕費用は官に属す”とある。
馬踏(堤防天端幅)が9.0m、堤敷(堤防下端の敷幅)が36m〜45mなので、
非常に大きな堤防だ。現在の宇和田公園は当時の規模がそのまま残っているようだ。
権現堂川の右岸堤防はかつては御府内御囲堤とも称され、中条堤(妻沼町〜行田市)と
共に江戸を利根川の水害から守る重要な堤防であった。明治時代には堤防の
修繕費の負担は民間だった例が多いが、権現堂堤は官負担である。
このことも権現堂堤の重要性を示している。
(注2)例えば前掲書の葛飾郡上宇和田村には、古川が記されている。
”古川:利根川の古跡なりと云 深さ五寸巾三尺 村の東方 惣新田村より来り
南端 下吉羽村に入る 長七町三十四間”
川幅が1mにも満たない細流だが、流路はほぼ現在の中川に一致する。
中川改修事業では新流路の路線決定および開削のさいに、
このような故道(廃川跡)を積極的に利用したと思われる。
吉田村新水路の下流部の路線は、かつての惣新田落に相当する。
また、下宇和田から惣新田にかけての中川の両岸には自然堤防が発達している。