荒川 - 白鳥橋から玉淀ダム [荒川のページ一覧]
撮影地:
埼玉県秩父郡長瀞町、大里郡寄居町
(1)白鳥橋の付近(下流から) 右岸:長瀞町岩田、左岸:長瀞町野上下郷 この付近では荒川の左岸には国道140号線、右岸には 県道82号線がそれぞれ並行している。白鳥橋は 秩父鉄道の樋口駅から東へ300mに位置し、国道140号線と 県道82号線を結んでいる。長さは約100m。 この付近の荒川は見ての通り、両岸に断崖が迫り、 河床には巨大な岩が露出している。長瀞渓谷の 最下流部である。長瀞町の町名は長瀞渓谷に由来する。 現在の白鳥橋は昭和33年(1958)の竣工だが、その前は 丸太橋、さらに前は木造の吊り橋だったという。吊り橋は 大正初期に架けられたようで、当時の村名を冠した初代の 白鳥橋である。それ以前は橋はなく、渡しだった。 なお、白鳥橋の左岸、長瀞第二小学校の裏には 寛保洪水位磨崖標(県指定文化財)がある。これは 寛保二年(1742)八月の洪水(注1)での荒川の水位を 崖!に[水]と刻んだもので、その時の水深は20m近い。 |
(2)葉暮橋(はぐれ)の付近(上流から) 左岸:長瀞町矢那瀬(やなせ)、右岸:寄居町金尾 (1)から3.4Km下流。東へ向かって流れて来た荒川が急激に 南へと流路を変える地点であり、断崖絶壁が荒川に迫っている。 破崩(はぐれ)と呼ばれるとおり、ここは崖崩れが多発し、交通の 難所でもあった(注2)。葉暮橋は国道140号線(秩父往還)の橋で、 荒川右岸の崖上に架けられている。併設された歩道は荒川に 向かってテラス状に張り出している。国道のすぐ脇には 秩父鉄道が並行しているが、その線路を支えるために 高さが30mにも及ぶ赤煉瓦造りの護岸壁が設けられている。 秩父鉄道の波久礼-金崎間が開通したのは、明治44年(1911) なので、この護岸壁はその時に建設されたものだろう。 秩父鉄道の波久礼駅(はぐれ)は、ここから600m南である。 なお、矢那瀬の観音堂には芭蕉の句碑と室町時代の石幢がある。 この付近は秩父郡、大里郡、児玉郡の境界地であり、 写真の左方向が児玉郡。美里町円良田地区は荒川水系と 利根川水系の境界となっている。天神川や志戸川の水源地である。 |
(3)寄居橋(右岸から) 右岸:寄居町金尾、左岸:末野 (2)から700m下流。寄居橋は昭和61年(1986)竣工。 県道82号長瀞玉淀自然公園線に架かる。 形式は下路の鋼アーチ橋(ニールセン)で長さは126m。 旧橋は吊り橋で昭和22年に架けられた。それ以前は 橋はなく、殿倉の渡しと呼ばれる渡船だった(注3)。 寄居橋の右岸上流の白髪神社(村社)には、 殿倉の渡しの由来記と渡し場跡への入口がある。 入口から渡し場までは、信じられないほどの急な崖を 下って行く。ただし、渡し場自体は今は玉淀湖の底に 沈んでいる。なお、白髪神社には白鳥尋常高等小学校 金尾分教場跡の石碑もある。金尾地区は昭和18年まで 秩父郡白鳥村に属していた。寄居橋から北西へ600mの 金尾山には鉢形城の西の支城だった金尾城跡がある。 |
(4)寄居橋から眺めた玉淀湖(上流から) 右岸:寄居町金尾、左岸:寄居町末野 玉淀湖といっても荒川のこと。ここから2Km下流にある玉淀ダムで 堰き止められたダム湖をこう呼ぶ。水の流れはなく淀んでいる。 水深は15〜20mあるそうだ。荒川の両岸には鬱蒼とした雑木林が 形成されていて、とても岸辺には近づけない。しかし、ダム湖には 所々にボートが浮かび、岸辺には釣人の姿も見えるので、 きっと地元の人だけが知っている脇道があるのだろう。 寄居橋から下流へ400mの右岸へは釜伏川(通称.風布川)が 合流している。風布(ふうっぷ)地区の釜伏山(標高582m、 寄居町の最高地点)を水源とする沢である。 風布は温州みかん栽培の日本北限の地として有名である。 寒冷地だが、冬の季節風の影響が少ない、山の中腹の斜面 (霜がめったに降りない)で栽培されている。 |
(5)逆川(下流から) 寄居町末野 (4)から600m下流。逆川はここから100m下流で荒川の 左岸へ合流している。が、合流地点は深い藪となっていて 近づけない。逆川は円良田湖(つぶらた:児玉郡と 大里郡の境界に位置する、かんがい用の溜池)から 流れて来る延長1.2Kmの小河川。ちなみに、円良田湖の 周辺は大昔は窯業地帯であり、末野古代窯跡が 数多く分布するそうだ(注4)。写真上部に見える道路は、 国道140号線で、すぐ東側には秩父鉄道が並行している。 秩父鉄道の逆川橋梁は、明治44年(1911)竣工の小さな プレートガーダー橋だが、桁の形式はポーナル型であり、 しかもドイツ製と記された銘板が付けられている。 ポーナル型は明治20年代に流行した形式であり、 時代的に齟齬があるので、他線からの転用桁だろう。 |
(6)末野大橋と玉淀ダム(下流から) 右岸:寄居町折原、左岸:寄居町末野 (5)から1.5Km下流。写真は折原橋から撮影。 赤い上路アーチ橋(鋼製)が末野大橋(寄居皆野有料道路)。 末野大橋の上流に位置するのが、玉淀ダムと玉淀発電所。 玉淀ダムは一見すると堰だが、堤高が15mを越えているので 立派なダムである。昭和39年(1964)に竣工した多目的ダムで、 発電、農業用水の確保(左岸の櫛引台地へ導水)、洪水調節を 担っている。併設された玉淀発電所は、荒川で最も下流に 位置する発電所だ。有効落差が約15mと比較的小さいので、 発電にはカプラン水車を使っている。なお、玉淀ダムの 左岸下流にはスポット公園があり、その脇の慰霊碑には 埼玉県営発電所の建設事業のさいに殉職した11名の方々の名前が 記されている(大洞第一発電所が最も多く6名、玉淀ダムは2名)。 |
(注1)寛保の洪水は江戸時代最大級の大洪水であり、荒川流域だけでなく、
利根川流域にも大きな被害を及ぼした。利根川や荒川の堤防が各地で決壊し、
洪水流は江戸にまで押し寄せたという。利根川の治水の要だった中条堤も
決壊している。寛保の大洪水の痕跡は、今も埼玉県内に数多く残っている。
例えば、北葛飾郡栗橋町にある宝治戸池は、利根川の堤防が
決壊したさいに形成された落ち堀(押堀、切れ所沼)である。
利根川から取水していた備前渠用水の元圦(取水口)は土砂で埋まってしまい、
それが原因となって後に用水路は閉鎖されてしまった(備前渠再興記)。
北埼玉郡騎西町の見沼代用水脇にある施餓鬼供養塔は、洪水による水死者を
供養したものだ。また、北葛飾郡鷲宮町の鷲宮神社には寛保治水碑という名の
石灯籠がある。これは幕府に利根川の復旧工事を命じられた萩藩(現在の山口県)が
工事の竣功を記念して、鷲宮神社に寄進したもの。
なお、寛保洪水位磨崖標のように、洪水時の最高水位を後の世に
伝えようという精神は今も受け継がれていて、利根川の流域では
カスリーン台風時(1947年)の浸水位が街中の電柱に赤くペイントされている。
(注2)中山道を経由して東側から秩父へ入るには、
(1)熊谷宿から小川町、東秩父村を経由して定峰峠を越える(現在の県道11号線に相当)、
(2)熊谷宿から寄居を経て、殿倉の渡し(寄居橋の付近)で荒川を渡り、釜伏峠(かまぶせ)を
越える(現在工事中の寄居皆野有料道路に相当、ただし有料道路は釜伏峠をトンネルで抜ける)
(3)本庄宿から小山川に沿って進み、児玉町を経由し、出牛峠(じゅうし)を
越える(現在の県道44号線に相当)
などがあったが、いずれも峠越えである。国道140号線の路線は荒川の谷に沿ったもので、
峠越えがなく、秩父までの距離も短かったが、荒川の断崖絶壁を通るので、破崩などの
難所が頻繁にあり、命がけの覚悟が必要だったようだ。熊谷市石原の旧中山道に残る安政五年(1858)の
観音巡礼の道標(道しるべ)には”一番四万部寺へ たいらミち十一里”と記されている。
この「たいらミち」とは、秩父へ入る峠越えのない道を案内したものだろう。
ともあれ秩父往還(国道140号線の前身)はおそらく、峠越えではない初めての秩父への道である。
(注3)殿倉の渡しは、武蔵国郡村誌の秩父郡金尾村(7巻、p.67)に以下のように記されている。
”渡:末野村への通路に属す 村の中央 荒川の中程にあり 十二月より三月迄仮に土橋をかく”
小規模な渡しであり、渡し船は一艘だった。冬期に土橋(木製の橋で通路は
土を盛って舗装)が架けられたのは、荒川の水位が低下し船の運航が
困難となること、急な増水で橋が流される心配が少ないこと、などが考えられる。
なお、武蔵国郡村誌は明治9年の調査を基に編纂されたもので、当時、
金尾村は秩父郡に属していた。明治22年には風布村や岩田村などと合併して
秩父郡白鳥村となった。村名は中世の白鳥荘に由来する(大正時代に設置された、
白鳥村の道路元標が今も現存する)。しかし、昭和18年には
風布村の一部と金尾村は、白鳥村から分村して寄居町と合併している。
現在、風布という地区が長瀞町と寄居町にあるのは、元来一つの村だったからである。
(注4)よみがえる古代の末野コンビナート、埼玉県立埋蔵文化財センター、2000によれば、
箱石遺跡では埼玉県最古級の製鉄炉が見つかったそうである。
注目すべきは、その形式が一般的な堅型炉ではないことだ。
8世紀初頭の箱型炉であり、出雲系のものと同種だという。