滑川 (その1) (その2

 撮影地:埼玉県比企郡嵐山町(らんざん)、滑川町

 滑川は延長13.5Km、流域面積40Km2の荒川水系の一級河川。
 源流(最上流)は比企郡嵐山町と小川町のため池であり、農業排水を集めながら
 南東へと流れ、大里郡江南町、嵐山町、滑川町、東松山市を経て、吉見町北吉見と
 東松山市松山の境界で市野川に合流する。
 滑川の主な支川には中堀川(準用河川)、角川(一級河川)、月中川(準用河川)などがある。

 滑川の流域には、丘陵の谷地をせき止めて造成した数百ものかんがい用ため池が存在する。
 とりわけ滑川町には約200ものため池があり、この数は埼玉県全体の1/4に相当するという。
 おそらく、関東地方の市町村で、ため池の数が最も多いのは滑川町であろう。
 これらのため池の水は田んぼを潤した後に、最終的には滑川に排水され、滑川の貴重な
 水源となっている。滑川には農業用水の取水堰が設けられ、その水を再び再利用している。
 いくつかのため池では、国の天然記念物に指定されているミヤコタナゴの生息が確認されている。

 ため池がいつ頃から存在するのかは、歴史的資料が現存しないので不明だが、
 付近に存在する古墳群との関係から、古いものは古墳時代に築かれたと思われる。
 古墳の存在は人々がその周辺に居住していたことを示し、そのためには何らかの生産活動が
 必要であり、そこで、ため池を造成して、その水を利用して稲作が展開されていたと考えるのが
 妥当であろう。土木技術的には古墳の築造とため池の造成は、難易度に大差はない。

 滑川の源流の一つ
(1)滑川の源流の一つ(三反田沼) 嵐山町吉田
 県道11号熊谷小川秩父線の古里交差点付近は、
 比企丘陵の鞍部となっている。この地点で、西側、
 北側、南側から流れてくる3つの水路が合流して、
 滑川の主流となっている。各水路の源流はいずれも
 農業用の溜め池であり、西側は小川町西古里のため池、
 北側は嵐山町古里の
柏木沼?、南側は写真の
 嵐山町吉田の三反田沼である。
   滑川
  (2)滑川(上流から) 左岸:嵐山町古里、右岸:嵐山町吉田
   県道11号線の古里交差点の東側400m付近。
   滑川の上流部は自然河川ではなく、農業用水路である。
   コンクリートの水路で幅は約1.5m、随所に取水堰が
   設けられている。滑川の上流部は、昭和40年頃に改修
   (土地改良事業?)されているようで、水路に架けられた橋の
   親柱には滑川ではなく、新川と記されている(注1)
   土地改良に伴い、流路が上流へと伸延されたのだろう。

 明賀橋の付近
(3)明賀橋の付近(下流から)
 右岸:嵐山町吉田、左岸:江南町塩
 (2)から1Km下流。東へと流れていた滑川は江南町との
 境界付近で流れを南東へと変える。左岸側には丘陵が
 迫り里山の景観を醸し出す。江南台地にある塩古墳群は
 埼玉県最古級の4世紀後半の築造だ。方墳26基などの
 36基が現存する。この付近から新川の水路幅は
 広くなり、排水路のような外観となる。
 ここから500m下流の竹ノ花橋の右岸橋詰には、
 馬頭観音4基と二十二夜塔が祀られている。
 滑川町の路傍には馬頭観音が非常に多い。

   
滑川の管理起点
  (4)滑川の管理起点(上流から)
   左岸:滑川町和泉、右岸:嵐山町勝田
   (3)から1.3Km下流。和泉大橋の袂には[一級河川
 滑川]の
   管理起点が何故か2つ設けられている。この付近から
   コンクリート護岸はなくなり、両岸には築堤が施されている。
   堤防の天端は農道として利用されているようだ。
   それにしても、滑川の河床にレキが多いのは意外である。
   滑川は緩やかに蛇行しながら、丘陵の谷間の広大な
   水田地帯をゆったりと流れる。写真右上に見えるのは、
   二ノ宮山(標高132m)。山頂には展望台がある。
   山がなければ、
中川低地の落(農業排水路)と見まごう景観だ。

 石仏群
(5)石仏群(田尻橋の右岸橋詰)
 左岸:滑川町福田、右岸:滑川町伊古
 管理起点から400m下流の付近。土地改良記念碑の
 脇には馬頭観音、観音像、石橋供養塔などが
 祀られている。田尻橋はかつては石橋だったので、
 この
石橋供養塔(文化七年:1810年建立)は田尻橋の
 竣工を記念して建てられたものだろう。
 なお、ここから400m南の丘陵部には延喜式内社の
 伊古神社(比売神社)(注2)が鎮座する。田尻橋の
 上流左岸へは、江南町のため池を水源とする用水路の
 流末が排水されている。滑川の流域には大小の溜め池が
 数多く分布していて、比企丘陵の谷津(谷地田)を
 かんがいしている。湖畔に
水神である弁才天
 祀られている、ため池も多い。田尻橋から1Km下流の
 森林霊園の付近には凝灰岩の採掘場の跡が残っている。

   
滑川町役場の付近
  (6)滑川町役場の付近(上流から)
   左岸:滑川町福田、右岸:滑川町羽尾
   (5)から2Km下流。この付近の川幅は約15m。左岸側には
   国営武蔵丘陵森林公園(面積は約304ha)が広がっている。
   滑川は滑川町の中央部を流れる。滑川町の名前は、
   この滑川に由来するそうである。なお、昭和29年に滑川村が
   誕生するまで、滑川の左岸側は比企郡福田村、右岸側は
   宮前村だった。福田小学校の脇には大正時代に設置された、
   
福田村の道路元標が今なお残っている。
   滑川町役場の付近には伊古堰(ラバーダム型の取水堰)や
   滑川西部土地改良区の揚水機場が見られる。
   歴史的には滑川は溜め池の落しとして開発されてきたようだが、
   現在では滑川は農業用水路としての役割が大きいようだ。
   なお、滑川町の路傍には手作りの案内標識や道標が多く見られるが、
   これらは町内の中学生が作成したものだ(作者名付き)。

(注1)江戸時代末期に編纂された新編武蔵風土記稿の比企郡吉田村(10巻、p.20)に
 当時は滑川の起点が吉田村(現在の嵐山町吉田)の湧水だったことが記されている。
 ”滑川:当村の田間所々より涌出水、村内にて落合ひ、
 一條の流れとなり、始てこの名を負へり、是滑川の水源なり”

(注2)伊古神社の正式名は、伊古乃速御玉比売神社(いこの はやみたま ひめ)であり、
 延喜式内社(927年編纂の延喜式神明帳に記載された古社)である。
 長い名前なので、地元では伊古神社あるいは比売神社と呼ばれている。
 比売神社は比企郡(現在の比企郡よりも当時は郡域は狭い)で唯一の
 延喜式内社であり、比企郡の総社ともされているようだ。
 蘇我氏の末裔が、この地を開いたさいに創建したとの言い伝えがあり、
 古くは二ノ宮山の山頂付近に鎮座し、山自体が信仰の対象だったというから、
 山岳信仰の一種ともいえる。滑川を挟んで対岸の福田地区には熊野神社があり、
 その北にある福田鉱泉は、修験道が発見したとの伝承がある。
 なお、比売神社には天保十一年(1840)建立の
芭蕉の句碑もある。

 新編武蔵風土記稿などによれば、比売神社は江戸時代は淡洲明神とも称されていた。
 比売神社の周辺には淡洲神社が濃密に分布していて、その特徴は南北方向には
 広範囲だが、東西方向は狭いことだ。淡洲神社は滑川町土塩、福田、山田に、
 大雷淡洲神社が滑川町山田に、阿和須神社が滑川町水房にある。
 祭神は速御玉比売命ではなく、息長足姫命(おきながならし)が多く、御神体は鏡だ。
 土塩の淡洲神社は祭神が速御玉比売命である。
 合祀の関係で、誉田和気命、素盛鳴命などが祀られている淡洲神社もある。
 これらと嵐山町勝田、太郎丸の淡洲神社との関係も興味深いところだ。

 比売神社から3Km南東に位置する羽尾神社(滑川町羽尾)も古社であり、
 創建は天長年間(824-834)だといわれている。
 羽尾神社の祭神は倭健命(ヤマトタケル)と藤原恒儀であり、
 古くは恒儀社と称していたというから、一種の御霊社である。
 藤原恒儀は大麦の穂で目を突いて、片目になってしまったことから、
 羽尾地区では大麦は禁忌作物であり、また恒儀にまつわる片目の
 伝承があるという(滑川村誌 民俗編、p.319)。
 東松山市
正代の御霊神社、熊谷市上奈良の豊布都神社(旧称は御霊社)に
 祀られた鎌倉権五郎景政も、戦さで片目になったとの伝承がある。
 新編武蔵風土記稿(8巻、p.117)によれば、大里郡高本村(現在の大里町高本)に
 存在した村社 御霊明神社(現在は高城神社に合祀か?)も鎌倉権五郎を祀っていた。
 なお、武蔵国郡村誌の比企郡羽尾村(6巻、p.274)によれば、羽尾村の
 琴平社(現在は羽尾神社に合祀か?)の祭神は金山彦命だった。
 金山彦命は金属精錬との関わりが深い神なので、羽尾地区の
 片目伝承との関連性が興味深い。
 ちなみに写真(2)の付近、嵐山町吉田には手白神社が鎮座するが、
 そこにも金山彦命が合祀されているという。

 なお、比売神社から1.5Km南東に位置する羽尾の雷電神社も
 ちょっと変わっている。雷電神社は農作物のための雨乞いに御利益が
 あるとされ、埼玉県で雷電神社といえば、板倉町(群馬県邑楽郡)から
 勧請された例が多いのだが、羽尾の雷電神社は山城国の加茂大神を
 祀っている。応承九年(1402)の創建だという。祭神は分雷命。


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