元荒川 〜 渋井橋から東部都市下水路まで [元荒川のページ一覧]
撮影地:埼玉県鴻巣市(こうのす)
元荒川は埼玉県熊谷市(くまがや)佐谷田(さやだ)を起点とし、越谷市中島で中川に合流する。
延長61Km、流域面積216Km2の中川水系の一級河川で、名前のとおり荒川の旧流路である。
利根川の支川だった荒川は、寛永6年(1629)に伊奈忠治によって、熊谷市の久下付近(元荒川の起点と
ほぼ同じ付近)で締め切られ、西側を流れる和田吉野川や入間川の流路へと付け替えられた。
元荒川は埼玉平野のかんがい水源として、古くから開発されていたようで、多くの溜井(河道を
部分的に拡幅し、ため池として利用)と取水堰(溜井の最下流に設置)が設けられてきた。
元荒川から取水された農業用水は、かんがいに使われた後に再び元荒川へ排水される。
下流側ではその排水を溜井に集めて、再び農業用水として取水するわけである。
水源の乏しい(正確にはない)元荒川では、用水は高度に反復利用されていて、
水の還元率が高いのが特徴である。
元荒川に流れる水は自流域の還元水の他は、支川からの落ち水であるが、各支川の水源は
二次水源(大河川から取水した農業用水の還元水)である。
例として元荒川の主な支川の一次水源を挙げると、前谷落しが荒川(六堰頭首工から取水した水)、
忍川が荒川(成田堰用水)と福川(酒巻導水路を経由)、野通川が元荒川と利根川(見沼代用水の反復水)、
星川が荒川(大麻生堰用水と成田堰用水)、利根川、福川である。
これらは近世初頭に形成された古くからの水循環システムだが、福川〜酒巻導水路〜忍川による
水源補給は、昭和初期に実施された元荒川の改修事業で導入された、比較的新しいものである。
このように、元荒川の水量は農業用水への依存度が高いので、かんがい期(夏季)と
非かんがい期(冬季)では流況が大きく変動する。取水堰として現在最も下流に位置するのは
末田須賀堰(岩槻市)であり、元荒川はそこまでは用排水兼用だが、末田須賀堰の下流からは
完全な排水河川となる(補足)。また、用水の反復利用が行われなくなるのも、末田須賀堰の
下流からである。例えば末田須賀堰から取水した水は右岸側は綾瀬川、左岸側は新方川を
経由して、それぞれ中川へ排水されている。
なお、元荒川に設けられた取水堰(及び関連施設)は、明治から大正期にかけて、
それまでの木造から煉瓦造りへと改良されている。6基の取水堰は全てが煉瓦造となった。
現在でも元荒川には、以下の煉瓦水門(一部残存を含む)が残っている。
[榎戸堰][榎戸樋管][三ッ木堰][宮地堰][笠原堰][笠原樋][小竹堰][圦之上堰][皿田樋管][末田用水圦樋]
(補足)昭和41年(1966)頃まで元荒川は、最下流の越谷市まで用排水兼用だった。
越谷市の瓦曽根溜井は、元荒川の河道全体が溜井となっていた。そこへ逆川を経由して
葛西用水が導水され、瓦曽根溜井の末端には瓦曽根堰枠(赤水門)が設けられていて、
農業用水を取水するために水をせき止めていた。
↑渋井橋の付近(下流から) 右岸:鴻巣市寺谷、左岸:川里町屈巣(くす) この付近は行田市、川里町、鴻巣市の境である。 渋井橋は鴻巣市寺谷と川里町屈巣(注1)を結んでいる。 昭和初期の元荒川支派川改修事業のさいに建造された 鋼製のアーチ橋。橋桁は鉄道の古レールが再利用されて いるが、現在は大幅な改修を受けている。 渋井橋の下流では千間堀悪水路(玉野用水の流末)が 元荒川の左岸へ合流している。福川、酒巻導水路を 経由した利根川水系の水である。なお、元荒川には ここから2.5Km下流の宮地堰まで橋は架かっていない。 |
↑建設中の堰(上流から) 鴻巣市安養寺 下流約100mにある宮地堰が老朽化したために、 新しい堰が建設されている。農業用水取水の堰で、 名称は安養寺堰となる。もっとも、宮地堰も安養寺堰と 呼ばれることがあったようだが。安養寺堰の機能は 宮地堰とほぼ同じだが、規模は宮地堰に比べ圧倒的に大きい。 安養寺堰のかんがい面積は1100ha、最大取水量3.6m3/s。 左岸の屈巣用水路、西裏用水路、栢間用水路、 右岸の外谷田用水路、新谷田用水路へ分水する計画である。 安養寺堰の付近には、江戸時代建立の道標(道しるべ)が2基 残っているが、それらには行き先として、遠方の岩槻が記されている |
↑宮地堰(上流から) 左岸:鴻巣市安養寺、右岸:鴻巣 宮地堰の歴史は古く、最初の堰は1600年頃に建設 された草堰(仮の堰)である。その後、幾多の改修を 経て、明治34年(1901)には煉瓦造の堰に改良された。 現在の堰は埼玉県が実施した元荒川支派川改修事業に よって、昭和7年(1932)に建設されたもの。 堰の下流側には三谷橋(さんや)が併設されている。 なお、同事業では元荒川の下流にあった笠原堰と 小竹堰(共に煉瓦造)は、宮地堰に合口されて廃止と なった。宮地堰は3つの堰を1つに統合したもの。 右岸から取水する谷田用水の流末は、下流では赤堀川 (一級河川)となり、最終的には、また元荒川へ戻る。 宮地堰の下流右岸には、上流の三ツ木堰で取水した、 農業用水の余水が箕田中悪水路を経て排水されている。 箕田中悪水路の右岸側には赤見台排水機場の付近から 鴻巣北中学校まで、かつての荒川(現.元荒川)の 控堤だった沼田堤(箕田堤)の跡が約300m残っている。 利水と治水に難渋したからだろうか、宮地堰の周辺には 弁才天など水に関する神様が多く分布している。 |
↑郷地橋の付近(上流から) 左岸:鴻巣市郷地、右岸:鴻巣市鴻巣 宮地堰から1.4Km下流の地点。元荒川の左岸側には 県道77号行田蓮田線が並行している(注2)。右岸側は最近になって 大規模開発されたようで、元荒川から200m南には 市営陸上競技場と埼玉県運転免許センター、400m南には 鴻巣市役所などの公共施設が立ち並ぶ。運転免許センターは 中三谷遺跡(縄文時代から中世にかけての住居跡等)の 跡地に建てられている。そういえば、宮地堰左岸橋詰から東へ 250mに位置する安養寺の八幡神社は円墳の上に建てられている。 この付近では元荒川は小さな蛇行を頻繁に繰り返している。 河床勾配が緩いためだろうか、過去には流路が安定しなかったようだ。 竹林(水害防備林と思われる)で囲まれた民家の多さが目に付く。 この付近はかつては船の所有数が多かった(注3)。 そのせいだろうか、船が着岸しやすいような岸辺も多い。 郷地橋の下流1Kmの右岸には、鴻巣市郷地の飛び地があるが、 これは元荒川支派川改修事業で蛇行を直線化した名残であろう。 なお、郷地橋の下流800mの左岸には、宮地堰から取水した、 西裏用水の流末が本戸樋管(煉瓦造り、現存せず)を 経由して排水されていた。 |
↑笠原大橋の付近(上流から) 左岸:鴻巣市笠原、右岸:鴻巣市上谷 郷地橋から2Km下流。笠原大橋(県道38号線)(注4)の 下流側は川幅が広く、往時の溜井の面影が残る。 300m下流の左岸堤防の脇には力石(天明三年)が 奉納されている。明治時代後期、元荒川の上流部には 榎戸堰(吹上町)、三ツ木堰(鴻巣市)、宮地堰(同)、 笠原堰(同)、小竹堰(菖蒲町)と5基もの煉瓦造の堰が、 約3Km毎に設置されていた。下流部には、埼玉県で 最初の煉瓦造りの伏越、柴山伏越(白岡町〜蓮田市、 見沼代用水、1887年)、埼玉県史上最大の煉瓦堰、 末田須賀堰(岩槻市、1905年)が建設された。 なお、笠原大橋上流の笠原小学校には、大正時代に 設置された旧北埼玉郡笠原村の道路元標が残っている。 元荒川の周辺ではレトロな火の見やぐらが多く見られる。 |
↑東部都市下水路の合流(上流から) 左岸:菖蒲町上栢間(かやま)、右岸:鴻巣市常光(じょうこう) 笠原大橋から約2Km下流の地点。右岸に鴻巣の市街地から 流れてくる東部都市下水路が合流する。東部都市下水路の 末端には調整池が設けられていて、排水は常光樋管を 経由して元荒川へ放流されている。調整池の付近では、 東部都市下水路の幹線水路に外谷田用水路(宮地堰から取水)の 流末が常光中落を経由して合流する。この地点には 水位調整堰として、圦ノ上堰(元荒川上流土地改良区が 管理)が設けられている。常光樋管の脇には、 文化十三年(1816)建立の石橋供養塔が祀られている。 下流の常光神社(旧名は氷川神社)にも石橋供養塔が祀られている。 ただし、これらの石橋は元荒川ではなく、近隣の農業用水路に 架けられていたものだろう(この付近の元荒川は川幅が広いので、 江戸時代には石橋を架けるのは不可能だったはずだ)。 |
(注1)川里町屈巣(くす)。屈巣とは変わった地名だが、当初は国主と表記していたという。
その昔、村社である久伊豆神社(ひさいず)の榎の大木に鷲が住み着き、
村人に色々と悪さをして、迷惑をかけていたそうだ。そこで村人が鷲神社として
祀ったところ、それ以降、鷲は巣の中に屈して外に出ることがなかった。
との言い伝えが残っている。→武蔵国郡村誌、埼玉郡屈巣村(13巻、p.411)
久伊豆神社は渋井橋から1.2Km下流の元荒川の左岸に位置する。
広い境内には見事な社叢林が残っている。なお、イチョウの大木の付近には
従是北忍領と刻まれた安永九年(1780)建立の忍領境界石がある。
(注2)県道77号線は概ね、元荒川と野通川(一級河川、元荒川の支川)の
分水界となっている。したがって、鴻巣市郷地の付近では、元荒川の
左岸側(県道77号線の北側)は、元荒川の目前だが野通川の流域である。
さらに広域的には鴻巣市の市域は、荒川水系と中川水系の流域界でもあり、
国道17号線が荒川水系と中川水系の分水界となっている。
(注3)武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)によれば、現在の鴻巣市の
区域で、元荒川に面した村は耕作船と漁船の所有数が多かった。
例えば漁船は、寺谷村8艘、市ノ縄村5艘、屈巣村10艘、安養寺村2艘、郷地村7艘であり、
意外なことだが、かつては漁業が盛んだったことがわかる。
さらに下流の鴻巣市常光や白岡町柴山では、船の種類は水害予備船が多くなる。
なお、前掲書によれば、現在の笠原、常光地区では物産に青縞が多いことが
目に付く。青縞とは縞織物の藍染めのことである。例えば笠原村が青縞二千五百反、
安養寺村が紺縞百八十反、青縞五百二十反、常光村が縞木綿五百二十反である。
かつて元荒川の沿線には、紺屋(染色業者)が軒を連ねていたようだ。
藍染めにはきれいな水を大量に必要とする。今では面影はないが、
かつて元荒川の水は清浄で豊富だったことがわかる。
(注4)笠原大橋の県道38号加須鴻巣線は、騎西道や御成道とも呼ばれている。
徳川家康がこの地で鷹狩をするために、慶長年間(1610年頃)に造らせた街道が起源である。
笠原大橋もその時に架けられた。当時としては大きな土橋(木造の橋で橋面には
土を盛って舗装)だったから、大橋と命名されたのだろう。
なお、笠原大橋は明治9年の時点でも土橋だった。
武蔵国郡村誌の埼玉郡笠原村(12巻、p.288)に
”大橋:鴻巣道に属し村の南方 元荒川の上流に架す 長さ十三間巾二間 土造”
とある。長さは十三間(23.4m)だった。
ちなみに笠原という地名は、古墳時代に武蔵国造を務めた笠原一族に由来するそうである。
笠原地区から北西9Kmに位置するさきたま古墳群(国指定史跡)は、笠原一族の墓だとされている。
元荒川を挟んだ笠原の対岸には生出塚(おいねづか)という地区があるが、
ここは古墳時代には埴輪の焼成工房であり数多くの埴輪の窯があったという。
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