荒川 (押切橋の付近) [荒川のページ一覧]
撮影地:埼玉県大里郡川本町、江南町、熊谷市
この付近から荒川周辺の地形は、荒川古扇状地から荒川新扇状地へと以降する。
地形図を見ると明らかなのだが、荒川新扇状地は現在の荒川の流路に沿ってではなく、
流路から東へ向かって形成されている。また、他の扇状地の様に等高線が
同心円状に配置されておらず、かなり不規則となっている。
しかも等高線の間隔は疎である。つまり扇状地にしては、かなりの緩傾斜だ。
その新扇状地(荒川の旧流路)を流れるのが、六堰用水(農業用水路)である。
六堰用水は江戸時代初頭に開発された。
↑白鳥の飛来地(右岸側の河川敷) 川本町本田 川本町の荒川には、シベリアから白鳥が渡ってくる。 主にコハクチョウだが、多い日には1日に200羽以上も 飛来することがあるそうだ。写真は餌付けの様子。 1日2回、10:00と15:00に行なわれている。白鳥の他に マガモ、カイツブリ、アオサギ、カラス!も集まってくる。 |
↑明戸河原(左岸から) 川本町明戸 白鳥の飛来地付近では、荒川は扇状地河川特有の 乱流のために浅瀬となっていて、所々で岩盤(凝灰岩や 泥岩)が露出している。地層の方向に沿って露出して いるようだ。その見事な景観は俗に、明戸河原と呼ばれている。 ただし、この付近の水量が少ないのは、地学的な 条件だけでなく上流に六堰頭首工が設けられていることが 大きく影響しているので、純粋な自然景観ではない。 |
↑鹿島古墳群(右岸) 川本町本田 白鳥の飛来地のすぐ南側は、荒川の河岸段丘である。 そこに延々1Km続くのが鹿島古墳群(埼玉県指定史跡) 古墳の分布は2Kmにも及ぶそうだが、古墳群として 指定されているのは1Km。埼玉県を代表する群集墳で あり、直径10m程の保存状態の良い円墳が約60基、 現存する。荒川の洪水で破壊された古墳も多いという。 |
↑石仏群(右岸) 川本町本田 鹿島古墳群の北東端、白鳥の飛来地への入口付近にある。 写真右側から水神宮、金毘羅大権現(共に嘉永二年建立、 下本田講中、水にまつわる神様だ)。金毘羅は琴平と同じ。 奥には庚申塔(文字塔)が祀られている。 川本町には植松橋の右岸付近にも、水神宮などを 祀った石仏群が残っている。 |
↑江南サイフォンの付近(左岸から) 左岸:熊谷市川原明戸、右岸:川本町本田 鹿島古墳群の北側に位置する。写真上部の雑木林 (荒川の河畔林)の向こう側が鹿島古墳群である。 左岸側には諏訪神社があり、境内社には頭殿神社が 合祀されている。頭殿社は大里町、吉見町にもあった。 江南サイフォンは大里用水(六堰用水)の送水施設。 荒川右岸の江南町と大里町への農業用水(御正堰用水と 吉見堰用水)が荒川の下をサイフォンで横断している。 固定堰のように見えるが、実は露出してしまった伏越だ。 上流にダム群が建設されたことで、荒川の河床が 年々低下したことが原因だろう。サイフォンの下流側は 落差が大きく、滝のような流れになっている。 露出した岩盤の上には床固めのコンクリートブロックが 大量に設置されていて、勇壮な景観だ。 |
↑押切橋の付近(右岸から) 右岸:江南町押切、左岸:熊谷市大麻生(おおあそう) 荒川の右岸側は段丘崖であり、堤防は設けられていない。 押切橋は平成3年(1991)竣工、県道47号深谷東松山線の 橋梁(長さ約1.4Km)。荒川の中上流部に架かる橋では最長だ。 旧橋は木造の冠水橋(昭和29年竣工、荒川が増水すると 水没してしまって渡れない橋)だった。 河床の洗掘防止のためだろうか、押切橋の橋脚付近には、 テトラポッドが数多く置かれている。この付近の地区名は 押切だが、これは”大雨になると洪水流が堤防を押し破る”に 由来するそうだ。つまり、堤防の決壊の常襲地である。 事実、押切橋の右岸に鎮座する八幡神社は、過去に数回 流出している(注)。押切橋の左岸下流へは熊谷工業団地 方面からの雨水幹線が、大麻生樋管を経由して流入している。 |
(注)八幡神社(押切村の村社)だけでなく、旧押切橋も頻繁に流出している。
旧押切橋(冠水橋)は現在の押切橋から600m下流に架かっていた。
今は橋があった痕跡は両岸に連絡道路が残っているのみである。
冠水橋が架けられる以前はここも渡船であり、押切の渡しと呼ばれた。
武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の大里郡押切村(9巻、p.56)に
”渡:村道に属す 村の戌亥の方二町 荒川の上流にあり 私渡”と
記されている。私渡とは私設(民間)の渡し場という意味である。
つまり、船に乗って対岸に渡るには料金がかかった。
押切村の対岸である熊谷市大麻生には、天明八年(1788)に
建立された馬頭観音があるが、これは道標(道しるべ)を兼ねていて、
行き先として寄居と共にふ称王多し(舟渡し)と刻まれている。
この舟渡しは押切の渡しだろう。
なお、押切橋の左岸は大里郡と幡羅郡の境界となっていた。大麻生村、川原明戸村、
武体村は大里郡だが、北に位置する三ヶ尻村は幡羅郡であった。
三ヶ尻村の田中神社(村社)は幡羅郡の延喜式内社である。
延喜式神明帳(西暦900年頃に編纂)に記載された古社を、延喜式内社と呼ぶ。
田中神社には、武甕槌命(たけみかつち)、少彦名命、天穂日命が祀られている。
武甕槌命は春日社や鹿島社の祭神でもある。
余談だが、江南町側には押切橋の周辺に珍しい石仏が多く分布している。
八幡神社から東へ250mの地点には双体道祖神、八幡神社から南へ100mには
弁財天(波乗りをしているような造形)がある。
道祖神は塞の神(フセギ)で村の守り神(結界)、弁財天は水の神様である。
また押切橋の周辺には、二十二夜塔(道標)、水神宮、九頭龍なども祀られている。