杣殿樋管 (そまどの) (その1)(その2)
所在地:行田市持田字菅野〜熊谷市上之(かみの)、忍川右岸 建設:1903年
長さ | 高さ | 天端幅 | 翼壁長 | 袖壁長 | 通水断面 | ゲート | その他 | 寸法の単位はm 巻尺または歩測による *は推定値 |
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川表 | 2.5 | 3.2 | 2.8 | 箱1.5 | 戸当り | 塔、銘板 | |||
川裏 | 1.8 | 0.6 | ― |
杣殿樋管の杣殿とは埼玉郡上之村の小字名である。上之村は箱田村、上川上村と合併し
明治22年(1889)に北埼玉郡成田村となった。杣殿樋管は成田村が、埼玉県の技術指導と
県税の補助(町村土木補助費)を受けて、明治36年(1903)に秋葉前堰と一緒に建設したもの。
竣功調査証(埼玉県行政文書 明2492-13)によると、建設費は約1,160円、
工事は請負方式(競争入札)であり、工事担当者は小沢虎之助。
小沢は地元の土木業者だと思われる。建設工事は明治36年2月15日に起工し、
同年3月31日に竣功している。見た目の規模に反して、使用煉瓦数は6154個(焼過一等)と少ない。
小規模な構造物であり、工事も順調だったので、約40日という短期間で竣工したのであろう。
杣殿樋管のように、通水断面が箱型の樋管で、ゲート形式が観音開きのものは埼玉県では
非常に珍しい。他には小剣樋管(都幾川、東松山市、1914年、二連)しか現存しないので、
観音開きゲートが付けられた箱型(一連)の樋管としては、杣殿樋管は埼玉県で
現存最古ということになる。しかし残念なことに、杣殿樋管はもう現役を退いた施設である。
杣殿樋管のある行田市持田は、行田市の西端に位置し、熊谷市上之、戸出(とで)と接している。
杣殿樋管が建設された当時、忍川は持田付近で南北に分岐し、行田市の中心部を挟むように流れ、
最後は行田市佐間(さま)と長野の境界付近(現在の行田中学校付近)で合流していた。
合流地点からはさらに東側へ向かった流れがあり、これは下忍川(現在の旧忍川)と呼ばれていた。
これに対して行田市の中心部を流れる南側の流路は、上忍川と呼ばれていたようである(→文献9)。
実際、秩父鉄道の持田駅から西へ100mの地点には、上忍川橋梁という名の
鉄道橋(1920年頃建設、橋台が赤煉瓦造り)が残っている。
上忍川は農業用水路としても使われていたようだが、元荒川支派川改修事業(昭和初期に
実施された河川改修)によって、流路の大半は現在では消滅している。
杣殿樋管から上流100mにある杣殿分水堰(忍川、昭和9年竣工)は、その代替施設として
同事業で建設されたものであり、上忍川の跡は杣殿用水路(旧忍川用悪水路)として整備されている。
現在は忍川の左岸、杣殿樋管の北側付近へ成田堰用水(荒川の六堰頭首工から取水)の流末が、
衣川などを経由して流入している。この水路には平戸雨水幹線が合流している以外には、
明らかな改修の形跡は見られないので、明治期も流路は現在とほぼ同じであったと推測できる(注)。
以上のことから、杣殿樋管は成田堰用水の関連施設として、上忍川(南側の流路)の左岸に
排水を主目的として設置された樋管であり、上忍川が増水した時には、
洪水流が北側の流路や成田堰用水へ逆流するのを防いでいたと思われる。
↑杣殿樋管(旧川表から) 橋として菅野八幡神社(写真の右側)へ参拝する通路も 兼ねていたようだ。塔があるなど、全体的に橋を 意識したデザイン(門樋型)となっている。 設計仕様書にも改良門樋と記されているので、 取水樋管ではなく、排水施設であろう。樋管の長さに対し、 川表の翼壁は非常に長く、水路を兼ねる。 |
↑杣殿樋管(旧川裏から) 写真手前に忍川の右岸堤防(昭和初期に増築)がある。 杣殿樋管から忍川の右岸堤防までは、排水路が 接続されているのだが、排水路の大半は埋没している。 川表に比べると川裏の意匠は極めて素朴であり、 本来あるはずの銘板もなく、面壁と翼壁の天端は 煉瓦小口を並べただけの簡素な造りである。 |
↑塔とゲートの戸当り(旧川表) 塔は正方形断面で一辺は35cm、高さ45cm。 現在は1つだが、建設当初は2つあったと思われる。 ゲートの戸当りは三角形で石造り。翼壁には隅石が 設けられている。ゲートの形式はマイター(木製の ゲート2門を観音開きに取り付ける)である。 戸当りの上に設けられた石造りの銘板は一枚で 施設名と竣工年の銘板を兼ねている。 スペースが少ないために、竣工年は縦書きである。 |
↑樋管の内部(旧川表) 甲蓋(樋管上部の蓋)は厚さ27cmの石材を並べ、 目地(石材同士の隙間)にはモルタルが塗られている。 構造的には煉瓦橋台を持つ石橋(桁橋)である。 使われている煉瓦の平均実測寸法は221×104×57mm。 形状が均一で色・質感も良い煉瓦である。塔の天端では 煉瓦の平の面が現れていて、平の面にはしわしわ模様が 確認できる。これは煉瓦が機械抜き成形された証である。 |
(注)熊谷市上之と行田市小敷田の境界に沿って流れ、最終的に忍川に
放流される悪水路の左岸にはわずかに堤防の面影が残る。
現在は農道となっているが、築堤跡が見られる。
この堤防については武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の
埼玉郡小敷田村の項(13巻、p.308)に記述がある。
小堤:”上之村境悪水に沿ひ村の西方にあり 上之村より字柳膳小須ヶ谷の辺にて
止む 長五町七間馬踏一間二尺”。堤防長が558m、堤防天端の幅が2.4mと
小規模だが、悪水の氾濫を防ぐだけでなく、上之村から小敷田村へ悪水が
流入するのを防ぐ村囲み堤だったと思われる。