煉瓦樋管の構造形式での分類 改訂12版:2007/07/02
埼玉県の煉瓦造り樋管は、構造形式(通水断面の形)から、以下の4タイプに分類できる。
[アーチ型] [箱型] [円形] [卵型]
(1)アーチ型 →アーチの組み方
アーチ型は初期から後期まで建設されていて、煉瓦造り樋管の標準的なタイプといえる。
建設地と設置目的から類推すると、門樋(逆流防止水門)であったと思われるものが多く、
現存31基のうち21基が門樋に相当する。アーチ型には大型の樋門・樋管が多く、特に初期に
建設されたものには、鋸状、歯状、迫り出し等の装飾や塔が設けられたものもある。
現存する全てのアーチ型樋管は、垂直な側壁の上にアーチを配置した形式(現代の区分では
アーチカルバート)であり、通水断面が馬蹄形(トンネルでよく見られる形状)のものは存在しない。
また、底版も現存する全ての樋管が水平である。川辺領圦(佐波樋管:利根川、大利根町、1915年、
現存せず)は底版に煉瓦造りのインバート(水平ではなくアーチ状)が付けられていた。
津田合併門樋(大里町、和田吉野川、1891年、現存せず)もインバート付であったようだ。(→文献23、P.22)
なお、埼玉県の煉瓦造り樋管の最大の特徴は、呑口と吐口でアーチの数が異なる形式のものが、
数多く建設されたことである。→連数が異なる理由
アーチ型のような樋管構造は、正式にはヴォールト(vault:アーチ形の天井を持つ立体構造)と呼ばれる。
現存する煉瓦造り樋管のアーチ形状は半円ではなく、欠円(四分円が多いようだ)である。
アーチを構成する部材には煉瓦または石材が使われたが、現存する煉瓦造り樋管はアーチ全体を
煉瓦で組む方式である。唯一の例外が村岡樋管(荒川、熊谷市、1891年)であり、
アーチ中央部には楔形の要石が配されている。だだし、これは構造材ではなく、装飾材である。
アーチ全体を石材(楯状迫石、切石積み)で組んだ方式の樋管としては、見沼代用水元圦(利根川、行田市、
1906年)、川辺領圦(佐波樋管:利根川、大利根町、1915年)、矢島樋管(小山川、深谷市、1926年)などがある。
なお、石造りの樋管でアーチ構造のものとして、籠嶌樋管(新河岸川、志木市、1895年)が現存する。
煉瓦によるアーチリングの組み方は、標準形の煉瓦を小口縦方向にアーチ状に積み(アーチを
内部から眺めると長手積みとなっている)、煉瓦間に発生する楔形の隙間には、モルタルを充填している。
力学的には軸方向の圧縮力に対して、複合材(煉瓦とモルタルの連続体)で対抗しているといえる。
アーチリング全体を煉瓦で組んだ場合、アーチリングと面壁の結合部には、普通形の煉瓦は
組み合わせられないので、この部分には加工煉瓦(三角形や台形に切った煉瓦)が使われている。
アーチ脚部と側壁の結合部も同様であるが、この部分には迫受石が設けられた樋管も現存する。
アーチリングの上方に数個の煉瓦を小口縦に積んで、切石積み風(くさび石)にした樋管も2基現存する。
(→榎戸堰組合用水樋管、甚左衛門堰枠)。これには装飾的意味合いもあったのだろうが、
主目的は加工煉瓦の使用個数を少なくするためだと思われる。
初期に建設された樋管では、アーチリングに楔形の異形煉瓦を使ったものが多かったと推測されるが、
現存する樋管で異形煉瓦が見られるのは天神沼樋(通水断面は卵形)のみである。
→参考:日本煉瓦製造に現存するホフマン輪窯にも、楔形の異形煉瓦が使われている。
樋門の表積煉瓦が黒煉瓦から赤煉瓦へと移行するにつれ、異形煉瓦(特別鋳型煉瓦)の採用率も
衰退していく傾向があり非常に興味深い。これは後述する箱型や円型樋門の出現と密接な関係がある。
アーチ径の大きな樋門では、アーチリングの中央部に竪積みが見られるものもある。
北河原用水元圦、倉松落大口逆除、五ヶ門樋の3基で確認できる。これは中央部付近の数列のみ煉瓦を
長手縦と小口縦に組んだもので、装飾だけでなく構造的な補強にもなる。部分的なフランス積みとも云える。
岡部町にある岡の煉瓦橋は、煉瓦の色とアーチリングの組み方が、倉松落大口逆除と似ている。
現存する樋管で使用煉瓦数が最大なのは、北河原用水元圦(行田市、中条堤、1903年)の約19万4千個、
最小は山王樋管(川島町、長楽用水、1901年)
の約1万7千個である。
なお、最大のアーチ径は二郷半領不動堀樋の3.6m、最小は辯天門樋の1.0mである。
アーチ型は小さな樋管には不向きであることが、施工上の欠点ともいえる。
アーチリングを標準形の煉瓦だけで組む場合、アーチ径が小さな樋管だと曲率と煉瓦の配置関係から
施工が不可能となる。アーチリングに楔形の異形煉瓦(特注品である)を使えば、小口径の樋管でも
施工可能だが、それでは建設費が高くなってしまう。この打開策として出現したのが、小規模な樋管に
適した新形式、箱型や円型である。この新形式の登場以降は、異形煉瓦の使用比率は激減する。
なお、アーチリングの巻き立て数は、上載荷重(土被り)ではなく、アーチ径で決められたようである。
現存する樋門では、アーチ径2.0m以上は4重、0.8m以上2.0m未満は3重、0.8m未満は2重の巻き立てである。
例えば、三軒家樋管 径2.2m→4重、大小合併門樋 径1.8m→3重、天神沼樋 径0.6×0.9m→2重。
(唯一の例外が四箇村水閘で、アーチ径1.2mだが2重の巻き立てである。)
巻き立て数が5重以上の煉瓦造り樋管は、埼玉県には現存しない。
→参考:5重の巻き立て、野田樋門(千葉県野田市、利根運河)、高台橋(埼玉県さいたま市、高沼用水)
6重の巻き立て、渡良瀬川橋梁の橋脚(栃木県佐野市〜群馬県館林市、東武佐野線)
(2)箱型
煉瓦造り樋管建設の最盛期(明治28年:1895移行)に出現してきたタイプである。
埼玉県で最初に造られた箱型樋管は、四王天圦(小山川、岡部町、1895年:埼玉県行政文書 明1806-8)である。
現存するものでは、米ノ谷樋管(杉戸町、中川、1897年)が、埼玉県で最も古い箱型樋管だと思われる。
箱型樋管とは通水断面が箱型(長方形)であり、通水断面の側壁は煉瓦造りであるが、上部(頂板)には
蓋として石材が並べられている(甲蓋)。石材と石材の隙間には、構造の補強と漏水防止のために、
モルタルが充填されている。使われている石材は、樋門の仕様書には相州堅石(神奈川県産の安山岩?)や
小松石と記されているものが多いので、埼玉県産ではないようだ。
樋管の構造を橋梁に例えるなら、アーチ型が煉瓦造りのアーチ橋であるのに対し、
箱型は桁橋(橋台が煉瓦造りで桁が石造り)ということになる。
また、施工方法を現代のコンクリート構造物に例えると、アーチ型では樋管本体は現場打ちに
頼るざるをえないが、箱型はアーチ部分の代替品として、プレキャスト製品である甲蓋を
導入したということになる。これにより既製品を現場に搬入して組み立てるだけで済むようになった。
煉瓦造り樋管の建設ブーム時に、施工性・経済性を追求した結果、煉瓦の替わりに石の蓋が
使われるようになったのであろう。同一規模・寸法の樋管を建設した場合、箱型の煉瓦使用数は
アーチ型の約70%で済む。同様にセメントの使用量も少なくて済む。
箱型はアーチ型に比べ施工が容易で架設費が安いことから施工性・経済性で勝る。
アーチ型の施工では、煉瓦を積む前に拱架(こうか)と呼ばれる木製の型枠(製作は大工に依頼)を
組んでおく必要がある。アーチ組みには技術を要し(アーチを組む煉瓦職人の単価は一般の
煉瓦職人よりも高い)、アーチ周辺の面壁には加工煉瓦や異形煉瓦が必要になるので、
煉瓦の加工や入手に手間と時間がかかる。
ともあれ、箱型の出現によって以前よりも少ない予算で、しかもアーチ型では不可能だった通水断面の
小さな樋管も建設できるようになったのである。箱型という形態は経済性を優先した結果、
誕生した量産型の樋管なので装飾が施されたものは少なく、デザインも定型的である。
現存する箱型の樋管で装飾が見られるのは、永府門樋(吉見町、市野川用水、1901年)のみである。
煉瓦樋管の外見が、創生期のアーチ型(洋風)から最盛期には箱型(日本古来の様式)に
移行していることは興味深い。箱型に使われた石の蓋は、日本古来の木造圦樋(関東流)では
甲蓋と呼ばれる部位に相当する(→土木工要録、青木国夫、恒和出版、1976、p.24)。
日本では古来より石および木で圦樋(樋管)が作られてきたが、その構造は技術的に高度な発達を
遂げていて、欧米の様式と比べても遜色はなかったという(→前掲書、p.28)。
つまり、箱型は古来の石造り樋管を複合材料(一部に最先端の材料:煉瓦とコンクリート)で改良したものといえる。
箱型の通水断面は桁構造なので、ラーメン構造であるアーチ型と比べると力学的には、
天端及び翼壁に生じる曲げモーメントが大きくなり、強度は落ちる。また石材の大きさにも限度がある。
このため、箱型には小型の樋管が多く、現存最大は2連の永府門樋(吉見町、市野川用水、1901年)である。
通水断面の最大は、永府門樋で幅2.0m、高さ1.2mのニ連、最小は坂東樋管で幅0.45mである。
なお、現存樋管で使用煉瓦数が最大なのは、小剣樋管(東松山市、都幾川、1914年)の約6万個、
最小は吉根樋管(坂戸市、高麗川、1898年)の約3,800個である。
箱型は荒川水系に15基(埼玉県全体の70%)残っているが、そのうちの8基が東松山市の都幾川に集中する。
(8基のうち小剣樋管を除く7基は農業用水の樋管で、土地改良区によって管理されている)
なお、箱型の樋門とほぼ同時期に煉瓦造りの堰が出現している。
例:旧・矢島堰(深谷市、備前渠用水(小山川)、1897年)、大島新田関枠(杉戸町、安戸落、1897年)
埼玉県に建設された煉瓦造りの取水堰の形式は、筆者が把握している限り、全てがゲートを
備えた可動堰(古い表現だと自在堰)であり、固定堰(古い表現だと草堰や洗堰)の建設例はない。
固定堰は主に荒川水系に存在し、近世から既に石造りで構築されていたものが多かったの対し、
可動堰は主に中川水系に分布し、用排水兼用の河川や水路に設けられ、木製の堰枠だったことが
大きな理由であろう。可動堰の設置目的は排水の再利用のための、せき上げ貯留だった。
恒久的な建材で築かれた固定堰に比べて、木製の可動堰は腐朽が激しく耐久性に乏しい構造物であった。
取水堰の基本構造は箱型の樋門とほぼ同じであり、両岸の側壁(多径間の場合は堰柱)の上に
石材が並べられている。この石材は箱型の樋門の甲蓋に相当するが、取水堰では渡り石と
呼ばれる通路であり、ゲートの操作台を兼ねている。形態的にも取水堰と箱型の樋門の違いは、
土被りの有無(堤防に埋設されているか否か)のみである。
(3)円型
初期から中期に、およそ10基が建設された(半分は伏せ越し)。
埼玉県で最初の円型樋管は、蔵田圦樋(中川、春日部市、1890年)であり、直径75cmの土管を
水平に2本並べた形式である。円形2連はこれ以降、建設されていないので最初にして最後の
構造形式である。蔵田圦樋の設計図は現存している(→埼玉県行政文書 明1769-2)。
円形(土管)は明治20年代には2基しか建設されていない。もう一基は明治25年(1892)竣工の
築回圦樋(松伏町)である。円形(土管)が復活するのは、明治31年(1898)の田中樋管(都幾川、
東松山市)だが、円型樋管が建設された期間は短い。
箱型樋管の台頭のためか、皿田樋管(元荒川、蓮田市、1903年)を最後に建設されなくなる。
伏越ですら遮水性の高い円型ではなく、箱型で建設した事例が残っている
例えば松高圦(八間堀〜根用水路、吉川市、1907年)、小左衛門前伏越(二郷半領用水〜木売落、
吉川市、1910年)などである。奇しくも、この2基は箱型の二連である。
円型の樋管は埼玉県に6基が現存するが、規模は箱型よりもさらに小さく、管内径の最大は
皿田樋管の75cm、最小は前吐樋管の35cmである。使用煉瓦数は皿田樋管が20,000個、
前吐樋管は3,100個と極端に少ない。
円型の樋管は本体(堤防内に埋設される部分)には土管を用い、翼壁と面壁にのみ煉瓦が使われている。
現存する設計図を見た限りでは、土管は無筋コンクリートで巻き立てられているようだ。
土管が面壁に嵌めこまれる部分には、加工煉瓦が使われている。
構造的には埋設した土管の両端(呑口と吐口)に煉瓦造りの土留め壁を設置したものである。
なお、土管をコンクリートで巻き立てた方式は、コンクリート樋管が主流となっても踏襲されていて、
明治45年(1912)に建設された護摩堂樋管と横手樋管(ともに埼玉県桶川市)の樋管本体は土管である。
また、昭和初期に建設された樋管でも土管巻き立て方式が見られる。→古い水門
煉瓦樋管の形式としては短命に終わったが、RC樋管の形式として後に復活した点が興味深い。
現存する円型の樋管の特徴は、管径が小さいにも拘らず樋管長と土被りが大きいこと、
実用性と経済性が優先されたデザインで装飾性に乏しい、である。
埼玉県に建設された円型の樋管で、通水断面が最も大きかったのは、
柴山伏越(元荒川〜見沼代用水、蓮田市〜白岡町、1887年)で、直径は約3.5mである。
管本体は土管ではなく、煉瓦で組まれていた。奇しくも柴山伏越は埼玉県で最初に建設された円型の
樋管である。しかも埼玉県で最初に竣工した煉瓦水門である。起工は備前渠圦樋(利根川、本庄市)に
次いで埼玉県で2番目だが、竣工は柴山伏越の方が早かった。最初の煉瓦水門ではあるが、
使用煉瓦数が約23万個であり、非常に巨大な構造物だった。
円型は施工的には、アーチ型の代用(あるいは変形)とみなせる。
アーチ型の樋管を建設するには、拱架(型枠)を組み立ててから煉瓦を積む必要があるが、
円型の樋管はその2つの工程を土管を使うことで省略したものといえる。
施工が容易で経済性にも優れているので、小規模な樋管では煉瓦を使わずに、翼壁と面壁が木造、
本体は土管という形式のものが、数多く建設されたと推測される。
土管の製造元ははっきりしないが、鎌田樋管(九十九川、1899年)の仕様書には尾州上等焼、
三原樋管(都幾川、1902年)の仕様書には尾州常滑焼と指定されている。
尾州とは現在の愛知県に相当し、昔から瓦の名産地でもあった。
なお、埼玉県で土管の産地と云えば、今も昔も深谷市である。
明治30年頃には約30戸の業者がいたという。(→深谷市史 全 p.960)。
また昭和30年頃の埼玉県の土地改良事業では、田んぼの暗渠排水用として、
深谷市で製造された土管が大量に使われたそうだ。
(4)卵型
卵型は卵形とも表記され、水滴を逆さにしたような形状(円の下半分が尖っている)が特徴である。
[たまごがた]と読むことが多いが、[らんけい]と読む人もいる。現在でも日本下水道協会の管規格には
残されていて、主に小口径の下水管に使われているようである。
埼玉県に現存する樋門等で卵形の通水断面を有するものは、天神沼樋(吉見町、1903年)のみである。
もっとも、総建設数も1基のようだが...町村土木補助工事として、埼玉県行政文書に記録が残るもの(→文献1)
天神沼樋の卵形は幅60cm、高さ90cmで、楔形の異形煉瓦を小口縦で2重に巻き立てたもの。
楔形の煉瓦と2重巻き立ては、埼玉県の煉瓦樋門では他に例がなく、貴重な存在である。
卵形は明治初期に、お雇い外国人によって日本に導入されたもので、都市の下水管として
建設された例が幾つかある。例えば、東京都神田の下水管(1885年建設、デ・レイケ考案、現存)、
横浜市関内の外国人居留地、神戸市の外国人居留地(1872年建設、ハート設計)である。
埼玉県でも大正2年(1913)に竣工した北足立郡浦和町(現.さいたま市)の下水道暗渠工事で
煉瓦造りの卵形管が建設されている(埼玉県行政文書 大247-75)。
卵形管の利点は、流量がごく少ない場合にも、ある程度の水深と流速が確保できることである。
低水時にもチョロチョロと水が流れるので、土砂やゴミの堆積によって管が埋ってしまうのを防げるという。
このため、下水管のような保守管理が困難な施設(埋設後の土砂の浚渫は容易ではない)に採用された。
天神沼樋のような農業用の構造物に、卵形管が採用された事例は全国的にも稀である。
しかも、天神沼樋の構造は呑口側の集水枡(楕円形のマンホール)と吐口側の樋門を
卵形管で連結したきわめて特異なものである。
アーチ型(五ヶ門樋) 箱型(北美圦樋) 円型(皿田樋管) 卵型(天神沼樋) 堰(堂前堰) |
アーチ (31) |
一 連 (20) |
2重 |
四箇村水閘(春日部市、中川、1896)、隅石、鋸状装飾 |
3重 |
谷古田領元圦(越谷市、葛西用水、1891)
、非・赤煉瓦 村岡樋管(熊谷市、吉見堰用水、1891) 、要石、鋸状装飾、非・赤煉瓦 大小合併門樋(志木市、新河岸川(旧堤) 、1898) 、隅石、歯状装飾、変則積み 榎戸堰組合用水樋管(吹上町、元荒川、1901)、塔 水越門樋(富士見市、新河岸川(旧堤)、1904) 、隅石、刻印煉瓦 *辯天門樋(行田市、旧忍川、1905)、塔、翼壁が曲面、刻印煉瓦 *小針落伏越(行田市〜川里町、小針落、1914)、刻印煉瓦 |
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4重 |
五ヶ門樋(庄和町、中川、1892) 、竪積み、隅石、歯状装飾
、非・赤煉瓦 *落合門樋(騎西町、見沼代用水、1903)、埋没、塔、刻印煉瓦 *二郷半領用水逃樋(三郷市、第二大場川、1912) *二郷半領不動堀樋(三郷市、第二大場川、1914) 断面径変化? 男沼樋門(妻沼町、利根川、1917)、銘板のみ残存 |
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不明 |
乗越門樋 (富士見市、新河岸川、1899)、銘板のみ残存 宮田落し伏越(羽生市、宮田落〜中川の起点、1900)、銘板のみ残存 岩瀬悪水圦(羽生市、岩瀬落が葛西用水を横断、1900)、銘板のみ残存 山王樋管(川島町、長楽用水、1901) 笹原門樋(川越市、八幡川?、1901) 、塔、歯状装飾、刻印煉瓦 関根門樋(行田市、関根落→見沼代用水、1902)、塔のみ残存 源兵衛門樋(行田市、源兵衛門落→見沼代用水、1903)、塔のみ残存 |
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多 連 (6) |
3重 |
倉松落大口逆除(春日部市、旧倉松落
、1891)、4連、竪積み、鋸状装飾 、非・赤煉瓦 甚左衛門堰枠(草加市、伝右川 、1894)、2連 、塔、隅石、鋸状装飾、非・赤煉瓦 名称不明(熊谷市、荒川(旧堤)、不明)、埋没、2連、刻印煉瓦、巻き立て数は不明 |
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4重 |
*千貫樋(さいたま市、荒川(旧堤)、1904)、2連、隅石 福川樋門(行田市、福川、1920)、3連、全面改修、銘板残存 |
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不明 |
文覚門樋(吉見町、文覚排水路、1893)、煉瓦残存 | |||
連 数 変 化 (5) |
4重 |
三間樋(騎西町、新川用水(見沼代用水)、1902)、埋没、塔、呑口3連→吐口1連 北河原用水元圦(行田市、中条堤、1903)、塔(鋸状装飾)、竪積み、呑口2連→吐口1連 *弐郷半領猿又閘門(東京都葛飾区、大場川、1909)、呑口4連→吐口6連 三軒家樋管(川越市、新河岸川放水路、1910)、隅石 、呑口1連→吐口2連 末田用水圦樋(岩槻市、元荒川、1915)、銘板のみ残存 |
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箱 (21) |
一 連 (19) |
米ノ谷樋管(杉戸町、中川、1897)、変則積み 吉根樋管(坂戸市、高麗川、1898) *北美圦樋(志木市、新河岸川(旧堤)、1899)、隅石、変則積み *新田圦樋(志木市、新河岸川(旧堤)、1900)、変則積み 久保樋(行田市、1901)、銘板とゲート巻き上げ台残存、石碑 永傳樋管(東松山市、都幾川、1901) 杣殿樋管(行田市〜熊谷市、忍川、1903)、塔、隅石 高畑樋管(東松山市、都幾川、1903)、塔、変則積み 奈目曽樋管(東松山市、都幾川、1903)、塔、変則積み、刻印煉瓦 *前樋管(東松山市、都幾川、1903)、変則積み、刻印煉瓦 矢来門樋(東松山市、都幾川、1903)、隅石、変則積み、刻印煉瓦 京塚樋管(川島町、長楽用水、1903)、塔 山形樋管(富士見市、新河岸川(旧堤)、1904) *新圦(幸手市、中川、1905)、隅石 笠原樋(鴻巣市、元荒川、1905) 四反田樋管(東松山市、都幾川、1905) 坂東樋管(吉見町、横見川 1905)、笠石 小剣樋管(東松山市、都幾川、1914)、塔、隅石、変則積み 新久保用水樋管(菖蒲町、備前堀川、1915)、塔、刻印煉瓦 |
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多 連 (2) |
永府門樋(吉見町、市野川用水、1901) 2連、隅石、鋸状装飾 |
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円 (6) |
八幡堰(伊奈町、綾瀬川、1899) 撤去、樋管・取水路の一部が残存 |
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卵 (1) |
天神沼樋(吉見町、天神沼、1903) 楕円集水枡、曲面翼壁(小口積み)、塔、楔形煉瓦 | |||
堰 (18) |
一 連 (3) |
松原堰(行田市、1901)、埋没、側壁が曲面 堂前堰(行田市、1901)、埋没、側壁が曲面 秋葉前堰 (熊谷市、1903)、側壁が曲面、笠石 |
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多 連 (15) |
旧・矢島堰(深谷市、備前渠用水(小山川)1897)、3門、側壁と堰柱残存、刻印煉瓦、石碑 大島新田関枠(杉戸町、安戸落、1897)、4門 五反田堰(吉見町、横見川、1898)、2門、旧堰の煉瓦散在、刻印煉瓦 八幡堰(伊奈町、綾瀬川、1899)、一部残存 横見堰(大里町、和田吉野川、1900)、3門、堰柱、銘板残存 宮地堰(鴻巣市、元荒川、1901)、5門?、側壁、堰柱、銘板残存、刻印煉瓦 笠原堰(鴻巣市、元荒川、1902)、5門、側壁が曲面、一部残存、供養塔 三ッ木堰(鴻巣市、元荒川、1902)、4門、側壁が曲面、撤去 万年堰(宮代町、備前前堀川、1902)、3門、一部残存、石碑 *榎戸堰(吹上町、元荒川、1903)、3門、隅石、一部残存 沼口門樋(川越市、伊佐沼、1905)、2門 *庄兵衛堰枠(白岡町、庄兵衛堀川、1907)、2門、埋没、刻印煉瓦 小竹堰(菖蒲町、元荒川、1909)、5門、一部残存 *古笊田堰(久喜市、備前堀川、1909)、5門 矢島堰(深谷市、小山川、1926?)、21連?、改修後も笠石と煉瓦が残存 |
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その他 (6) |
〆切掛渡井(さいたま市、加田屋川、1895)、一部残存 長楽用水掛樋(川島町、長楽用水(都幾川)、1897)、石造水路、煉瓦橋台 いろは樋(志木市、新河岸川、1903) 鉄管、煉瓦造りの吐水槽 北方用水掛渡樋(羽生市、葛西用水、1908)、一部残存、刻印煉瓦 瓦葺掛樋(蓮田市〜上尾市、見沼代用水、1908)、一部残存、翼壁が曲面、刻印煉瓦 宝珠花閘門(庄和町、江戸川、1920) 陸閘、銘板のみ残存 |
表中の*は、翼壁天端に迫り出し(煉瓦積みを段毎に少しずつずらして立体感を出した)装飾が施されたもの。
アーチの2重、3重、4重はアーチリングの巻き立て数。