北河原用水 (その1) (その2)(その3)
撮影地:埼玉県大里郡妻沼町、熊谷市、行田市
北河原用水(きたがわらようすい)は正保元年(1644)に、伊奈忠治によって整備された農業用水路。
その前身は慶長9年(1604)に、伊奈忠次によって開削された備前渠用水にまで遡る。
備前渠用水の流末は福川に落とされるのだが、それを埼玉郡北河原村の地点で用水として
再取水したのが北河原用水の始まりである。その後、流域の農地開発が進行し用水不足が
顕著となったために、寛永12年(1635)には忍領の代官 大河内金兵衛によって、
幡羅郡日向村(現在の妻沼町日向)の福川に新たに取水堰が設けられた。
しかし、それは洪水に遭遇し大破している(→埼玉県史 資料編13、p.393)。
北河原用水は名称に忍領の北河原村が冠されているが、流末は羽生領の用水路としても
利用されてきた。文政十一年(1828)の編纂である新編武蔵風土記稿の埼玉郡之一(10巻、p.93)には、
”忍・羽生二領四十六村の用水なり”と記されている。
用水路の現況:
現在の北河原用水の延長は約12Kmであり、福川(利根川水系の一級河川)の右岸から取水し、
妻沼町と熊谷市の境界を流れ、行田市を経て羽生市上川俣で埼玉用水路に余水を流して終わる。
受益地は南河原村、行田市、羽生市で、かんがい面積は約1,000haである。
北河原用水路と施設の管理は、見沼土地改良区がおこなっている。
北河原用水の水源である福川には、備前渠用水(利根川から取水)の流末が流れ込んでいる。
さらに北河原用水には奈良堰用水と玉井堰用水の流末が、それぞれ奈良川、さすなべ落しを経由して
流れ込んでいる。奈良堰用水と玉井堰用水は、荒川の六堰頭首工から取水する大里用水の支線である。
北河原用水には、利根川水系と荒川水系両方の水が流れているわけだ。
そして、北河原用水の余水は見沼代用水、羽生領用水、葛西用水への加用水(補給水)となっている。
関東流の伊奈家が開削したのだが、葛西用水路などとは異なり、用水路には溜井は設けられていない。
北河原用水の以前の元圦(取水口)は、行田市北河原の中条堤(利根川の論所堤)に
伏せ込まれていたが、大正末期から昭和初期にかけての河川改修によって、福川の流路が
大きく変更されたため、現在の元圦は当初から約2.5Km上流の八幡樋管(福川の右岸堤防、
妻沼町上須戸)に変更されている。旧元圦から上流の現在の北河原用水の流路は、
一部蛇行を直した部分はあるが、概ね福川の旧流路である。
(1)上須戸堰(右岸から) 妻沼町上須戸 北河原用水の取水堰(転倒ゲート方式)。福川の潤友橋の 上流に設けられている。福川の水をせき止めて、右岸の 八幡樋管(北河原用水の元圦)へ送水している。樋管名の 八幡とは近傍にある八幡神社に由来するのだろう。 なお、上須戸堰には階段式魚道が設けられている。 |
(2)起点付近の北河原用水路(下流から) 妻沼町上須戸 写真(1)から400m下流、城東橋の付近。 岸辺に草が繁茂しているので、一見すると素掘りの 水路みたいだが、北河原用水は全区間がコンクリート護岸である。 城東橋の東側の辻には天保年間の銘のある庚申塔、 巡礼供養塔など3基が祀られている。 |
(3)奈良川の合流(下流から) 右岸:熊谷市上中条、左岸:妻沼町上須戸 写真(2)から500m下流。水路の天端幅は約12m。 心刀橋の上流で右岸へ奈良川(普通河川)が合流する。 写真の左端が奈良川、奥から手前に流れるのが 北河原用水。ここから写真(5)までの約1.6Kmの区間、 奈良川は北河原用水と水路を共用している。 余談:上中条、上須戸は旧大里郡にあるが、下中条と 下須戸があるのは、遠く離れた行田市(旧北埼玉郡)。 |
(4)荒宿橋の付近(上流から) 熊谷市上中条 写真(3)から600m下流。左岸と比べると右岸には堤防らしき 高まりがあるが、これは中条堤(この付近は四方寺堤)の終縁部。 堤防の高さは自然堤防にすり付く形で、かなり低くなっているが、 この付近でも比高は1m以上ある。生活道路を通すために、 中条堤を穿って陸閘が2ケ所に設けられているのが印象的だ。 左岸に見える小山は土木工事の残土や産業廃棄物の跡。 小山の北側(写真左端)は堤外地だったが、現在は水田が広がる。 その中には福川の旧河道跡が約1Kmに渡って残っている。 |
(5)奈良川との共用区間の終了(上流から) 左岸:行田市北河原、右岸:妻沼町日向 写真(4)から1.2Km下流。この付近は熊谷市、妻沼町、 南河原村、行田市の行政界が錯綜しているが、概ね、 奈良川の流路が境界を規定している。奈良川は 北河原用水の左岸から分かれ、流路を北へ変える。 北河原用水の幹線には北河原堰(幅7.0m、高さ2.5mの ローラーゲート1門)が設けられている。写真左上に 見える大木の地点は盛土がなされ、白龍弁財天の祠と 己待弁天供養(元禄十四年:1701建立)が祀られている。 かつて、この付近に北河原用水の取水堰である日向堰が あったので、取水の安全と安定を祈願したものだろう。 |
(6)旧北河原用水元圦(上流から) 行田市北河原 写真(5)から100m下流。中条堤(上中条堤と北河原堤の境)に 伏せ込まれている煉瓦造りの樋管が北河原用水元圦。 明治36年(1903)に竣工した施設だが、今も現役であり中条堤を、 横断するカルバートとして機能している。使われている煉瓦の数は 約20万個であり、現役の煉瓦水門としては埼玉県で最大規模を誇る。 中条堤は明治時代まで利根川の治水の砦であり、中条堤の 上流部(現在の妻沼町)は広大な遊水地であった。 北河原用水元圦の吐口側では、さすなべ落(主に玉井堰用水の 流末)が北河原用水に合流しているが、付近は親水公園として 整備されている。そこにある五郎兵衛沼は、明治43年の洪水で 中条堤が破堤したさいの切れ所跡だという。 |